M. K. さん(30代/福岡県よりご参加)
私自身の傾向と、だからどういう関わりに注意が必要、ということが復習できた。
その中で体感としてわからないのがやっぱり相互依存の関係ということ。
きっと私の周りで、特に親から学ばなかった、ということが大きいんだと思った。
見たことをないものをやってみるというのはとても難しいことで、これから周りをよく見てどの関係がOKであるのか軌道修正しながらの人生になるんだろうと思った。
地図があればいいのにって思う。
でも私にぴったりの地図を作れるのは私だけなんだということもよくわかった。
C. H. さん(30代/福岡県よりご参加)
午後からのインパクトが強すぎて、午前の記憶がほぼ吹っ飛んでしまった気もするのですが、記憶をたどって書きます。
私がやることは、私を肯定することと、この世の仕組みを理解すること。
そして、相手を理解しようとしなくていいということ。
なのに、私は今まで自分のことはそっちのけで、相手を肯定し、相手を理解しようと一生懸命でした。
相手がどんな人であろうと、私は「優しくて物分かりのいい人」になろうと頑張っていました。
あのグラフを見て、ハッとすると同時に、納得もしました。
私は今まで、私が好んで関わらなくてもいい半分の人たちとばかり縁を繋いで、振り回されていたということ。
関わりたいもう半分の人たちとは、一体どうやったら出会えるんだろう…。
いや、出会ってはいたけれど、私のやり方が不健康だったから、一緒にいることができなかったんだ。
いろいろな人がいていい。
でも、私がどういう人たちと関わってゆくかは、私が自分で決めていいはず。
それなら私はやっぱり、自分を肯定し、相手も相手自身のことを肯定している人たちと、お互いが自立した、健やかな関係を築きたいです。
「自立した女性は男性の不評を買う」。
こういう認識は、私の中にもあり、私はいたるところで影響を受けてきたと思います。
自立していても、肯定される、むしろ自立しているのが当たり前の人間関係の中で生きられるように、私もなりたいです。
午後からの部について…。
教えて頂いた情報を知ってから、ネットで調べたり、図書館で本を借りてきて読んだりして、「勉強会」から3日ほどは日常生活を送りながらも、頭のどこかであのことを考えていて、重めな気持ちでした。
すごいことを知ってしまった…早く妹や弟、夫に知らせなきゃ、という気持ちが一番に出てきました(また自分のことを後回しにしている私…)。
でもきっと、話しても分かってくれないだろうなとも思います。
歴史については、歴史好きの現職場の上司から、とある本を勧められて読んで、知っていることもありました。
学校で教えられている歴史は、権力者の都合のいいように作られた、強者の歴史だということも。
ただ、その本は、スピリチュアル系のような、陰謀論の類のような雰囲気もあって、私はいまいち確証を持てませんでした。
それに、歴史の真実を知らなくても、周りのみんなは楽しそうに生きている。
むしろ考え込んでいる私がおかしいのでは? 私がひねくれすぎているのかも……と思うこともありました。
でも、優月さんから、歴史学を通して今の社会状況等を教えていただいて、やっぱり実際にこういう世界があることを知り、自分の身は自分で守らなくては、と身の引き締まる思いです。
私はおかしくなかったんだ、とホッとしている自分もいます。
こちらで学び始めてからというもの、「知識は力」だと、頻繁に思うようになりましたが、今改めてそう思います。
怖ろしい、嘘みたいな現実を目を開いて見ることで、そうすることで初めて、今、私はどうすればいいかをやっと考え始めることができた気がします。
知らなかったら、無防備に巻き込まれてゆくだけでした。
巻き込まれていることにも気づかないまま、一生を終えてしまっていたかもしれません。
事実は本当に怖ろしくて、この世界にがっかりして嫌にもなりましたが、知ることができた今は、どう対処すればいいか考えることができるな、とも思えるようになれました。
それに、善良な方々もたくさんいるという事実を思うと、希望も持てます。
私が過去にすがるような気持ちで読んでいた、引き寄せ系の本や、成功哲学の類の本も、私の思考停止の一助になっていたような気がします。
以前のように、思考放棄して生きることは楽だし、そっちに流されそうにもなるけれど、その先には決して安心安全な現実はないということが理解できました。
思考放棄してできあがった未来を想像すると、ぞっとします…。
私は、自分の頭で考えて、自分の心で感じることを、放棄したくない。
そうして、自分の頭と心で出した答えを信じようと思いました。
優月さん、ならびに ONSA の皆様、そして、ご一緒させていただいたお仲間の皆様、本当にありがとうございました。
2021年の締めに大波をかぶり、山盛りの気づきを頂きました。
A. M. さん(30代/愛知県よりご参加)
「類は友を呼ぶ」
この言葉は真実なのだと思う。
同じような生き方、同じような価値観、噛み合うコミュニケーションの中でしか関係を作ることはできない。
なので私は私が望んでる人たちと同じ生き方をしなくては、一緒にいきていくことはできない。
私が親から受け継いだ生き方では、遠ざけたい場所や人と同じなので結局引き合ってしまう。
「いつか、どうにかして、自然と。」
数値で示されて、こう言った言葉の根拠の無さ、運任せの泥舟感が目に見えて理解できた。
私は自分の人生を満たされて生きるために、腹をくくっていかなくてはいけない。
運任せではどうにもならない。
耳が痛いし、この先のこと、過ぎてしまった資源を思うと辛い。
けれど逃げられない。
勉強を続けていきたい。
ありがとうございました。
S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加)
自分の頭で考えること。
今回の WORKSHOP で一番ぐさっと響いた言葉です。
私は、今まで思考の放棄を常としていた。そしてその理由は、本当に都合のいい言いわけが私にはあったから。
それは、共依存ということ。
本当の意味で自覚するのではなく、やらない理由を、共依存に、そして両親に丸投げして、ずっと私は被害者のぬくぬくとした場所で結局動こうとしてなかった気がする。
でも、それだと人生が動いていかない。実際外側は動いても、実際の等身大の私は何にも変わらないままだった。
相変わらず苦しかったし、相変わらず自分が解らない。
人生の、大きなライフイベントやスパイス予定を重ねることで私は、自分の人生を豊かに出来るって本気で思っていた。
ずっと、思考停止状態だった。
複数の誰かがいいと言っていて、その誰かの中からの意見を採用する。
これを私は、自分で選択する、自分の頭で考えたことだと本気で思っていた。
私はもっともっと目を開かなければいけない。でもまだまだ、きっと開ききっていない部分がたくさんあるに違いない。
そう思うと、なんとも言えない気持ちになる。
気づけば、長い物には巻かれて、情にほだされて時間感覚が停止し、温かい気持ちにその場ではなった気になっていたことが、今まで一体どれだけあっただろうか。
加えて私がこどもだった時、自分の頭で考える大人が、周りにどれ位いたのだろうか。
私は、思考の放棄をした両親に育てられた事実、更に思考の放棄を強要されて育ってきたことに、もっと目を光らせておかないとまずいな、そう思った。
思考の放棄は依存しか残らない。
この言葉が、私は頭から離れない。
そして、本当の依存、共依存関係を学んでしまったら、もうこのままでは生きてはいけないのだと思った。
私の大切な心、もの、守りたい人たち、私に何が出来るのかと問われたら、きっと鼻で笑われるような小さなこと。
でも、私は私に出来ることを考えて、実行していきたいです。
この世はサバイバル。騙されるな。
後半の WORKSHOP 講義を受けて、そんな風にも正直、思う自分もいる。
でも、恐らく私の両親も思っていたであろうこの気持ちとは、ちょっと違うと今の私は思っている。
この世の、裏づけされている事実。
これを受け止める心の筋力を、私は持っていたいし、鍛えていきたい。
だってそれは全て、自分に関わりのあることだから。
命の問題だから。
そして今、ここに生きてご飯食べて毎日を過ごせていることが、奇跡なんだと思った。
この私の身体が無ければ、夢を見つけることも、悩むことも、人生を謳歌することだって出来なかった。
私はずっと、自分だけの狭い狭い世界にしかスポットライトが当たっていなかった。
もっともっと、目を凝らそう。世の中を見まわそう。
そして適切なリスクを取りながら、やりたいことをやってみよう。
そんなことを思いました。
優月さん、皆さま
今回のワークショップ・クラスが終わった日、私は落ち着かなくて、よく眠ることができませんでした。
でも多分、皆さんと一緒だったから私なりに受け止めることが出来たのだと思います。
本当にありがとうございました。
またお会い出来たら、その時はどうぞよろしくお願いいたします。
S. Y. さん(30代/富山県よりご参加)
私は、私自身が思考の放棄をしているという自覚のないままに思考を放棄してきていたという事実にショックを受けました。
被虐は思考ができるはずなのに、思考放棄をするように育ってきてしまったということ。
そうでなくても、世の中には思考放棄をせざるを得ない(=思考することに時間がかかる、あるいは思考そのものが難しい)人が、半分以上を占めているということにも、驚きを隠せません。
それゆえ、その能力を本来持っているならば、やはり思考するということはこの世を生き残るための習慣としてトレーニングしていかなければならないなと強く思いました。
改めて、全人口の分布、それぞれの層の解説をしていただき、自分自身がとったデータの結果と照らし合わせて、解釈のための基礎知識としてとてもわかりやすかったです。
ありがとうございました。
午後の内容について、書きづらいのですがやはり思うところが多かったので書きます。
私は優月さんの意見や情報の全てを鵜呑みにはできないなと感じました。ただ、その一方で、私自身が自分で調べて自分の意見を持つということをしてこなかったので、同じ土俵にすら立てないなと思いました。
反対の意見を持つとして、その根拠も裏付けもない。
本当に私はただ周囲のなんとなくの意見を鵜呑みにしていただけだったのだ。
それに気づいて愕然とし、地盤が揺らぐような不安定さを感じました。
そう、地盤が自分自身の中にないから、自分の外にあるから、揺らぐんだ、と、実感として突きつけられたようで、ぐうの音も出ませんでした。
昨年までいた職場の上司は、ご自身でよく調べるタイプの方でした。
そして、「私はしたくない。実験台にはなりたくない」と話していたことを思い出しました。
私は上司からさまざまな情報を聞いて、それに依存して、自分で調べるということを全くしてきませんでした。
自分で調べるのは大変な時間がかかります。
それゆえ時間のなさを理由に、権威の意見をそのまま受け取って疑いもしませんでした。
「他人の良心を疑わない」は本当に自分に当てはまっていたことだと思います。
公は、当然、多くの人々の利益になることをするはずだと、敢えて害を与えるようなことはしないだろうと信じ込んでいました。
そして思考を放棄していました。
5番目のタイプの人々の存在は、聞けば、「そういう人がいてもおかしくはないな」と思うのですが、それが公の機関や国の中枢部に紛れている可能性については考えたこともありませんでした。
私は、調べます。その上で、決断します。
その調べ方は、もちろん重要度に応じてでいいのだろうと思います。
優月さんの著書の中に、物事の決断において、その後の人生に関わる重要度と決断にかける時間は比例させるとうまくいくと書いてありました。
たとえば今日のランチのメニューは、自分の食べたい感覚に従った上で、口コミやレビューを参考にする程度で決めていいかもしれません。
今回の話題は、重要度としては相当に上の方です。
生命に関わる問題として。
ですので、調べます。
そう決意しました。
「実はあれが正解だった」がわかるのは、ずっと未来です。
歴史は、後から答え合わせのように「どうして人類はあんなおかしなことをしたんだろう」と教えてくれます。
今起こっていることに言えるのは、「今、その渦中にいると、それは答え合わせのようにはわからない」ということです。
だから常に結論は仮定でいい。
仮定でいいから、自分で調べて自分の感覚で決める。
自分の決定に責任を持つ。それが必要だと心から思います。
目の覚める「勉強会」を、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
Y. W. さん(40代以上/愛知県よりご参加)
私は、思考放棄をしている。
その現実、現状を受け入れることは、私にとってとても苦痛だ。
できれば見ずに、いいことだけを考えて楽しく生きたい。
でも、直面しないことでひとときいい夢が見られても、結果として私を危険な目に合わせてしまったら?
結局、私は私を苦しい状況に追い込んでしまう。
だから苦しくても、しんどくても、私は「思考放棄」という私の現実に、まず直面する。
時間がかかっても逃げずに、咀嚼してゆく。
直面することはとてもショックだし、この先どうしたらいいのかと不安になる、怖い。
でも一方では「私はこんな大きな現実にも向き合っていこう」とできるところまで来れたんだ。
それは「向き合うことはにがくても、逃げてしまったら私を危険な目にさらしてしまう、それはいやだ」と思えるようになった証。
私が、私のことを大事に思えるようになったからこその度胸がついてきたんだと私は思う。
今の私にとって「わがまま」「してはいけない」と思い、私に禁じていること。
でもそれは実は、ただの自己主張であり、私の権利の尊重でしかなかった。
私は、自分の足で立てない親や他人によって「そんなのはわがままだ」と洗脳されて、「してはいけない」と思い込んだ。
そうすることで私は「自分で考える」「自分のニーズを口に出して主張する」こともなく、他人のニーズに従って生きてきた。
「共依存状態で生きることは、1%もおすすめできない」
このことを私は、改めて教えてもらった。
私が、私を搾取する人と関わっている間、私は自分のことを考える機会も持てないし、自己肯定だってできない。
つねに「お前の考えはおかしい」「わがままを言うな」「他人のために動け、働け」ということを強いられるから。
振り返れば、私はそれに気づかず、何十年と他人のために自分の時間やエネルギー、心を使い続けてきた。
それで目が覚めて、離れてみれば、私が尽くし続けてきた人たちが、私のために何かを返してくれることなんてなかった。
ただ私のとった行動に対し、眉をひそめただけ。
私は、誠意を尽くして奉仕した他人に、あっさりポイ捨てされたのだ。
残ったのは、ボロボロに傷んだ私の心と身体だけだった。
どんなに「人にはいいところがある」というきれいな説にすがっても、現実にはこういう残酷なことを平気でする人もいる。
それにただ、「仕方ないから」「怖いから」の一点張りで、受け身で従っていては、私は私をどんどんすり減らしていってしまうんだ。
共依存状態で生きることは、その渦中でも私からどんどん資源が流出していくし、その後も「私のために何も積み重なってない現実」が残るだけ。
その取り戻しをするために、また時間もエネルギーもかけることになる。
そんなの、私はもうたくさんだ。
私は「いつか報われるはず」と信じて、懸命に努力してきた「つもり」だった。
でももう、「現実に報われなかった」数々の結果の方を、私はちゃんとみようよ。
幻想のきれいごとを「いつか」と願って追い続けるのをやめて、実際に私に起きていること、私の行動の結果を見る。
それを受け止めて、私の今とこれからを、私が決めていこう。
もう、他人に洗脳されたまま、自分を機械とか奴隷、ゴミみたいに扱うのを、まず私がやめよう。
私がやると決めてやらないと、誰もしてくれない。
「入っていけない人間関係」というと、私はつい「他人がどうか」ということに目がいってしまう。
でも、そうじゃない。
まずは「私が私をOKとすること」、これに尽きるんだ。
「他人のことは、関係ない」
「境界線ワークショップ」で教えてもらうこと。
これが基本だと教わったけど、本当にそうなんだなと私は深く思う。
「他人のことは関係ない」世界で、「他人のことばかり優先」していては、おかしな人生になってしまうんだ。
「私=OK」としていくこと。
聴いただけではシンプルで、「いいじゃん、それ、そうしよう」と思える。
でも、実際に取り組んでみて私は「これは私の内側の感覚や思考を丸ごと取り替えていくことなんだ」と感じ、その大変さと規模の大きさをひしひしと感じるようになった。
ひとつ、不健康な考えがある。
でもそれをただ変えれば終わりじゃない。
そこからずるずると、不健康な考え方や感覚が、私の中に縦横無尽に根を張っている。
それを根っこから変えてゆく、健康なものにしていかないといけないんだ。
私は、まず自分の内側で起きている内戦を終わらせようと思った。
私の中に響く「私はダメだ…」という声。
最初は、私の親や他人によって植え付けられたものだった。
でも今は、そういう他人と離れた状況になっても、毎分、毎秒とこの思考に攻撃されて気力を失っている私がいる。
私が、世界中の誰よりも、私をひどくいじめて、傷つけているんだ。
だからまず、「私が私をOKとする」ために、私はこの声を「終わらせる」と決めた。
これからもきっと、自動的に浮かんでくるし、ゼロにはできない。
でも浮かんでくるたびに私は「それってなんの意味があるの?」と自分に問いかける。
いくら自動的に浮かんできて止まらなくても、「意味がない」ことをただ繰り返してそのままにしているの、私の意思でもうやめよう。
私には意思があり、それができるんだから。
慣れ親しんでいて、呼吸するように自然にできることでも「私にとって、何の意味もないこと」を惰性で垂れ流すのを、私はやめる。
小さく区切って、代わりに「私は私のために何ができるだろう」を考える。
そっちの方がうんと建設的で、私にやさしい。
私は、不完全で中途半端な私でも「今、私のためにできること」をする。
そっちに舵を切ると決めた。
アルコール依存の人がお酒を飲んでいたら「それは健康に悪いよね」と私は思う。
同時に私も、ずっとそうしてきたからって「私はダメだ」の思考を湧き上がるままに続けていたら、「健康にはなれない」んだ。
ワークショップの4つの約束のひとつ、「裁かない」「裁く思考がわいたら、横に置く」を、私は日常でもコツコツやる、練習する。
それが「新しい習慣をつけていく」こと。
アルコール依存の人が断酒に取り組んでいる話を聞いて、私は「世の中のあちこちにお酒(依存対象)が置いてあるんだから、それを意思の力で絶っていくのはすごく大変なんだな」と思った。
そして私の場合は、私の依存対象は「とても見えにくい」んだ。
かつ「他人のために動くこと、親切にすること」は、社会的にも一見「いいこと」とされている。
だからますます私の方で意識していかないと、たやすくのまれると思った。
今回の「勉強会」でも、この世界の成り立ちや、私の共依存の理由など、たくさんのことを整理して学ばせてもらった。
その上で私が思うことは「知識の土台ができたら、ここからは私の意思がカギになる」ということ。
ただ「学んだ」だけでは、私に本当のスキルは身につかないし、現状が一変することもない。
学んだ知識をもとに、私の目の前の現実と照らし合わせてゆく、私に何が起きているのかを一つずつ読み解いていく。
学んだことを小さくてもいいから実践してみる、結果を見て、自分にフィードバックしてゆく。
下手でもいいから練習し、実践と実感を通じて私の筋力を鍛えてゆく。
学んだことは、実際の私の現実に生かすためにある。
それを「私の現実に応用していく」のは、私の意思と実践しかない。
大きすぎることは一気にはできないから、今の私にできることからコツコツやってゆく。
私は、私を励ましながら、心と体に元気も与えながら、この長い道を進んでいこうと思う。
優月さん、スタッフのみなさん、お仲間さん
今回もありがとうございました!
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加)
作ると人生が豊かになる人間関係のためには、「自分が自分を肯定している」ことが必要。
「自分はNOで相手はOK」ではいけない。
つまり、互いにOKという土台によって「相互依存」が成り立つのかもしれないと、自然とイメージがつながった。
これから目指していくのは、そのようなあたたかいつながりのほうが良い。
このことがとても自分に迫ってくるように感じた。
「共依存」状態が、いっときラクのようにも感じてしまうことは、本当によくない。
けれど、そちらに流れてしまいそうな感覚が、自分の中にある。
思考の停止、思考の放棄の瞬間が、自分のなかにある。
その危うさを、覚えておこうと思う。
知識を取り入れ、自分を知り、自分で感じて考えていく。
今、練習中であると感じる。
自分に集中しよう。
自分のためになるように行動する、という強い決意で、踏んばっていこう。
今もやっているように、コツコツと知識を取り入れ、確認して、練習をしていこう。
この積み重ねで、自分のための力を鍛えていきたい。
それを「私が」やっていく。
A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加)
今回は、OKな人NGな人の見分けがつかない。と言うところが自分の疑問点だった。わたしが得た結論はこの三つ。
*OKな人、NGな人、と言うよりも具体的に今自分自身は何がしたいのか? が見えていることが大事と思う。
相手の方に集中するよりも今自分はどうしたいのか? に主眼を置いて生きることに集中するとその時その時の大事なことは見えてくるのではないかと思う。
*その上で観察がとても大事と思った。言っていることとやっていることが一致しているかどうか。
自分のことに集中している人か人を動かそうとしてくる人なのか、冷静に見分ける力も必要。
*自分の行動には100%自分で責任を持つことが大事と思った。
自分が欲しいものを相手に期待しない。誰かからの何かを期待して何かをやらない、と言うこと。
自分100%の責任で生きること。それは限界を超えない、と言うことでもある。
気づきのまとめ
・週真ん中あたりで夜中にリアルな恐怖で目が覚めた。ほんの少しだけど肌感覚で感じられたこのこわさ。こんな恐怖をちいさな体で感じてたのか。これがわたしの日常だったのだと思った。
・わたしは自分が察することができるし察するがゆえに自己主張ができないと思った。そしてなぜそうなってしまったかと言うと、親が子の気持ちを察することができなかったからだと思う。
こちらが察して譲歩しなければ成立せず、しても相手は察してくれない。親子の立場が逆転した、ひたすら一方的な関係性の中でわたしは育った。
(これは誰かを悪者にするためではなくて構造を理解するためにする表現)
・関係というのは両者の合意である。関係というのは二人の「間で」成り立つ、ということさえ感覚としてわからなかったのだ、ということがわかってショックだった。
それが共依存。
わたしの意見がある前提で関係が成り立つのに、そこにわたしの意見があっていいと思えていない状態。
とても怖い。
・わたしは「人を操作して自分のために動かして生きるやり方=良心がない生き方」なのだと思った。
なぜならそこに悪意がない。だからとても怖いとわたしは思う。
わたしはそれをされてきたと思う。そしてわたしにも甘えたところずるいところがあると感じる。
操作的なコミュニケーションパターンを自分も持っていると思う。
人を動かすための言動。褒め言葉やお礼の言い方。頼みごとの仕方。いろんなところに潜んでいる。
それは人に何かしてもらう生き方、ひとに期待をかける操作的な生き方を自分もどっぷり吸収してるからだと思う。それを両親から吸収したと思う。
親は悪意はなくとも、自分ができなかったから、自分ができないことを人を動かしてやってもらうやり方を自分の子どもにしたのだと思う。
悪意がなくてもそれは暴力だ。子どもは逃げることができない。
されたことを吸収したことも子どものせいではない。でもそれを辞めるかどうかは子どもが決められる。
・そういうやり方で生きている人はいると思った。そしてそういう人に巻き込まれる感じもわかってきた気がする。
ゲームに乗る、相手の土俵に引き込まれる感じ。
・わたしは「社会から認められる」ことや「誰かから認められる」ことを無意識で必要と感じて生きていると思った。そして「子どもたちが社会でやっていけるようになったら、わたしはOK」みたいな式を作ってたように思う。
人から認められること、自分以外の他人が変わることでOKが得られると考えること。自分の価値が人による、と考えている。
・人を助ける=共倒れになる。このことも理解できてきた。
どちらかが「自分を殺して」成り立たせる=予定調和=長続きしない=必ず破綻する。
無理がかかった構造だからだ。
わたしは子どもたちさえなんとか社会に出られたら、ということを目指して生きてきた時間がある。
それはNGだったと今はわかった。そしてこれからもそれはNGだ。
みんな自分のことは自分でする。わたしも、子どもたちも同じ。
・生き方を親から吸収してしまうことを子どものせいにしたらいけないと思う。
それでもどんな親のところに生まれてもどう生きるかは子ども本人の責任だ、ということをわたしは受け入れられていなかったと思う。
わたしが過度に自分の子に責任を感じてたのはそこから目を背けていたからだと感じた。
人を操って生きる。過保護・過干渉。自分がされたことでもあったと思う。
ここにループがあってそれが依存症ってことだと思う。
・わたしが親から受けた(甘やかし)はマニピュレーティブな人の操作性の一部だったと思う。
聞こえのいいことを言って相手をてなづける手法。何かを得るために人を褒める。
それをされてなびいてしまう自分がいた。
これも依存。
・母親の世界観をそのまま鵜呑みにしていたこともわかってショックだった。
わたしの子どもの部分が大学に行って結婚する。と素直に信じていたと思う。女は従順に男に従う、も、自我を持ち相手を怖がらせてはいけないというようなことまで信じていたと思う。
母はわざとボケキャラを演じているようなところがあった。そこがまさに操作的であると今は思う。
どんなに嫌ってても無意識で母を目指してしまうのだ、ということがわかってショックだった。
けど一番大事なことはその間ずっと自分はモヤモヤしていたのにそれをスルーしてきたってことだったと思う。
「なんで? どうして? おかしくない?」って感じてても「そうなのかな、そういうものなのかな」の方に流されてしまった。
そしてモヤモヤしたまま眠れない。それはとても不健康な生き方だった!
・わたしは家で繰り返し起こったことによる「強烈な印象」に縛られて「事実確認」をしないまま「自分は悪いものだ」と信じて生きてきたかもしれないと感じた。
これがフリーズしてるってこと=思考の放棄なんだとわかった。
もやっとしても、そこで固まってしまう。それを隠してしまう。
そういう癖があるんだ。
・スローモションで見たら、圧倒的な出来事(印象)のあと自己認識(もやっと)があって(事実確認)があってそして考える時間を経て結論(自己主張)につながると思う。
でもその過程をスルーしちゃう。そして答えちゃう。それが反応ってことだよね。
レスポンドとは違う。主体性が欠けてしまっている。
だから自己主張ができない、になってる。
圧倒的な出来事があると「相手の機嫌をとる」という「反応」になってしまいがち。
それだと相手の思う壺だ。ゲームに乗らない、降りないといけないって思った。
・「勉強会」の後改めて社会を観察してみた。
人は皆一人一人全然違う。そのことが肌感覚で感じられた。
みんなそれぞれに「良い」と思うものを「差し出して」生きている。わたしは何を「良い」と思うのか? 口が上手いとか、耳触りがいいことに「良い」と感じたり、「こうしなさい! こうすることが正解!」みたいな意見に乗っかると確かに楽な気もする。
人に褒めてもらうことも、誰かに心酔するのも楽なんだ。そうやって誰かに乗っかっていると楽だけど、もやっとする。
もやっとするってことは、そこに「わたし」が隠れてるのだと思う。
それをスルーしてしまったら、主体不在になる。
それで自分自身が一番納得できてなかった。
人は皆全然違う。それはつまり、自分は人とは違うってこと。それではダメだと思ってた気がする。
・そうですね、って相槌を打つのは相手を尊重するからだったんだ。同調することが必要だったわけじゃない。
自分の家では同調することを強いられていた。疲れるわけだよね。
わたしはこう感じる、こう思うってことを自分はしっかりと持っていたいと思う。
・わたしは考えて自分を持つより、従って甘やかされている方が楽だと思ったんだ。
そして本音では恨み借りがあると感じるからその借りが帰ってくることを暗に期待して生きる、をやってきてしまったと思う。
「人を動かして自分の利を得る」生き方そのものだった。
・今なら初めての「境界線ワークショップ」で習った「わたしはそうは思いません」が自分の現場でどう生きるのかがわかる気がする。
わたしは家で「そんなんおかしいで」と言われることが多かった。
そんなのおかしいよ、と言われれば怯んでしまう自分がいる。わたしはそうは思いません、とわたしは思ってもいいし、言ってもいいのだと思う。
そう言うと倍ぐらい言い返された。トラブルの元だった。
だから言わなくなってしまっただけでわたしの意見や気持ちはずっとある。
・自分が傷ついたときは自分の側が何かやらかしてしまったのだと思うことも多かった。そして今は、傷ついた、と言うことは傷つくようなことを相手がした・言った、と言うことなんだと思う。
わたしが傷ついた、と言うことの方がわたしにとっての事実だ。そこから相手は気持ちを察することができないのではないか、と推理することができる。
相手にもう近づかないという選択もできる。家ではそれができなかったね。
子どもは逃げられないから自分が悪いと結論づけるしかなかったのだと思う。
怖いことをされるとわかっている人とでもなんとか「仲良く」ならなくてはって思ってた。
仲良くなる必要なんかない。
当たり障りなく距離を保ててればいいし、必要なら離れることも考えていい。
わたしの自由だ。嫌なことされたら嫌! って思うことも悪いことなんかじゃない。
・今を生きる=自分が100%責任を持てることしかしない=自分に完璧はありえないことがわかっている=現実的である=何かを諦めることも必要と理解できる=限界を知っている=自分に優しい、だと思った。
家では真逆の生き方を強要されていたかもしれないと感じた。
子どもの体力とか気持ちの変化がわからなかったのだと思う。
・鬼滅の話が出たのでストーリーの中で鬼が言っていたことを思い出した。
鬼になって無敵になれば「楽になるぞ」と誘う鬼。限界も痛みもある人間だからこそいいという煉獄さん。
親の短絡的な発想と非現実的な要求に従ってわたしは無敵にならなければと思っていたかもしれない。
そうやって心も体も殺して生きてきてよかったことは何もない。
・生きているということは傷つけられたら痛い。やなことされたら腹が立つ。失ったら悲しい。うまくいかなければ悔しい。
脆い体を生きているから、大事に生きるんだと今は思う。
立派で完璧になるのではなくて、安心安全を高めてゆく。現実的に進む。
無敵とは全く違う世界観だと思う。
・わたしは自分の親が本当はこうであって欲しかった、という幻想をずっと夢に見たままそれを追い求めるように生きてきたと思う。
言ってることとやってくることが違う人に対して、もしかしたら今回こそは思ったような返答が返ってくるかもしれない、を何回も試すような人間関係の作り方をしてきたかもしれない。
それが依存症だったかもしれない。
鬼滅の炭治郎は鬼から見させられた夢の中で「お前が死ねばいいのに」と親に言われて「俺の家族がそんなこと言うはずないだろう!」と言って自分の首を斬り鬼の呪縛から抜け出した。
わたしは自分の家族はそう言うことをする人間だった、と認めることで呪縛から抜け出せると思う。
悪意はなかったのかもしれない。でも事実残酷だった。
それがわたしにとっての「現実に目覚める」と言うことだと思う。そう言う人はいる。
そして近づいてはいけない。試してはいけない。
傷つくだけだから。すり減るだけだから。
わたしは自分をもっと大事にして生きなければいけない。
・わたしの家には安心と安全はなかった。そしてわたしはそれでも生き延びてきた。
生きる強さが自分にはあると思う。
これからは自分の安心と安全をますます大事にして毎日を過ごしたいと思う。
自分の力でやれる分だけを実現していこうと思う。
・温かいもの、栄養のあるものを食べて体を温めること。
食べ過ぎないこと。無理をせずしっかり休みを取ること。
のんびりすること。そして閉じこもらないこと。
小さなこうしよう、こうしたい、を本当にやってみること。これがわたしの目標です。
一年間の「勉強会」とてもためになったと思う。ここまで続けてこられてよかった。
お仲間さん。優月さん。
ありがとうございました!
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加)
今までも学んできたことの延長上にある話だけれど、あまりの情報量に、頭から煙が出そうだった。
自分の世間知らずなことにも、世の中の仕組みにも、何もかも投げ出したいような気持ちになる。
頭の中が混乱して、ショートしそう。
受け入れたくないこと、認めたくないこともあって、頭からこぼれ出してく感じがするけれど、それをそのまま流していてはいけないとも分かっていて、真剣に考えなくちゃとも思ってる。スルーしちゃいけないと、内心気付いてる。
「共依存であることは、1%たりともNG」の意味が身にしみた。
ほだされやすく、同情しやすい私は、あっという間に絡めとられてしまう。
今までだって散々そういう思いをしてきた。
だから、これ以上共依存でいてはいけない。自分の身をも危うくしてしまうと、つくづく痛感する。
思考停止に陥ったままではなく、自分で考えて、自分で選んでいく。
信用に値する相手かどうかを、自分で見極めていく。
今まで面倒だと思ってたことを、避けずに生きていく。
目を逸らしては生きていけないのだと改めて思う。
今回も貴重な学びの場をありがとうございました。