2022.03月開催 「春の大勉強 & 大準備会[基礎編]」あまぎよしのクラス

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S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) あまぎよしのクラス



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アルコールなどの物質依存症と共依存の根っこが一緒であることは、Web. WORKSHOP でも読んでいたので理解はしていました。今回、12ステップの成り立ちと合わせて、アルコール依存と共依存を対比させて聞くことで、さらに「理解」から「実感」のレベルまで自分の中に落ちてきた感じがします。

物質依存のやばさは、理解しやすい。
それと共依存は結局同じなのだよということがわかってきて、心から、「今までの生き方を続けることはまずいのだ」と恐怖を覚えられるようになりました。


「人に喜ばれるようなこと、関心を持たれるようなことをし続けないと、人と付き合えない」
「人生の問題が発生すると、さらに人に認められるような行動に走り、承認を得ることで、“自分はまだ捨てたもんじゃない” と存在価値を確認する(しかし、問題そのものは解決しない)」

アルコールが、「人からの関心」に変わっただけで、構造が全く同じということには、驚愕と恐ろしさを覚えます。

そして、本当に、この通り、としか言いようのないような生き方としてきたと思います。
これ以外、どうやって生きていいのかも、正直よくわかりません。


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「愛着形成」=「一貫性があり、生活を営む能力があり、社会性を教えられること」だということは、今までの大きな誤解を解く事実でした。

子どもに対して「愛情」とか「好意」とかは、誰でも持つことができるかもしれない。
(それすらない人もいるかもしれない)

それと、子を安心安全に育てていく能力があるかどうかは、全くベクトルの違う、別問題だということ。
能力の問題だから、能力のない人にどんなに求めても、どうしようもないことだということ。


どうして私が今まで、「私そのもの」でぶつからないといけないプライベートの付き合いを避け、仕事や勉強や部活といった目標のはっきりしたものを通してしか人と付き合えなかったのかということも、よくわかりました。

私にインプットされたプログラミングとの親和性の問題だったんだ。
性格上の欠陥ではなかったんだ。
安心しました。だって変えられる余地があるから。


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「能力の高い人は難しいことがしたい、能力の低い人は簡単なことがしたい。それぞれに優劣はなく、皆それぞれが、自分の能力に見合ったことをすればいい」という言葉に、今は心から納得ができます。
私自身が最近感じていたことでした。

「今より少し自分を削って頑張ればできること」「自分と似た境遇の人がみんなできていること」はできなければならないと思っていました。
楽で、自分にとってちょうど良い難易度のものを選ぶということは、怠惰だと思っていました。

その考えは捨てていいんだ。自分の能力に合ったものを選んでいいんだ。
継続できるものなら、長い目で見れば、結果的に成長できるはず。
『夢かな手帳』にずっと書いてあった「自分サイズの夢」の意味が、やっと腑に落ちてきています。


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私は、間違いなく、自分を切り売りして生きてきました。それで「自分のいい面」しか好かれていないという虚しさがありました。

「自分の全体が好かれると嬉しい」
それはそうだろうなと思います。

それはかつてあまりに理想論に聞こえたと思います。
今はもしかしてそうなれるのかもしれないという希望を抱き始めています。

まず自分自身が「良い自分」しか認められていない、というところが根底の原因なのだということ。他人に私を好きになって・肯定してと求める前に、まず自分が自分の全体を知って、自分が自分全体を好きにならければいけないんだ。

私は私をあまりに知らなさすぎる。
知ろうとしなくてごめん、とも思います。


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私は去年から今年にかけて大きな決断を長い時間かけて行い、それを交渉という実行に移してきました。長い時間がかかってしまったことを私はイマイチだったかなと思っていました。
時間がかかってもいいのだということを優月さんに認めてもらって素直に嬉しく感じた反面、この認めるということを優月さんがいなくても自分でしなければならないんだよな、と気を引き締めています。

そして、私が褒められた時に、反射的に、「これを聞いた他の人はどう感じただろうか?」「私はできていないと、劣等感を感じさせているのではないだろうか?」と考えて萎縮してしまっている自分がいました。
この反射的な思考は、ずっとずっと常に習慣になってきていたものです。「その場にいるすべての人の気分を害したくない」という気持ち。それゆえ、褒められるとか、自慢するとか、そういうことになるシチュエーションは避けて生きてきました。

思えば、母は、他人の幸福をよく妬む人間でした。私は本当にそれが嫌で、母が妬みの対象にしそうな話題は避けて避けて選んでいました。
結果的に、「私の幸せは、他人を不幸にするのだ」という誤ったインプットがなされてしまったのです。

とんでもないことだ。
その習慣が根強く残っている。悲しい。
ただここまで自覚できるようになったのは大きな進歩だと思っています。




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A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) あまぎよしのクラス



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わたしはチェアワークがこんなに大事だと思っていなかった。
時間をかけてじぶんをゆっくりたしかめないまま、人生を回せるだけ回して生きることはとても辛いことなのだ。


わたしはこれまでは、じぶんが取り返しのつかない間違いを犯してきたのだと思っていた。
でもそうではなくこれでよかったのだ。と今は思い始めてきた。

全ては順調に来た。
空白と苦痛だけに見えた時間もちゃんと意味があってそうだったし、時代背景、ということも加味すればそうとしか仕方なかったとも言えると思う。
そこを通らなければ見えないものがあったから、そこを通ったというだけなのかもしれない。


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ワークでやったことでは、特に②と③のプロセスが今のわたしにとっては大事だと思った。
②でどんな些細なじぶんも見逃さないで感じたいと思った。
③でじぶんがどうしたいのか? もしっかり感じ取りたい。

じぶんなりの結論を出す、ということが今の自分にはとても大変。時間がかかる。


まずでてきたものを「これは反応」と気づくこと。
それを答えと早とちりしないで踏みとどまること。

そしてこの4つのステップをどんな場面にも、自然と当たり前にやってる、できてるじぶんになること。
それがわたしの目標だ。


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普通の家庭、そしてわたしたちの家庭でのスタンダードの違いを見ると、いかにわたしがないがしろになることが、はじめっからデフォルトだったか、ということを痛感した。
仕方ないとはいえ、とんでもない家に生まれてしまったのかなぁと思う。

ただ、父のことも母のことも、生きている命として悪いものと思うことはできなかった。
それでも自分を守ることがやっぱり大事なのだということが両立するのが命の世界なのだということが、感慨深い。

そしてわたしは、やっぱり単にエネルギーの方向性を間違ってしまったから、こうなっているのだと感じている。
わたしが見落としてきた大事なことはわたしはじぶんから満たされうる、ということだった。


衝突すること、それはあること。みんな違うから。
そのことがすごいことだな、って思う。

みんなが自我を持ちそれぞれの立場を尊重して折りあいながらやってゆく。
そんなすごいことが日々、起こっているのだということ。
色々な性質の人がいるから世界が回るんだな、っていうこと。


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子どものわたしのエネルギーのことを考えるのならば、わたしが腹がたつことがあるとき、それは腹がたったのなら腹がたつでよいのだ。
そのことはずっとずっと知らなかったと思う。
今は腹がたつ! そうだね、そうなんだね。
今は悲しい! そうだね、そうなんだね。
そう言ってもらえていたら、どんなにどんなに楽だったかなぁって思うと悲しい。


ぶつかり合いひしめきあいながら、奥の奥のところで何かを探して生きている。
みんながそうしている。そのことがすごいこと、尊いことなのだな、と思う。

そしてじぶんが命の調和を尊ぶのなら、まずじぶんをこそ守らねばならない、ということの、重み。
それは逆にまずじぶんを満たすことが、わたしにはできるのだ、という強み。


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わたしにとって、じぶんらしくふつうに生きることは今は努力しなければできない。
そのことはしっかりと自覚する必要があると思った。

ほんとうは健康なやり方が今頃身についているはずだった。
でもそうではないから、苦しい。
じぶんをじぶんから満たせるはずの器がそれをしなかったら枯渇してしまう。

だから今こそ立ち止まり方向性を変えるべきときがきた。
今ここでその方向性を変えなかったら、永遠に過去の焼き直しになってしまう。
ちょっとずつでいいから、ちゃんと止まり、落ち着き、深いじぶんとつながろう。


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どんなことからわたしはエネルギーをもらってるのか?
そのことさえ見失ったままで生きてきてしまった。
生かされている、ということの意味をほんとうに忘れ去っていた。

わたしは主人公のわたしがいない人生をこれ以上続けないと誓う。
じぶんにできることをできないといいつづけるのをやめる。
ただ忘れ去ってしまっていただけ。思い出したら、ちゃんとできるよ。


いろんな声のじぶんと出会うための時間を、ほんとにわたしは必要としている。

水をたくさん飲もうと思う。
毎日薪を運ぼうと思う。
ていねいにくりかえすこと。
今日一日、それをやってみます。




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S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) あまぎよしのクラス



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基礎知識にくり返し触れることで、それまでに別々に得た知識や経験が様々につながり、自分の中に新たな気づきとして育っていく。
少しずつ学びを重ねることが、「これはこういうことかもしれない」という自分なりの理解を生むということを、今回も体感した。

「私たちは、人間である」
「『あなたが私よりも/私があなたよりも、優れている/劣っている』ということは、ない」

今回のワークショップの冒頭で受けたこれらの言葉が、時間をかけて、静かに確かに、自分のなかへ響いてくる。
誰もが皆、それぞれに違っていて、不完全なところもあり、面倒くさい部分ももっている、人間である。

私もまた、そのような人間のひとりである。
「自分は劣っている」と反射的に感じることが多いいまの私にとって、冷静に立ち止まるための、大切な学びの一つであると感じている。


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このことを念頭に置いて振り返ってみると、私のなかには大きな勘違いがあるようだと気づきはじめた。
たとえば私は、きょうだいの一番上として育ち、頼られ役に立つことに自分の価値を見出して自分を支えてきたような感覚をもっている。

しかしそれは、年上だからえらい、というような一種の「優越感」ではないだろうか。
自分自身がもつ「劣等感」ばかりが気になっていたが、裏を返せば勘違いで「優越感」を持つ場面もきっとあるのだろうという視点が芽生えている。

また、「自分が劣っている」と感じるということは、反対に「優れている」とか「立派である」を目指すべきというおかしな「前提」があるということなのではないか。
これを「認める」ことは難しく怖いと感じる。足元に当たり前にあると思っていた土台がガラガラと崩れるような、恐ろしい感覚がある。

「あれ?」「まさか…?」と感じるようなことは、これからもっと出てくるのだろうと思う。私が自分で直視し、しくみを知り、学び直す必要があるのだと思う。


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私は「アルコール中毒」状態である。
「歓心を買う」という「酒」に依存する。そのことで自分の空虚さを満たそうとする。
このことも何度も確認して、自分で認めていく必要がある。

自分のためと信じる様々な「決意」をするときにも、私はジョッキを手放していないかもしれない。
ほとんどが泥酔状態で、自分にとってではなく「誰か」にとっての答えを選ぶようなとても危険な状態なのだ。

ハンドルを握って進もうとしても、どこにも、少なくとも自分を守るための方向には、行けそうにない。
この仕組みを改めて認識した。

慣れ親しんだジョッキを手放すのを怖がっている、ということも自覚した。
私は自分で「しらふ」を目指さなくてはいけない。


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私にはどうやら、成長過程において「とんでもないプログラム」が打ち込まれている。
そしていまの私は、すっかりそのプログラム通りにできあがり、動いている…。

ワークショップの中でそれを意識したとき、内臓や皮膚が震えるような感じを覚えた。

そんなはずはない、何かの間違いでは、という感覚もあるが、自分の中のあちこちを探してみても、残念ながら「自分を守る」という教えは見当たらない。
代わりに「人の役に立て」「人の邪魔になるな」は、そこかしこにあり、しっかりと身に着いている。

立派に会得した「一貫性がなく、気まぐれで極端なやり方」で「達成」を目指すことを、人生回復に対しても用いていたら、それは回復どころかさらなる虐待につながるかもしれない。

自分が自分を虐げることは、したくない。絶対にそんなことをしてはいけない。


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「コントロール」という言葉に対する理解も以前より深まったと思う。

おかしい状況のつじつまを合わせるために、自分の側をゆがめる、演技をする、ということ。
それを生まれた時から身に着けて実践し、今も続けているということ。

外側にも内側にも「ウソ」をついていて、自分に対しても周りにも誠実ではない。そして自分がどこかでそのことに気づいているので、とても苦しい。

たとえ「外側」を良く思われても、「演技のうまさ」を褒められているだけで、本当の自分が認められたわけではない。
自分はいつまでも満たされず、むなしさ、空虚さを抱える。そしてまた「酒」に手をのばす…。

このことはとても重苦しくのしかかってくる。
しかし同時に、この構造を知らずわけもわからずに苦しいというよりは、ちゃんと訳があるということを分かっての苦しさに、変化してきてもいる。
重苦しさと安堵の気持ちが入り交じる。


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「チェアワーク」についても発見があった。
ワークショップ・クラス当日に実践するなかで、「自分で掛け声をかける」ということが新鮮に感じたのを覚えている。

ということはつまり、私はチェアワークに対しても、声をかけてもらうことを待っているような「受け身」であったのではないだろうか。

チェアワーク前には「1択」だった答えが、「自分」というフィルターを通してさまざまに変化していくことを感じた。
そこには「私」の存在を感じられる。「私」が選び、生きていく感覚がある。

ワークショップ・クラス後に何度か試してみると、私はチェアワークすら「急いで」やろうとする、ということも発見した。
そのための「数分」を自分に与えることすら、惜しむような感覚がある。

これも完全に「酔って」いる。
また一つ、泥酔の現場を押さえたような感覚になっている。


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今の自分が「知らない」「できていない」ことがたくさん明らかになった。
「こわがっている」ということも、またあらためて気づくことができた。
「いま、できない」というのは、どうやら私が「劣っている」ということでは、ない。

ただ、とても困っている。苦しいと感じている。これまでのやり方を続けるのは、良くない。


私は、私を取り戻したい。
私は、私を助けたい。

私は「私」として生きていきたい。
そのために、もっと自分を知っていく。

「立ち止まって、考える」、「12のステップを日々の行動原則に」を実践していく。
自分のために自分が動いていこうと思う。

優月さん、ご一緒した皆さま、ありがとうございました。




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M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) あまぎよしのクラス



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わたしへ

まずはおつかれさまでした。
今回もなかなかでしたね。
これからも「は~。またやっちゃったよ~」という毎日が続いていくと思いますがそういう自分も認めながら、また進んでいきましょう。


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私は回復作業を始めてから数年が経ちます。そして今さらですが「やっぱり基礎は大事」だと改めて感じています。
学ぶ内容も少しずつ違いますが、私にとって何度も参加したり色々な角度から見直すことは少しずつですが気づきや理解を深めている気がします。

その一方で、私はいろいろなワークショップに参加してきてわかったつもりになっていたり、どこか気を抜いた感じや「こんなものだろう」とよくわからないこなれた感じになっていたことも自分自身で感じていました。ワークをするにも波がありました。

私は、これが今回のワークショップで「酔った状態」だったのだということをようやく自覚し理解しました。

酔った状態にもかかわらず、それに気づかず「わかってます」「やってます」と言って、なおかつ「回復が進みません」と本気で平気で言っていた自分に気づいたときは本当に恥ずかしかったです。


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これだけでも衝撃ですが、もうひとつすごく衝撃を受けたことがありました。

それは私たちの親は「言っていることとやっていることが違う」(このことは理解していました)。
そして、それを私たちが受け継いでいること、さらにそのことに気づいていないこと。

このことを優月さんに言われたときに私は「え!?」と思いました。
でも、よくよく自分を振り返ると私は私の親と同じことをしていました。

先にも書きましたが、その場を乗り切るために「わかってます」「やってます」。とりあえずの返事。反応。

自分では「わかっている(つもり)」「やっている(つもり)」でした。
でも冷静に自分を見ると「言っていることとやっていることが違う」をしていました。

私は「自分にも他人にも誠実でありたい」と思っているのに実際は全然違うことをしていたのだと気づいたときとてもショックでした。でも、今回気づけたこと、それを自分のこととして受け入れることが出来たことはとても大きかったと思います。


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また「人に何かを言われたら『即返』『反応』ではなく『考える』」の練習もしました。

私は他のワークショップでも練習したことがありましたが、本当に自分の「反応」のクセは手ごわいなと思いました。また自分がいかに「考えるという習慣がない」ことを甘く見積もっているのかということも痛感しました。

「出来ない」ではなく「それをする時間を十分に取っていない」。
ようやくそのことを現実レベルで理解出来始めている気がします。


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まだまだ自分が共依存の真っただ中だということを突き付けられたワークショップでした。
とにかく自分自身に対しても含めすぐに「反応」せず、こまめにチェアワークをしてしらふに戻って「考える」をしたいと思います。


クラスのみなさん、お疲れさまでした。今回も私にとってはかなり痛い部分を見るワークショップだったのでみなさんと一緒に参加することが出来て本当によかったです。あたたかい空間をありがとうございました。

優月さん、ようやく気づき、認めることが出来た気がします。
今回もありがとうございました。




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C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) あまぎよしのクラス



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私へ

なぜだろう? 何だかとてもショックだ。

ワークショップで度々語られたのは、客観的な自分の姿? 本当に、私?
反射的に否定したくなったけれど、否定も出来なかった。

正直、「そこまでは…」と思うところもあったけれど、今まで自分のしてきたことを振り返ると、私はワークさえ「(表面上でも)出来た」⇒「だから、私は問題ない」と思うことに使っていた…?
一体今まで何をしてきたんだろう? と、がっくりきた。


私は、認めて、治そうとしてきたよね?
「壊れたものでは治せない」って分かっていたつもりだったし、私は、私に一生懸命だったはずなのにね。
やった気になっていただけだったのかな…。
今更だけど、なぜいとも簡単にずれてしまったのか…。

そんなに認めたくなかったの?
何がそんなに怖かったの? 「もし出来なかったら」が怖かった?
「(象徴的な意味で)酔っている」と認めることって、こんなに難しかったのか…。

それなのに、そう思うそばから、感じたことを無意識に否定しにかかる部分もあったりして、我ながらなんてやっかいなんだろう。


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私は、私の全体性を見失っている。
ひるがえって、私も他の人の全体性を受け入れているだろうか?

今となっては、「こういう自分しか認められない」と言っているのは、他ならぬ私。
実際に私の現実を変えていけるのも、この私しかいない。


混乱だけ残っている気がするけれど、それが今の私。
時間をかけて整理していこうね。

今も私の時間は、しなくてはいけないこと、したいこと、休むこと、楽しむこと…全てがせめぎあっている。
それでも、変わっていくには、実際に自分を知る行動をし、どんな自分も認めること。

ほんの1個ずつでいい。
今、目の前の時間で、それをやっていこう。




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T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) あまぎよしのクラス



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今回も色々なこと感じたり考えたりして、よく頑張ったね。
ワークショップ・クラス後のクレンジングリアクションをちょっと甘くみていたところがあって、気持ちの振れ幅が大きくなったとき動揺してしまったけれど、クレンジングリアクションのことを思い出して、しっかり日記に自分の気持ちを書き出すことができたね。

その気持ちを書き出したら、自分がここ最近みようとしていなかった、奥深くに潜ませていたドロドロとした気持ちが出てきた。
正直、自分でも気が重かった。


書いていくうちに、こういう気持ちを自分勝手だからと、押し込ませていたことに気づいた。

私の気持ちに善し悪しはない、ただ、その気持ちをむき出して相手に伝えてしまうことは違うこと。思考と行動、私の気持ちが本当にごちゃ混ぜになった状態だったんだとも思った。

それから、少し落ち着いてその書いたことをみると、脊髄反射の反応で感情的に考えると、ろくなことがないな…とも思った。
ただ、こうやって書いてみると、痛い自分を感じてしまうけれど、自分ってどういう自分なのかに気づける。これが、BE なのかなと思った。
ワークショップ後だったから、得られたものなのかなとも思う。


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ワークショップで学んだ12のステップも、これまでの学びとつながってるのだと思った。

気が向いた時だけやるのではなくて、毎日、24時間、365日やり続けることの意味を学んだ。
やり続けるから、一貫性につながるのかな? と、今は思う。

少しずつ、自分の視界が開けてくると、安心する。
これからも一歩一歩、感じ考え、やっていきたい。

優月さん、お仲間のみなさん、ありがとうございました。




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T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) あまぎよしのクラス



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共依存の基本を学び直すつもりで参加した基礎編。
私は基本を全然分かっていなかった。

いいところだけ切り売りして、そうじゃないところは無視したり邪魔にしたり。その結果、私がバラバラになってしまった感じに、心当たりがあり過ぎて痛かった。

私は私の良いところしか認めてもらえなかったがために、今もそれを自分で続けて、酔い続けているということが、腑に落ちる。
都合の良いところだけ利用されて、そうじゃないことはディスられる。そういうことは今も身近にあって、とても不快に思っていたけれど、私も自分に対してずっと同じことをしてきた。

イヤなことがあれば、また別の誰かを探して、そこでまだ自分には価値があると考えるから、ずっと解決しないとの話に、ワークショップ・クラス前日の自分の行動を思い出す。

私はそのままその通りのことをしていた。
その時はそうするのが当然だと思って行動していたけれど、振り返れば私は見事に酔っていた。


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酔っていることに気付いていなくても、人と関わることで得られる高揚感には覚えがある。

最近になって、今のが酔ってるってことなのかな? と思うことが増えてきたけど、実はいつでもどこでも四六時中酔ってた。
むしろシラフの状態がなくて、シラフがどういうことか分からなかった。

いつでも酔っているから、もはや酔っていることにも気づかなくて、より強い刺激を求めてますます泥酔。そのレベルになってようやく、私もしかして少し酔ってる? なんて思い始めた、そんな感じかもしれない。

私、結構やばいかも。気付いていないだけで、実は相当まずいんじゃない? と思った。
でもその本当の重たさにも、まだ十分に気認識できていないかもしれない。


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私は全然分かってなかった。分かろうともしていなかった。そのことに愕然とする。
途方に暮れて、考えるのがイヤになって、投げ出したくなる。自分がバラバラになって壊れていきそうに思える。

何かにすがったり、気を紛らわすための強い刺激がほしくなったり。
こうやって私は、盛大に酔っ払って生きてきたと、また思う。


気が向いた時にだけ回復作業をするのは、親の生き方と同じ、ということ。
小さくてもとにかく毎日コツコツやっていく。

耳が痛くて、自分にがっかりするけれど、自分のことを知って、どんな自分でも肯定してくことが、私を取り戻すために必要なこと。

何から始めたらいいのか途方に暮れるけれど、それもまた達成の考え方。
コツコツやっていくしかない。
上手にできなくても、まずはやってみる。
これ以上バラバラになっていくのも、むなしい思いを重ねるのも、私はもうイヤだ。


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とりあえずいつでも思い出せるように、12ステップの紙を何枚か印刷して、目につくところに置く。
手帳には「とにかくチェアワーク」と書いて、意識する。シラフの時間を少しずつ取り戻す。

まずは一つずつ。
自分のために、自分の人生のために、毎日少しずつでも積み重ねよう。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。