ちょっと、命のことを | 惑わされないで、自分の選択を。自分の時間に、後悔のないように[1]
1年でいちばん陽が長い、夏至。
その夏至をまもなく迎え、季節は本格的な夏に、向かおうとしています。
ひとことふたこと、メッセージをお許しください。
今、感じていることを、綴っておきたいです。
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これは ONSA apartment. Room(参加者専用サービス)にも書きました。
ですが、上の記事は、参加者しか見られないので、ここでも少し言及。
「ポリティカル・コレクトネス」という言葉があります。
直訳すると、「政治的正しさ」。
もともとの概念は、
「特定集団の誰かを、不快にさせるような表現は避ける」
このような、正統な意図があったと思う。
この意味での運用なら、すごく重要ですよね。
たとえば、いわゆる黒人の方に対する、嫌な表現。
あるいは、LGBTQ の方に対する、嫌な表現。
当事者の立場になったら、こんなに嫌なことはない。
しかも、不当です。
まったく、妥当性がない。
だって、なぜ生まれとか、肌の色とか、自分に責任のないことで、そのような扱いを受けないといけない?
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この、正統な意味での「ポリティカル・コレクトネス」なら、大賛成。
でも、現在「ポリティカル・コレクトネス」の意味するところは、個人的に、かなりずれてきているように感じています。
著者的な言葉で表現するなら、要するに今は、こういう印象がある。
「八方美人の、教科書的、事なかれ主義」
衝突を避け、摩擦を避けようとする。
そうしているうちに、あれこれ考えるのがめんどくさくなり、じき、考えなくなる。
(考えることには、たくさんの思考力とエネルギー、勉強と実体験が必要だから)
ほどなく思考停止し、自分の意見を持つことを、じりじりと回避しはじめる。
この空気感は、すごく危ないぞ……と思います。
しかも、「空気」って見えないから、余計あぶない。
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あらためまして、近いところに話が戻り、本ブログを読みに、立ち寄ってくださっているあなた様。
「お仲間さん」の皆さま。
本をつうじ、ご縁をいただいた、あなた。
「人は、意見を持たねばならぬ」
私は、そう思います。
意見がないことを、「博愛」とか「心が広い」「性格がいい」とか取り違えていたら、とんだ勘違い。
命に関わる、大事なことだと思っているので、続きます。
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