

S. Y. さん(30代/富山県よりご参加)

質問[1]
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。
過去は、今をよりよくするために、参照するもの。
未来は、危険を避けるために、想像するもの。
安全のために使えないなら、過去や未来を憂うことは、むしろ足枷となる。
そのようにワークショップ中に教わり、今まで苦しかったことの原因が心から納得できた。
私は、過去や未来について、生産的に捉えるというロールモデルを見ていない。
過去をネチネチと掘り返し、未来はただ不安なだけで何もしない。
それが、私の学んできたことだった。
そんな無駄なことをするくらいなら、もう何も考えず、「ポジティブに」、今だけを楽しめばいいのではないか? と刹那主義的な考えに走ったこともあった。

今回のテーマであるところの、「今、ここ」とは、刹那主義のことではなかった。
過去や未来も客観的に俯瞰した上で、私自身が、一生命として、「今」、最も安全に生きられる道は何か? と考えることだ。
その「今」、毎瞬の選択の連続。
その瞬間は誤差のように見えるような小さなズレでも、重なり続けると、たどり着く場所は大きく変わる。
それは、手帳を厳密につけるようになると、納得がいく。
「今日はこれをする」と決めて、1日をスタートする。
例えば、途中で、1時間ほど「ちょっと休憩」と、脱線したり、違うことを始めてしまうと、物理的に、1時間分やろうと思っていたことができなくなる。
この積み重ねで、全く進み具合は変わってしまうのだ。

こうやって書くと当たり前のことなのだが、手帳の付け方がルーズだった頃の私は、このことを感覚として理解できていなかった。
1時間脱線しても、無限にある時間のどこかで帳尻を合わせられると、どこかで信じ込んでいた。
手帳の、使える時間帯にきっちりと線を引き、今週やることをブロックのように埋めていくと、「時間は有限」とはっきりわかる。
これにより、「今、ここで1時間使ってしまうと、今週やろうと思っていたことがまた一つ押し出されて、できなくなる」ということがわかる。
さまざまな誘惑があっても、「それはダメだ」と自分にストップをかけられるようになってきた。

これは、容量が決まっているお弁当箱に、どの配分でおかずを詰めるかを考える作業に似ている。
私という小さい弁当箱で、栄養バランスよく腹を満たすには、ご飯と野菜とメインのおかずで、すぐにいっぱいになる。
デザートはほとんど入らないのだ。
「私はお重箱になれる! おかず10種とデザート3種入る!」と幻想していたのが、過去の私だったということだ。
自己理解が不十分だから、未来はただ、不安でしかない。
現実には私は重箱ではないのだから、その前提で作ったプランは機能せず、挫折するしかない。
そうして過去を悔いてばかりいるようになり、結果的に何もできなくなる。
私は、もうそのような無茶苦茶を自分に強いるのはやめたい。
私は、次世代にそのような生き様を教えたくない。

それでは、現実に何か一つ、行動に移してみようというのが後半のワークだった。
私は、いつも気になっていたけども、まあいいかとスルーしてきた小さな事務手続きを選んだ。作業規模としては、30分くらいを見込んでいる。
ワークショップ・クラス終了後の1週間は忙しくなることがすでにわかっていたので、その翌週でいつ時間が取れるだろう? と考えた。
それでも、びっくりするほど時間がないことに気がついた。
ここならなんとかいけるか? という日に予定してみている。

今の私には、この一つの事務手続きの時間を取るのがやっとなのだ、という現実感覚が見えてきた。
私は、本当はもっと大きなテーマを扱いたいと思っていたが、それを一度にやるのは無理だということがよくわかった。
まず、そのテーマを噛み砕いて30分くらいの小さい作業にまで分解する作業が必要だ。
それを、1週間に1つとか、小さく分配して、やっとできるのだろうな。
その程度の時間しかないので、優先順位の低いことには、とても手を出していられない。

また、「どうすれば心地よく、楽しくできるか?(=ごほうびの設定)」という観点も、自分には抜け落ちていた。
今までの私の「ごほうび」は、無秩序だった。
その時、目についた時の気分で買うことを繰り返していた時期もあったし、今は「無駄遣いできない」と、全く我慢している(0か100か)。
我慢してみているけども、いつまで我慢していればいいのかというルールもなく、「もうあれを食べることはできないのかな…」と少し寂しい気持ちになっている。
一貫性がない。
自分に対して愛があるやり方とは言えない。

私と同じ特性を持つ、とある著者さんが、書籍の中で、「私はカフェラテが大好きなのだが、ごほうびに使いたいので普段は飲まないようにしている。それをごほうびに設定して仕事をすると、とてもはかどるし、達成した時の喜びはたまらない」
と書かれていたのを読み直した。
これを私もやってみよう。
そう考えながら過ごしていると、今まで「やってみたい」と思っていたことが目に入るようになった。
まずは、いつも通り過ぎるだけだった和菓子屋さんで、苺大福ののぼりが立っているのが目についた。
かつては、毎シーズン買うほど好きだった。
「今、甘いものに使う時間とお金はない!」と考えていたが、やっぱり食べたい。これがごほうびなら、がんばれそうだ。
それに、季節限定商品なので、苺の時期が過ぎるまでにやらなければ! というリミットもできてちょうどいい。
ただただ、タスクが湧いては処理、湧いては処理…としていた時に比べて、ワクワク感がある。
がんばり続けるために、自分でちょっとした幸せの種を蒔き続けるというのも、一つのスキルなのだな。

「このくらいのことでごほうびなんて…もう少しできてからにしよう」と、約束破りをしないように注意したい。
意識しないと、そうしてしまいそうな自分がいる。
約束を破ると、「次もがんばっても、結局ごほうびはもらえないんだろうな」と自分との信頼が崩れ、がんばる気力が続かなくなってしまう。
そして、「いつも我慢しているんだから」と、関係ないタイミングで買ってしまいそう。
これこそ、一貫性のない行動だ。
質問[2]
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。
私は、まず、小さなことを達成したい。
私は、一つ一つの作業規模に見合った、小さなごほうびを設定したい。
私は、達成した自分を認め、「やったね!」と喜びながら、約束通りにごほうびを味わいたい。
私は、この練習を重ね、徐々に大きなテーマにも挑戦したい。
大きなテーマを、少しずつ取り組める規模にまで分解し、一つ一つを快適に取り組める方法を考え、楽しみながら進んでいきたい。
私は、これを、自分の持ち時間の範囲で進めていきたい。
私は、自分の持ち時間と、一つの作業にかかる時間を、より正確に把握したい。
私は、「自分の決めた時間の中で、自分の決めていたことが達成できた!」という喜びを味わいたい。

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加)

質問[1]
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。
私は、考えてもしかたのないことに、しばしば引っ張られている。
私のなかは、過去の記憶や未来への不安、そして何なら自分ではなく他人の心配をすることで、いっぱいになってしまうことがある。
自分が働きかけて変えていけるのは、常に「今」しかない。
そう学んでみると、自分のやっていることの奇妙さが、際立って見えてくる。

いざワークに取り組んでみると、私は、自分の「できなさ」に圧倒されることになった。
「わかる」と「できる」の間には、やはり大きな差がある。
私はまず、自分がしたいことや気になることのサイズ感を、うまく認識できていないとわかった。
「大・中・小」に分けてみるということにも難航した。
「小」だと思って書き出してみたいくつかは、漠然としていてすぐにできることではなく、「小さくはない」ことだった。

私は、「小さいこと」として挙げてみたことを、あまりに小さすぎることとして自分でも馬鹿にしてしまうのでは、ということにも気づいた。
具体的に考え始めると、私は徐々に、「それがそんなに大事なことなの?」「そこまでしてやることなの?」「いったい何の意味があるの?」と自分に詰め寄られ、身動きが取れなくなるような心地がした。
そこには、自分のことを真に受ける「姿勢」の問題と、「やり方が分からない」という問題の、両方が潜んでいるように思われる。

私は、「自分で限度を決める」ということも、とても難しく感じている。
どの加減であれば、自分は心地よいのか。
小さく試してみることについてのゴールを、どこに設定するか。
どのようになれば成功と認め、自分で自分を褒めて良いのか。
なじみ深い「0か100か」でとらえると、何も決められない状態になってしまう。
私はこれらのことに不慣れである。
意識的に練習をしないことには、いつまでもできないまま逃げてしまう。
この「できなさ」はもどかしいが、私は、逃げ続ける自分ではいたくない。

私は、「不快」が自分にとっての問題であり、解決が必要であるとは、考えていなかったのではないだろうか。
どうやら私は、自分に「快」「心地よさ」を与えようとしていないことがあるのではないか。
あらためてそう意識すると、悲しさと悔しさが湧いてくる。
私は日常的に、「これがそんなに大事?」「何か意味があるの?」という自分との問答を、大なり小なり繰り広げている。
そこで、「言われてみれば、それほど大したことではありません…」と屈してしまえば、私は自分の違和感や小さな願いに対して、何の努力もしなくて済んでしまう。
でも、その屈する瞬間とはきっと、私が私を見放す瞬間でもあるのだ。
自分に対して「心地よさを味わうな」と言っているのと、同じことだ。
私は自分に、とんでもないことをしている。

私は、取り組む必要のあることだとは分かったつもりでも、やり方が分からない、すぐにできそうにはない、うまくいくか分からない…ということには、とたん動きが鈍くなってしまう。
私が自分に屈する瞬間はおそらく、正当な努力から逃げる瞬間でもある。
ずるい自分が、どこかホッとしてしまう…。
私はここに、取り組まなくてはいけない。

私は、私を満たして幸せにしたいと望んでいるはずなのに、自分がそのための行動を見せていない。
「私を心地よくする」ということに、自分が本気になっていない。
むしろ、阻んでいるようなものだ。
自分にある「矛盾」を、今回も発見した。
私はもっと、自分に一貫性をもって接する必要があるのではないだろうか。
質問[2]
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。
私はもっと、自分にとっての「快」「心地よさ」を、味わっていきたい。
私はもっと、欲しいものを欲しいと望み、自分でつかみにいけるようになりたい。
私は、自分の「変わろうとしない」パターンを、打ち破りたい。
私は、いつでも「今」の自分を満たすのだということに、自分が一貫性を持てるようになりたい。
私は、行動によって、自分をもっと信頼したい。
私は、小さなことを馬鹿にせず、大切にする自分でありたい。
そのために私は、必要な練習を続けていく。
そのことに、「今」という時間をかけていく。

S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加)

質問[1]
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。
今回のワークショップに参加することで、あなたは、何を発見しましたか?
気づいたことや、意識が変化したことは、何でしょう。
私は今回、ワークショップ中に書き出したいくつかの目標に対し、それが大きい目標なのか、中くらいのものなのか、小さいものなのかの区別が上手くつけられないのだと解った。
小さな目標の定義を習い問われた時も、直ぐに思いつくことも上手く言うことも出来なかった。
大きな目標を持っていてもいいけど、そのための小さな目標が無いのでは、私にとっては何もしていないのと同義なのに。
私は、とても大きすぎる目標だけに向かっていた。
自分のキャパや実力で、直ぐに届く目標ではないと思っていたのに細かく考えることもせず、今はもうそれ以外道はない位に思い込んでいた。
要は、自己を理解することが出来ていなかったのに、自己理解の作業を怠ったまま、現実だけを動かそうと必死になっていた。

また、私はワークショップ中に「夕飯のバリエーションを増やしたい」と発言した。
それは何故だろう? と自身に問うた際、「私は自分の機嫌を自分でちゃんととれるようになりたい。私は私の身体をもっと大切にしたいから。」という答えが出た。
でもこの1週間を振り返った時、夕飯が云々ではなく、「ちょっとキャパオーバーなんじゃないの? 最近上手く身体を休められていないよね? もっと自分のこと理解しないとやばくない?」という自分の声が聞こえてきた。
また、やってしまったなぁ。
私は自分を何様だと思っていたのだろう。
改めて私は、これからの世界を生きていくために、自分なりの意見を持てるようになるまで、そして持ってからも、いつでも自己理解を深めていくことが最優先事項だと改めて思った。
質問[2]
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。
あなたの目標......「夢をかなえる」は、何でしょう。
私は、心も身体も疲れないスケジュールを組めるようになりたい。
私は、小さな目標を繰り返しやれるようになりたい。
私の意見、方針ががまとめられるようになりたい。
だから自己理解をさぼらない。
私はいつでも自分を生きることができるようになりたい。