「時間」と「心」が活動テーマ、文筆業・藤沢優月です。
話は、1本前からの続きです。
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ところで、いわゆる「オオカミ少年」の話って、ありますよね。
少年が、「オオカミが来たぞ!」と、いたずらで叫ぶ。
最初のうちは、村人たちは、少年を信じて対応した。
でも、オオカミの姿はない。
何度も繰り返されるうち、じき、少年のほうが「嘘つき」とわかってきた。
ある日、いよいよ、本物のオオカミが来る。
少年は、大声で「オオカミが来たぞ!」と叫ぶ。
けれど、村人は、「また例の嘘だ」と取り合わない。
結果、オオカミに食い殺されてしまう。
著者は、この有名な伝承というか寓話を、別の視点から見たいと思っている。
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たとえばですけれど、寓話の中では、少年は「嘘つき」ということになっている。
でも、この部分を外して考えたら、どうだろう。
なかなか、深遠なものが見えてくる。
たとえば、
「オオカミが、あと10キロまで近づいた。気をつけて!」
「オオカミが、あと5キロ!」
でも、依然、オオカミの姿は見えない。
ちなみに人は、見えないものを、「ない」と考えてしまう傾向がある。
たとえば、この状態をもって、「嘘である」と言えるだろうか。
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「いや。5キロ先まで来ているなら、話は別では?」
……本当?
というのは、おおかたの人の認知は、おそらく「今日明日あさって」ぐらいの射程距離かも。
だから、5キロ先のオオカミは、依然、他人事かもしれない。
「日々、目のまえの日常で、せいいっぱいだよ」
「オオカミが、本当にこっちに向かってきたら、考える」
「もしかしたら、違う方向に、走り去ってしまうかもしれないし」 と。
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これこそ、注意しなければならないこと。
なぜなら、見えなかったはずのものが、
「形として、見えるようになる」
これは、手遅れの段階。
だって、その時点で、準備(備え)ができていないのだから。
「見えないものに対して、想像力を使って、備えておく」
これが、脳を大きく発達させた「人間」という種の、安全への対策。
逆に言って、この部分を生かせなかったら、対処のすべはない。
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今、現在進行形で、急激に、このような状況が進んでいますよね。
形として見えづらい、さまざまな状況や情報。
それらはまだ、具体的な形には、なっていない。
でも、法案とか決定事項とか、メインストリームに上がってこないニュースとか、諸々データという形で、断片を知ることができる。
いわば、「5キロ先にいるオオカミ」の気配なら、刻々わかる状況。
だから、学んで、予防策を重ねて、備えを重ねている人たちも。
あるいは、「見えるもの」に注意を引かれて、丸腰になっている人たちも。
「姿がないから、大丈夫」
でも、ある日いきなり、オオカミが大群であらわれたら、どうするのだろう。
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