M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加)
とても大きな「勉強会」でした。今も心と身体が驚いています。
「自分と自分との繋がり」「自分と社会との繋がり」をそのように断ち切られていたのかと、言葉と実感を持って理解できたように思います。
だから辛かったのか、「生きるな」と暗に言われそれに従わないといけなかったことは、今書いていても涙が出るほど辛いことだとわかります。
1番初めの元凶はわたしのせいではないけれど、ほんとにごめんね、と自分に謝りたいです。
孤立感に半ば慣れていたとき、それも辛かったんだと思う。
そして「何かがおかしい」と歩み出して、そして健全なほうへ繋がるときにも起こる辛さもあると思う。
繋がろうとしてるのに辛い(せめて優しくしてくれ、というのは甘さなのだと思う)、ほんとに人生前半で失ったものはその辛さが大きさを物語ってくれるように感じます。
「生きたい」と強く思います。だめだ、書いて泣けてきた。
「勉強会」のお昼休みに、今年も出したアラン編みのセーターを着てショールの温かさを身体に巻き付けながら、テイクアウトの温かいドリンクを両手に持って、冷たくなってきた風を感じながら、木々の黄色を受け取り、街のクリスマスの飾りを楽しみながら、ようやく再開したのか観光バスで賑わってる雰囲気やそのバスのツバメのロゴマークが可愛いなあと思い歩いたことを、その感触を今も思い出しています。
わたしは、そのことに、遠慮したくないです。
生きることに遠慮したくない。
すごく感情的な PAY FORWARD になってしまいましたが、もうこのまま出します。
どんな自分もいていい、からです。
ほんとうに、今回もありがとうございました。
まだまだ歩き続けます。
M. K. さん(30代/福岡県よりご参加)
学生の頃にオフのスイッチを入れることが大事だと聞いていた。
いかにもよさそうな何かをすれば、オフのスイッチが入るんだと思っていた。
なんとなく違うとわかってきたこの頃、ぴったりのお話だった。
自分が心地いいかどうか、居心地がいいと思えているか。
そんな当たり前のことを私はいつだって自分と相談しながら生きていくんだなって思った。
今度は何をして休もうか、何をして楽しもうか。
いつだって私は自分に正直であること、自分を満たし、生きていていくことを約束します。
M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加)
今回のテーマは「身体の整え方」と「心の整え方」でした。
まず、今の自分の「心」と「身体」がどういう状態になっているのかということの説明を聞いて、すごく納得しました。
そして、自分がこれから身体と心のために「していかないといけないこと」も学びました。
特に「身体」についてのすることは、本当に基本的な生活習慣や規則正しい生活を送るということでした。
私は頭ではわかっているのにこのすこやかな習慣、生活をすることがなかなか難しいのだと改めて気づきました。
また「心」については「やさしさ」と「甘やかし」は違うので注意するということを忘れないようにしたいと思いました。
正直、今まで私は身体も心も整え方がよくわかっていなかったし、真剣には考えていなかったように思います。
この「勉強会」に参加して色々学んだり、確認できたことはとても良かったと思いました。
ありがとうございました。
A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加)
・グラデーションがわからない人たちに育てられた。それはとてもしっくりくる。
そうだそうだ、と思った。だから極端になってしまうのか、って思った。
・わたしは切り替えができないよな、って思っていたけれどそういう習慣のない人に育てられてそのやり方をみたことがない、やったこともない。ということ。グラデーションのこととともに納得がゆく。わたしが憧れてやまなかったあの空気感、雰囲気はそれだったのかと。
・家での時間を振り返るとわたしは仕事の合間の「お茶の時間」が好きだった。けどどの時間もわたしにとっては永遠に続くみたいだった。
わたしには見えるもの、と彼らには見えないもの。
わたしには彼らよりもたくさんのものが見えているから休んでても気が気ではなかったよね。
彼らが見落としているたくさんのことがわたしは気になるし彼らがそこには気を止めてないのがわかるからわたしは余計に焦る。
噛み合わないよね。わたしはとてもしんどかっただろうな。
・視野かけがあるとパニックになる、という話は自分のこととして興味深かった。わたしも算数だけが深く落ち込んでいるから、それでうっかりミスが恐怖になってしまってるのかな、と思った。わたしはケアレスミスで追い詰められる母を見てきたからかな、と思っていた。
デフォルトが怖くて強張ってて、しかも視野かけの怖さが重なったら相当怖いよね。
そしてその怖がりを家では隠しておかなくてはならなかった(堂々としていなくてはならなかった)のだからねじれた心が枯渇して当然だったよね。
・酔わないと決める。
この決める、ということがわたしはなかなかわからなかったけど、一発でできるようにならなきゃいけないって思ってたんだとわかった。
もう2度とごめんだ、って思ったのに気づくと同じ場所にいたりするとそのたびに自分ってダメなんだ、と思っていた。
失敗するなら選んではいけない、というのは原家族のひどいルールだよね。
それをまだ当てはめてしまってるんだ。変化には時間がかかる。そのことを改めて認識。
・わたしは「できない自分はいてはいけない」とやっぱり思っていた。ONSA にもそうだと思っていたんだなと気づいた。
失敗してもいい場所っていうのがいまいち飲み込めていなかった。
ここにいること、居続けることは今はわたしの命綱だと思うとともに、わたしはいてもいいんだ、ということを恐る恐る認識。
・やっぱり「人よりもできること」「完璧であること」を目指してしまうんだな、と思った。それしかみたことがないからっていうことも。「自立・健康」はいやらしいこと、ずるいことだと教わっている(!)なんてことだろう。健康で自立している人はお高くとまっていていやらしいやつ、という見方。
わたしは自分の生まれがもう下町の下品なお家だから仕方ないんだ、自分は。と思っていた。そういうのは望めないのだと思っていた。
憧れがあったけど、自分もそうできるしそうしてもいいなんて思いもよらなかった。身分が違うから、ぐらいに思っていた。
・わたしは纏綿状態の密な結びつきに慣れさせられてしまってるんだなって思う。
人と繋がる=密って思ってたと思うしそれは心にも体にも染み込んじゃってる気がする。
ただ、だんだんと密っぽい人や関係の匂いがわかるようになってきたと思う。
あ、これ臭うぞって気づくことが増えてきたよね。
周りの人がほとんどそうっていう数字もここで学んできて、それを踏まえてやはり自分自身が心地よいと思うことを実践することが本当に大事だと思う。
周りに飲まれたり、人に流されていてはいけないね。
・優しい人まともな人はとても地味だということもすごく納得できた。
自分の周りにも、いる。今まで見えていなかっただけでいる気がする。
わたしにとってはまともな人もあまり慣れないから逆に怖かったんだと思う。
どう接していいのかもよくわからないから。
親からそういう人は気をつけろ、みたいに言われてたことが刷り込まれてる面もあるよね。
気をつけるべきは反対の馴れ馴れしい人の方なのにな。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加)
自分の「身体」と「心」に起こっていることを確認しながら、大切な知識を得ることができた。
自分のこと、として理解を深めることによって、「整える」ということはほんとうに自分のためになるのだと実感した。
回復の道のりは中長距離走。
私は自分自身のために少しでも有利な環境を与えて、全面的に「味方」でいたい。
「身体」や「心」を整えるための方法は、思ったよりもシンプルで、難しいことではない。
しかし、どれも意識的には行ってはいないことばかり。
私には、私を大切にするために、まだまだできることがあると分かった。
知識を得ることと、自分を知っていくことの両方が、少しずつ重なってつながって、自分の力になっていく。
いったい自分は何が満足なのか、どんなペースがいいのか、何が心地よいのか。
自分なりの答えを出す、自分で決める、ということは、たいへんな難問だと感じてきたが、材料が少しずつ増えていくと、自然と自分のなかから答えが出るのではないか、と思うようになった。
もし知識がなかったなら、これまでもそうだったように、よくない習慣や内なる声に悩まされ、ぐるぐるに巻き込まれ続け、進めなくなってしまうだろう。
これからのためにたくさんのヒントを得られた、濃密な時間だったと感じる。
私は、進んでいきたい。「自分」として、生きていきたい。
そのために、勉強を、練習を、続けていこうと思う。
T. M. さん(40代以上/石川県よりご参加)
回復をはじめてから数年。
はじめのうちは、教わる知識と過去の経験や思いが合致して、自分が苦しい理由がどんどんと明かされていく感じだった。
今は、学びの質が変化してきている。
自分が「できていない」という事実を、水が浸透していくようにじわじわと自覚していくような感じだ。
今回もそうだった。
数か月程前から、変わらずに長く続けている趣味も、ここ数年ではじめた新しい趣味も、とても重荷になっていた。
「高みを目指さなくていい。ただ、楽しめばそれでいい」ということが、いまいち自分の感覚になじまずにいた。
自分が自分を追い込んでいる。
意義を見出さないと自分が間違っているような気がする。
そんな気持ちから逃れられないでいたけど、何度も話を聞き「なるほど」と思い、みなさんとのシェアに「私も一緒だ!!」と共感する。
今回もそれを繰り返して、じんわりと「できていないという事実」が自分に染みるように入ってきた。
ようやく「追い込むことから離れて、ただ楽しんでみる」ことに、じりっと一歩近づけた感触がしている。
私は「趣味をするなら人とつながらなければならない」と思っていた。
もちろん、それは最終目標のひとつなのだけれど、私の場合、それが最初から達成できるような環境じゃないと意味がない、とばっさり切り捨てていた。
例えば、一方向に近いSNS上のライブ。
実際の関係を結べるわけじゃないのだから、参加しても意味がない、とまで思っていた。
完全に「0か100か」の発想だ。
だけどよくよく考えてみれば、それが楽しければそれでいい。
もっと自分に寄せて考えてみれば、人間関係の作り方自体を知らない私にとっては、人との色んなつながり方を学ぶ格好の場であることに気がついた。
ワークショップの後、実際に参加することにした。
ライブで少し教わりながら、趣味の作業を個人でコツコツと進めていくだけの場。
時々、主催の方がハンドルネームで呼びかけてくれて、コメントを返したりした。
気が付けば、あんなに重荷だった作業も、集中して楽しく進めることができた。
「あー、楽しかった!」
こういう勇気と小さな体験を繰り返していきたい。
「勉強会」にでるたび、お仲間さんとのシェアが自分の理解と励みにつながっていると実感します。
皆さま、今回もありがとうございました。
Y. W. さん(30代/愛知県よりご参加)
私が、世間にある「リラックス法」を試してみても、いまいちくつろげなかった理由。
それは、私が自分の身体や心と切り離されていたから。
今回も「私が悪い、おかしい」のではなく、「土台の部分にゆがみが生じている」ことをたくさん学んだ。
そしてその被害の大きさ、影響力の大きさに、私は愕然とした。
「限度をもつという習慣がない」というのは、本当にそうだと私は思った。
でもこうやって説明されなかったら、私は一生、自分のしてることに疑問すらもたなかったと思う。
「疲れ果てるまでやる」、時には「疲れ果ててもやめられない(もっとしなくちゃ…が優先になる)」が、私の「ふつう」だった。
その手前の「疲れる前に、休もうか」なんて、私の人生にも発想にも、ほぼなかった。
周りにそうしてる人もいたけど、私から見たら「ずいぶんのんびりしたペースだな」という認識だった。
「信じられない」というのが、正直なところだった。
こうやって知ることができて初めて、私は「あ、これはこのぐらいでやめてもいいんだ」という発想や行動が取れる。
今回、このことが学べて本当によかった。
今の私は「今までこうだった、だめじゃん」と自分を責めるのではなく、「うん、やめよう、こっちの習慣になじんでいこう」と思える。
どれだけ長い間やってきた習慣でも、不健康で嫌だと思ったら、私が変えていっていいんだ。
習慣を変えていくのは本当に手強くて、何度も何度も引き戻されるけど、でも「知らずにそのままやり続けてしまう」より、確実に違う一歩を踏み出せた。
そのことが本当にありがたいと思った。
私は勉強する中で「親と私は、体質が違う」と思っていた。
親と違う感覚を持っている私は、まぁ大丈夫だろうと思う部分もあった。
でも今回学んで「体質が違っても、あの親に育てられたら、親の認識や行動パターンを継いでしまうんだ」ということに気づいた。
これは、ショックだった…。
「それ以外を知らないから、できない」ということが、私は本当につらい。
健康な習慣に変わりたいと思っても、まず「知る」がないと、ハシゴすらかからない。
これがとても大きな問題だと思う。
それを正確に、わかりやすく教えてもらえる場があることが、本当にありがたいと思う。
本来、もっと「楽しい!」「ワクワクする!」といった気持ちでいっぱいにできた、私の時間。
それを私は、親の面倒を見ることや支配からの恐怖によって、根こそぎ奪われてしまった。
私は、大事な子ども時代を、心と身体を硬直させることでやり過ごすしかなくて、それによって今も「楽しい」がいまいちわからない。
興味があることをやってみても、なんかピンとこないし、ちがうと思ったり、でも楽しいはずだと思い込んでみたり…
我ながら、おかしなことをしていて、とても疲れるし、悲しくなる。
「楽しい」を感じることに、こんなに苦労してるなんて、悲しすぎる。
この「見えない暴力」の存在。
訴えることが難しいのに、こんなにも私の人生に被害を及ぼして、今にも多大な影響を残している。
一見、問題なく暮らせてるように見えても、心や身体と切り離されていたら、どれだけ生きてもむなしいばかりだ。
そんな、見えにくい問題にのしかかられていることが、私は本当にくやしい。
…でも、私はもうここから変わってゆけるんだ。
何が不健康なのかも、整理整頓してもらったおかげで、明確になっている。
健康な生き方や習慣、その方向も、たくさん教えてもらっている。
改めて振り返ると「こんなにも平凡なこと」ばかり。お金もそんなにかからず、日常ですぐできる。
でも「こんなにも平凡なこと」すら、私は見たこともなかったし、したこともなかったんだ。
だから私は、それをコツコツやって、私の心と身体を健康にしていこう。
時間はかかる、一気にできないし、失敗するしでイライラするだろうけど、でもひとつやれば、ひとつ必ず進める。
その「確かさ」が私の中にしっかりあるから、それを信じ、自分を励ましながら進んでいこう。
私はもう、これ以上「不健康な世界、親の生き方」にとらわれていなくていいんだ。
たとえどんなに小さくても、私の決意と行動があれば、確実に私の世界を変えてゆける。
そのことを大事にして生きていこう。
優月さん、スタッフのみなさん、お仲間さん
今回もありがとうございました!
S. Y. さん(30代/富山県よりご参加)
中学・高校・大学と続けていた趣味の合唱は大好きだったが、確かに、「うまくならなければいけない」「向上心がなければ意味がない」と思っていたなと思う。
そうでなく、もっとライトに趣味として関わっている人も確かにいて、楽しそうだなあと思っていた。
そういう人は、合唱そのものだけでなく、そこで得られる「人とのつながり」を楽しんでいるような印象だった。
私は、趣味でも仕事でも勉強でも、目的志向型で、「その目的のために人がある」ような考え方でやっていたような気がする。
そうでない世界も、たくさんあったんだ。
「目的」ではなく「人(自分の快)」のために動いてもいいんだ。
私の夫は学生時代から、週刊の漫画雑誌を3種類、毎週買って読んでいる。
近年は、ファッションに関するメルマガも、追加で毎週購読している。
仕事が忙しいと言うので、「そういう時間を削ればいいじゃない」と私が言ったところ、「そこだけは削れない…! それがおれの最後の砦だから」と返され、疑問に思ったことがある。
私は、仕事や学業が忙しくなった時、真っ先にそういう時間を減らしてきた。
自分の中でこれは「向上できる」と思う趣味(合唱やヨガ)だけは残して、単なる気晴らし的な、「成長につながらない」と思う娯楽は切り捨ててきた。
それは、『夢かな手帳』でいうところの、「グレー時間」だと、自分の中で見なしてきたからだ。
「向上できる」とか関係なく、趣味は趣味として持っていていい、ということは、ものすごい驚きだった。
それでほっとリラックスできるなら、それは「グレー時間」ではないということなんだろう。
長女の最近のブームは、子ども用のマニキュアを塗ることだ。
私が中学生の時、友達の家でマニキュア遊びをした時は、これは一体何のためにやるのだろう、何が楽しいのだろう、こんなことやって意味あるのかな、無駄だなと思っていた。
(そして無駄だな、面白くないなと思っていてもそう言わずに付き合うのが、これまた被虐らしさということなのだろうか)
長女は嬉しそうに私の足の爪にも塗ってくれた。子供用とはいえ、遠目から見るとけっこう華やかになる。
いいかもしれない。何より、長女のウキウキワクワクした表情が嬉しい。
人の爪も観察して、いいな、と思うネイルも注目するようになった。
仕事上あまりできないし、子育て中ということもあってサロンに行く時間を確保することは難しいけれど、少し自分の中で世界が広がったような感覚がある。
「子どもと遊ぶ」ことを勧められたのは、こういう理由があるのかもしれない。
母は、メイクや着飾ることについて、無駄だという意見だった。その影響は大きく受けていたと思う。
ただその意見もコロッと変わる時があって、急にネイル付きの雑誌を買ってみたり、服に凝り出してみたり(それも、一時的に同じお店で頻繁に買いまくり、ブームが去るとパタっと買うのをやめるという極端な形で)しながら、「今まではおしゃれは無駄だと思ってしてなかったけど、こういうのもいいわね〜」と言うことがあって、「あれ、昔言っていたことは何だったんだ?」と私は混乱することがあった。
ということで、皮肉なことに、私の長女に子ども用のマニキュアを買い与えたのも、私の母なのである。
私が子どもの時には、間違いなく「無駄」と言って買わなかったであろう。
ONSA では徹底的に距離を置くことを勧められるが、「母は昔とは違うのかもしれない、だから関わってもいてもいいのではないか」という期待を持ってしまうのはこういう点においてだ。
少なくとも、孫に対してはきつく叱ることもなく、適度に注意し、長女が「これがいい」と言うものを買ってくれている。
母との距離について知ることは、今後も注目していく課題である。
「優しさ/厳しさ」と「甘やかし/無責任」の差については、本当に、聞いておいてよかったと思う。
実親だけでなく、仕事における「親」的ポジションだった人々の顔も浮かび、だからこういう先輩はよかったんだな、あの上司はいまいちだったんだな、ということが、はっきりとわかった。
そして、おそらく私は、「甘やかし/無責任」に慣れているために、いまいちだとわかっていても、表向き優しい(けれども私のためになることは何一つしてくれない。それは自分が責任を取りたくないから)上司と一緒にいた方が楽だったのだろうとわかってきた。
そして、評判の良い指導熱心な上司のことは苦手だった。
そんないい先生に教えてもらってもできなかったら、自分の未熟さが突きつけられるような感じがしたからだ。甘い上司は評判もいまいちなので、一緒にいれば、自分の甘さを直視しなくて済む。上司のせいにできる。
そのことに気づいて、ひとまず、この習性をやめないと、どんな仕事を選んでも、良い上司に巡り会えないなということがわかった。
その事実を知るのは大変辛いことだった。
なぜなら、今までの上司選びがいまいちだったという現実を突きつけられたから。そして、その習性を修正すること(ダジャレになってしまった)は、そう簡単ではないとわかっているからだ。
どうしたら良いのか知りたい。
知識は今回仕入れたから、とにかくアンテナを立ててみよう。
実親に関して言えば、母は恐怖を与える人間だったし、父は優しかったけれど、厳しさというものがまるでなかった。
「これはダメだよ」と父から言われた覚えがない。
つまりそれは「甘やかし」「無責任」だったのかもしれない。
3歳くらいの時、父と散歩していて側溝に落ちてしまったことがある。「そっちは言っちゃダメ」と咎めてくれれば起きなかった事故だ。
良くも悪くも父は無関心で放任だった。
基本的に子どものことを見ていなかった。
夫が長女に対して、当たり前のように、褒めたり、ダメなこと(=本人のためにならないこと)にはダメだと言ったりしている様子を見て、こういう父ではなかったよなと思う。
私が小学生の夏休みに昼夜逆転の生活をしていても、中学校を月1で休んでいても、ほとんど親から注意されなかった。そんな話を夫にすると、「え、親は何も言わなかったの?」と返され、それが普通の反応だよなあと思う。
母はずっと寝たきり昼夜逆転だったし、父は家族のリズムには何も影響を受けず、規則正しい生活で淡々と過ごしていた。
私はそんなちょっとした生活の問題があっても成績はよかったし、学校に通っている日は問題を起こすようなこともなかったからなおさら注目されていなかったと思う。
本当の優しさは、昼夜逆転の子どもを見たら叱る、あるいは、叱るまでもなく、正しい生活リズムで過ごせるような環境を提供する。
親自身も子どもに合わせる。他の兄弟のリズムが崩れているならそれも修正する。ということだと、今なら思える。
私なら子どもに、そうすると思う。
その習慣が、今後の子どもの人生にとても大事だとわかるからだ。
「優しさ/厳しさ」がないと、全て自己責任、ということになる。
これは聞こえはいいが、実際には辛い。
重荷が大きすぎて、結局逃げて、自分を甘やかす結果になりがちだ。
仕事でミスをした時に、ありがたくも優しく指摘してくれる先輩がいて、「本当は、後輩のミスに気づけない指導医の責任でもあるんだけどね」と話していた。
私はそういう風に人のせいにしていいと思えなかった。
しかし、仕事においてまだまだ子どもの立場である私が、最初から全てにおいて自己責任、となってしまったら、それこそ押しつぶされてしまう。
睡眠について、「眠れなくても横になることが大事」と言われて、安心しました。
睡眠=熟睡・効率のよい睡眠でなければというプレッシャーもかなり自分にかけていたように思います。
それが眠れない悪循環になっていたことも。
今週も寝付きが悪い日がありましたが、横になっていればそれなりに身体は休んでいるのだと思うと、眠れなくても焦らずに済みました。
「限度がわからない」ということが、本当によく当てはまるなと思いました。
今週は、PAY FORWARD もあり、Web. WORKSHOP もあり、調査票と自己紹介シートもあり、そして自分の生活もありと盛りだくさんな週です。
わーっと思いが浮かんでくるので、書き始めると、今度は止められない。「このくらいでいいや」が難しい。
気づいたら普段寝る時間を大幅に過ぎてしまって、すごく眠い中で頭が回らなくなってやっと止める。
あるいは、空腹であることも忘れてのめりこみ、頭がクラクラしてきてやっと止める。
その頃には空腹も通り過ぎて若干気持ち悪くなっている、というように。
これが、「不快」のグラデーションの中で一番最後までぶち当たらないとやめられない、ということなんだなと思う。
今までもたくさんそういうことがあった。
過集中して、終わったらものすごく疲れている、空腹にも気づかなくて、逆にお腹が気持ち悪くなっているとか、仕事でテンション上がっている自分に気づかなくて、帰ってから疲れがどっと出て、すごく気を張っていたことに気付く、とか。
こういう性質は問題だな、なぜ起こってしまったんだろうと疑問や不安に思っていたことに答えが見つかって、まず安心しました。
そして、それが習慣の問題なので、習慣ならば修正できるということも知って、ますます安心しました。
そして、お仲間さんも同じようなことをおっしゃっていて、私だけではないということが本当に心強かったです。
栄養、ビタミンCについては、ちょっと半信半疑で聞いていたのですが、実際に飲んでみると、もやっとした憂鬱な気持ちが少しよくなったような感じがしました。
ストレスって、ものすごく自分を、物理的にも消費しているのだなと思いました。
長女と楽しんでいるブームがもう一つ。
テレビを見ていて、ダンスシーンがあったら一緒に踊る、ということ。
私はダンスは得意ではないと思っていたし実際に周囲からそう言われていたが、それと、楽しむということは別だなと思う。
上手じゃなくても、音楽に合わせて身体を動かしていると、いい気持ちになれる。
長女もいつも楽しそう。
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加)
私は、厳しさと無責任との区別が瞬時にできなくて、恐怖が先に立つ。
何か言われると、またディスられるのではないかと身構えて、一瞬にして心が凍りつくのだと分かった。
自分の価値観を押し付け根拠もなく一方的にただ非難するばかりの人と、成長してほしいから伝えるんだけどねと言ってくれる人と、全然違うと分かっているのに、私はNOを言われるのがとにかく怖かった。
咄嗟に顔が凍りつく私に、批判でも非難でもないし今でも十分よくやってくれてるんだよと言った上司は、私の表情にすぐ気がついてフォローしてくれた。
そんなことを思い出して、そのありがたさを今さらながら噛みしめる。
その大きな違いでさえ判断よりも反応が先に立つトラウマを、まだ抱え続けてる。
私は私のために、身体と心を整える方法を一つずつ、スケジュールに落としていこう。
旬のものを美味しく食べることは継続。ちょっとした美味しいものを作って食べるだけで、私の幸せメーターは大きく振れる。
日々健やかに過ごすこと。これはずっと課題で、当たり前のことなのに中々できていないけど、ここを整えなくちゃ始まらない。
当たり前すぎてちょっと恥ずかしいようなことも、手帳の端っこに書いて目に付くようにしておく。
ほっとできる、楽しめることを、私はもっと増やしていきたい。
自分にアンテナ高く、気になることを小さなことでも拾っていこう。
そうやって自分を育てなおす。
傷付いた私を癒して健康な大人になるんだ。
今回もありがとうございました。