A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) まーきゅりークラス
私は不快を感じても我慢していました。
私は不快とは私の甘えやわがままだと思っていたのです。
私が「不快=NO」を無視してきたから、嫌な状態から抜け出せなかったのです。
私は今週も何度も嫌な気持ち、不快感に襲われました。
どうして不快なのだろう? と不快を感じたらチェアワークをして見ました。
私は暑くて湿度が不快で、だるい気持ちでした。
私はお腹が空いて悲しかったです。
私は上手く眠れなくて追い詰められた気持ちになりました。
私は前と同じことが起こるのではないかと想像して不安でした。
私は全部原因があって、取り除けることに気づきました。
まだ不快なまま過ごしてしまうことも多いですが、選択を変えるのを癖づけしたいです。
ありがとうございました。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) まーきゅりークラス
私は今回、「感情ワークショップ」と「身体のワークショップ」に初めて参加した。
心と身体は密接な関係にあるということは、ある程度はわかっているつもりだった。
しかし私は、「感情=身体」とはっきり示されたときに、あらためて衝撃を受けた。
自分が抱いていた「感情」のイメージが、大きく変わった。
私は「感情」とは、自分の心が動いて発生する、どこかつかみどころのないふわっとしたもの、と捉えていたと思う。
それは自分の中に起こるのであって、良くないものが起きても、そう感じる自分が悪いのだとしか思えていなかった。
私はワークショップ・クラス当日を経て、感情は「身体体験」であると知った。
私の感情は、私の身体そのもの。
感情のお世話は、身体のお世話であるということ。
私は、どこか一部分だけを何とかするのではなく、この私全体を、本当に大切にしたいと感じた。
「快」は私の人生にとって “GO” であり、「不快」は “NO” である。
こう聞けばとてもシンプルで当たり前のことと思えるが、私はこの「当たり前」から外れたことをしていることがある。
私には、「感情サイン」が、たしかにある。
けれど私は、たとえば「もやもやっ」となんらかの不快を感じても、ねじ曲げたり、もみ消したりすることもある。
自分に対して「今はガマンして」、「あとで」、「そんなことを思うなんてよくない」といった言葉を浴びせて、黙らせる。
私の感じる不快は取り除かれず、さらに不快な思いが重なっていく。
私は、自分が自分におかしなことをしているのだ、ということが分かった。
自分が自分の感じることを受けとめないなんて、自分に対して誠実なことではない。
私は、そんな自分を「味方」と信じることはできない。
私は私に、感情を見せなくなる。そして私は、「私」のことが分からなくなっていく。
私は、その反対のことをしていかなくてはいけない。
私は、自分の心と身体をもっと信用していきたい。
自分の人生を切り拓いていくために、自分との信頼関係をしっかりと築いていきたい。
私は、そのための具体的な訓練ができるのだと学ぶことができた。
いま私に必要なことは、「練習」であると思う。
私には「とにかくやってみること」を、日々の中に取り入れていこうと思う。
Y. W. さん(40代以上/愛知県よりご参加) まーきゅりークラス
私は「感情を、選択に使う」ことをしてなかった。
クラスの最初の方で、私は「それを忘れてました」と言ったが、そうではなかった。
私はそもそも「選択するのはいや、大変だからしたくない」で、やってなかっただけだった。
私はそうか…と思った。
私は「選択しないといけない、でも怖い、重い」と気が重くなった。
でも午後のワークで、丁寧にステップにわけて練習したら、私は「私が選択したいもの」がわかった。
あ、こうやればいいんだ。
私はその手順が具体的にわかって、ほっとした。
私は「不快を感じたら、立ち去る」をまったくやってなかった。
私は不快を感じると、それをおさえこむための理由探しに奔走していた。
でもそれは、何ひとつ私のためになってなかった。
私がそんな合理化ばかりして、自分を大事にするとか、自尊心とかもてるはずがなかった。
私は私をこんなにもおろそかにしていた。
私はワークの中で「それは、あとで話しましょう」と言った。
私は、最初はそれすらも、言ってて震える、不安になる、そわそわして怖い、だった。
私は、このくらい自己主張できない、自分の権利をもてないんだと気づいた。
私がどんなに「自己主張できるようになりたい」と思ってても、今の私の現実はこれだった。
私は、ここからスタートなんだ、がわからなければ、そりゃうまくできないよね、と思った。
でも私は、声に出すワークとチェアワークをくり返す中で、だんだん自己主張に慣れてきた。
私は、練習すれば、慣れることができる。
私にどんな過去があっても、練習することで、私は今ここから変わっていくことができるんだ。
「私が変えられるものを、変えていくこと」。
私にできるのは、それだけ。
でも、それさえできれば、私はよくなれる。
私は「できる」ためには、まず「やる」。
私にはそれが必要で、重要だ。
私は、自分が感情的に不快な例を挙げてみて、「怒り」を感じるケースが多かった。
私は、それだけ他人から明らかな境界線侵犯をされていたんだと気づいた。
だから私は、自己主張したいと思っても、即座に「そんなこと言うな」と否定してきた人の声や顔が浮かぶ。
私は足がすくむ、こわくなって、黙って我慢してしまう。
それは私が体験してきたこと。
でもそれは、もう過去のことだ。
これまでの私は、境界線侵犯をしてくる人とばかり付き合ってきた。
でももう私は、そういう人たちと付き合わなくてもいい。
私は、どんな人と付き合うかは、自分で決めていく。
私は「世の中はそういうもんだ」と、一部の偏ったケースだけで決めつけるのをやめる。
また、私は、私にも「怒り(イライラ)」をよく感じる。
これは私が、私の境界線を無視し、破っていた証。
私は自分が何をしているか、無自覚だったけど、私の心と身体は「そんなのやめて!」って NO を出していたんだ。
私はここも、改善したい、改善しないといけない。
私が私の境界線を破って、厳しく責めても、本当は何にもならない。
そのことを思い出して、私はストップする。私にやさしくする。
私は「私は~」の i – message で自分の意見を言うことが、前よりもできるようになった。
私が最初に「境界線ワークショップ」で自己主張の練習をしたときは、もうボロボロだった。
私は、形としては言うけど、怖くて震えて、相手にたやすく押されるような状態だった。
でも今は違う。
チェアワークして、今ここに戻れば、私はちゃんと「私は」でしゃべれる。
私は、自分の内側から「言いたいこと」も湧いてくる。
私はそんな、力強く言える自分が好きだ。
私は、チェアワークせず、過去にのまれていると、他人のあれこれや過去の痛い記憶などでいっぱいになって、正常なことが何も考えられなくなる。
私はそれで、たくさんの損失を生んできた。
私は私を危険な状態に置いたし、お金や時間、エネルギーなども奪われるがままでいた。
でも私は、チェアワークすれば、いらない雑音を消せる。
私は、シンプルに、私がどうしたいのかを考えて、選べる。
それでいいんだ。
私はそうやって、目の前のことをひとつずつ選んでいく。
私にとって「感情」は、「まず感じられるようになりたい」というレベルからのスタートだった。
でもこのクラスは、ただ「感情を感じられた~(よかった)」というものではない。
感情を感じ、それをもとに私が何を選んでいくか?
とても実践的、現実的な内容を教えてもらった。
私は、たくさんのことを学んでも、それを「私がやる、現実のシーンで使う」と決意する必要がある。
私が決意し、実際にやらないと、何も変わらない。
今回のクラスで、私はそのことを一層強く感じた。
私は、私の人生をよくしたい。問題は解決したい。
でもこれは「一発で、大きく」できるものじゃない。
そうではなく、目の前の日常の、小さなシーンで「小さく、でも確かにすること」なんだ。
私はそういうシーンで「恐れ」「勇気のなさ」「戸惑い」「なまけ」で、つい逃げてしまう。
私は「まぁいいか、今回は…(次はちゃんとやろう)」と自分に言い訳して、結局ずっとやらない。
だから私は、変われなかったんだ。
私はそれをやめる。
小さくやる、失敗は折り込み済みでいい、慣れるまでは疲れるからよく休む。
私は、長い目で見ながら、でもできるところを逃さずに、やってみる。
子どもの頃の私は、感情的にうっとくるシーンで「解離」していた。
それは、当時の私がまともに感じていたら生きていけなかったから、仕方ない。
でも今の私は、同じようなシーンで、もう解離していてはいけない。
合理化もしてはいけない。
解離せず、私の感情を感じて、いったん離れる。私に必要な行動をとる。
それが私にできることだ。
私にとって、感情はずっと「厄介」なものだった。
それは私の親が私に投げつけ、押し付けてきたものを「感情」だと誤解していたから。
でももうそれも、違うとわかった。
私は、過去の勘違いにこれ以上足をとられるのをやめる。
私は感情を感じ、私のためにできることをする。
優月さん、スタッフのみなさん、お仲間さん
ありがとうございました!
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) まーきゅりークラス
ワークショップの中でワークをしながら、私は自分が何をしてきたかがよく分かった。
私は不快と思いながら、ずっとそこに留まり続けていた。
私は本当はイヤなのに、何とかしようと=コントロールのために、無駄に頑張っていたことに否が応でも気付かされた。
そこから立ち去らなくちゃいけないのに。
お仲間さんの話にも身につまされる思いがした。
ワークショップは終盤クタクタで、参加してるだけで必死な私がいた。
気付けていなかったけど、私はまだ体調も本調子ではなかった。
世の中は、人は、みな感情で動いている。だから他人の感情を察して、うまく立ち回らなければいけない。
そうできない私は人として失格。そんな考えを押し付けられて、私はその通りやろうとして、もちろんうまく行かなくて。
やっぱり私はダメなんだに行き着く=思考停止。
結局のところ、私はこれをずっと繰返し続けていた。
オレの気持ちを察して怒らせるな。気分良くさせるのがお前の役目だ。私は父のそんな無言の圧力を受け続けた。母もお父さんを怒らせないで、と事あるごとに私に言った。
そんなバカみたいな都合を真に受けて、私は大人になっても、結局同じことを繰返してきた。
だから、私は感情って本当に厄介でしかないと思っていた。
でも、本当は私のために、私がより良い選択をするためにあるものだった。
ワークショップ・クラス後の1週間、私はずっと怒りが沸きっぱなしだった。プレワークでもそうだったけれど、私は怒りでいっぱいだ。
そして、私がいかにそこに留まり続けているかが、つくづくよく分かった。
そんな自分にガッカリするけれど、私は確かにそこにしがみついていた。
手を離そうとしなかったのは他の誰でもなく、私自身だと思った。
事あるごとによぎる「私はどうしたいのか」「私、結局何したいんだっけ?」。
その度に、私は空っぽな自分に悲しくなる。
私は自分がどんどんバラバラになっていく感じがする。
私は承認が欲しくて、喉から手が出るほど飢えていて、それを求めてフラフラと彷徨う。そういう自分にうんざりして、もうこのままじゃ無理だって分かっている。
分かってるはずなのに、変えられない自分にまた腹を立てる。
私の中は、他人と自分への怒りでいっぱいだ。
「また後でいいですか」は使えるように、本気で練習しようとも思った。
そう思って、早速続きを書いてみる。
今やらなかったら、私はまたやらないだろうな。そして、同じことの繰返しで人生が終わってしまう。
それどころか奪われて貧しくボロボロの末期を迎えるかもしれない。
そんなのはイヤだし、私は幸せな人生を生きたい。
なのに、やっぱりできない私もいる。腹を立ててふて寝したり、別なことに逃げたくもなるし、実際逃げたりしてる。
それでも、一つずつ積重ねていくしかないから、一つずつでいいから、練習していこう。
私の中の私がそうしたいと言っているから。
今回もありがとうございました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。