S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) ぷれじおさクラス
私の身体は、ここにある。
ここで、この地上で、生きている。
私の身体には、私のペースがあり、言い分がある。
それなのに、私がこれまで自分にやってきたことは、いるはずなのにいないことにするような、とても乱暴なことだった。
身体のペースというものを、感じようとしていなかった。
有無を言わさず、ああしろ、こうしろ、そうするべきだ、というメッセージを自分に与えてきた。
私は私へ、たくさん謝らなくてはいけない。
ワークショップ内のシェアを通じて、私は、自分の時間やエネルギーを自分以外のために注いでいたひとつの記憶に、新たな印象をもった。
とにかく、おかしい。
要求されていたこともおかしかったが、それを断らずに応じていた私自身も、とてもおかしかったと思う。
この身体をもって生きているということを、まったく考慮していなかった。
だからできていた、とも言えそうだ。
私は自分で自分の身体を大切に扱わなくてはいけなかった。
それなのに、耐えられるから、役に立って喜ばれるから、それが私の価値だから、自分にもメリットがあるから…といったすりかえるやり方で、私は乗りきっていた。
いまの私は、それを思い出すだけでも身体に違和感を覚える。
肩が巻き込み、重くなるような気がする。
当時感じていたはずの違和感を、私はもみ消していたのだと思う。
身体を尊重するという発想に欠けていたとはいえ、自分を粗末に扱うなんてとんでもないことだった。
あのときの私へ。
とてもひどいことをして、ごめんなさい。
ていねいにチェアワークをして姿勢を整えてみて、私はしっかりと自分の身体が存在することを感じられた。
すっきりとした頭、適度に力が抜けた身体をもってすると、私には自然と、自分のためになるような発想が湧いてきた。
同時に、自分のためにならないことは明らかに無理、できない、と直感した。
つい出てくる「気合いや根性で何とかする」というやり方は、あまりに非現実的とも思えた。
私は日頃、このような身体とのつながりをほとんど感じていなかった。
気がつくと、これぐらいまだ耐えられると感じてしまうような、くずれた姿勢になっていることが多い。
自分と身体とを切り離して麻痺させれば本音の答えをねじ曲げることもできてしまう。
これは、とても恐ろしい。
身体を動かすワークで、私の身体には、短時間のアプローチでも明らかな変化があった。
初めは感じられなかった足の指の存在が、後になるとはっきりと感じられた。
肩甲骨を意識して歩くと、からだ全体のつながりを自然と意識できるような気がした。
大げさかもしれないが、私が私の意思をもって地に足をつけ、行先を決めるのだ、という感覚が芽生えてきて、不思議だった。
まだまだぎこちない感じがするので、慣れていきたいと思う。
私は、身体に注目してみて、日々の現実を生きることが練習であり本番なのだ、ということが、改めて腑に落ちるような気がしている。
「休む」という意識は以前よりは増してきたと思っていたが、私は、緊張したままの身体をただバタッと横にしていただけだったかもしれない。
ワークショップで体験したようにていねいに身体を動かしたりゆるめたりすることを試してみると、翌朝の目覚めは、本当かと疑ってしまうほど、おなじみの身体や頭の重さがなかった。
別の日には「身体をゆるめたはずなのになかなか寝つけない」と感じて、自分に苛立ちを覚える、ということがあった。
あとで冷静に振り返ると、食事のタイミングやら目の疲れやら、現実的な心当たりが浮かぶ。
私には、練習が必要である。
それは練習とはいっても、本番でもある現実の暮らしのなかで少しずつ試して、実践していくことだ。
「この前こうだったから同じようにできるでしょ」とか、「知識を得たのだからできるべき」というような乱暴な言葉を投げてくる自分は、味方とは感じられない。
私にとって信頼できるのは、ダメ出しをしてくる内なる声ではなく、「今ここ」の自分のペース、自分の身体である。
私は、ミラーワークで対話した私から、「現実的にやってみたらいいのでは」「やめたほうが良いと思うことは、実際にやめたほうがいい」というような、ごくまともな意見を受けとった。
自分は本当は、自分にとって大切なことをわかっているようだ、と感じた。
私は、この私の声にもっと耳を傾けていきたい。
誰よりもこの私自身が、身体からのサインを真に受ける必要がある。
無かったことにしたり、都合が悪いからと見て見ぬふりをしたりしてはいけない。
発するサインが自分にまともに受けとめられると思うと、私はうれしい。
身体を強張らせてでも自分がひたすらガマンするなどという無茶苦茶なことはしなくていい、と想像するだけで、私はほっとする。
私は、身体をもってここに存在することを、自分で尊重できるようになりたい。
全身で多くの気づきを受けとった私、おつかれさま。
がぜん興味が増してきた自分の身体へ、これからさらに関心をもっていこう。
この自分に重心があるのだということを、身体で感じていこう。
M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) ぷれじおさクラス
日曜日のワークショップ・クラス後から、よく「歩いて」みてる。
それがすごく楽しい。
たぶん、赤ちゃんが歩き始めて「ああかな、こうかな」と自分の身体に集中しながらいろいろやってみてる感じなのかも。
身体の使い方も習わないと、きちんと「歩けて」すらなかったのね。
きちんと「立って」すらなかったのね。となってる。
それは、わたしのような生まれなら、なおのことだった。
そして、「自分」への大反省会第何幕目かが開かれました。
正直言って、反省する予定はさらさらなく参加してて(この時点で「オイコラ」なのだけど)、「鹿」を見て、「…あっ…!」と思い出す…。
またやってたんだ…またやらかしてたんだ…ほんとにごめんなさい。でした。
「ホラ、きちんと寝てやったんだからきちんと体力回復しといて。わたし明日またやることいっぱいあるから」「ちょっと、ちゃんとこっちは寝てるのに、どうなってんのよ?」
という、とんでもないことを自分にやらかしていたのだった…。
お金払ったんだから、きちんとやってよ。
私ちゃんとやってるんだから(実際はできてないのに)、あなたもちゃんとしてよ。みたいな、この無茶な感じがまた親にされたことと同じ…。
あるいは、何のシェアもなく仕事投げては、何でできてないの? こっちはちゃんとやってんのに。みたいな無茶な上司のような…。
嫌だー、こんな人と一緒に居たくない! とわたしが思うもん。
なのに、一緒にいなきゃいけない…。ほんっとに嫌だよね、そんなの。わたしが代わりに怒りたくなるわ…の相手が自分、というちょっと変な感じなのだけど。
そう、まさにあなたを「オラオラ」で引きずり回してました。
そりゃ、足痙るわ、と納得(年始め頃ですが、運動中に妙なところが痙ることがありました)。
ちゃんとマッサージしなよ、と自分に怒っとくから。
「睡眠とってくれてるのわかるから、『わたし』がうまくできるようにケアもして欲しいな。そういう時間を一緒に取りたいな」
こんなに引きずり回してたのに、話しを聞いたらきちんと返してくれる。
そして、「自分の生かし方を知ってるのは自分」ということが、静かに響いた。
生かし方=幸せ=自立…。
わたしは、自分の未来を親身に一緒に考えてくれる人を、自分で下敷きにしていたのだった。
それでいて、文句を言う…ほんっとなんて奴だ! って怒っていいよ! と自分で怒る。
あー、ほんとに、ごめんなさい。
「自分なんて…」って、自分が可哀想とかネガティブとかそう思うのは問題があるとか、それ以前に、「危険」なんだとわかった。
「自分なんて…」で、他人(自分より外側の持ち物が良く見えてしまう他人)を「黙って耐えてるわたし」の上にドカッと乗せてしまう。
その他人は、その自分の生かし方「しか」知らないのだった…。
わたしのペースも知るわけもない。
そう、わたしは「身体を丁寧に使えるペースでいたい」とそこら中ずっとよく書いていた。
けれど、それがなかなか難しくて、どうもよく「わからない」。
それもまた一つ、解決へ向かう矢印を今回得たと思う。
原因は「自分」であり、そして、根本的な基礎(立ち方、歩き方)を知らないこと。
そして、わたしの理解咀嚼のペース。
これは一般より遅い。
プラス「時間」。
これらを式にしたら、答えが「身体を丁寧に使えるペース」になりそうに感じる。
そして、その答えをまた少しづつ出していくようにやっていきたい。
この世での身体のルールも、近年急速になってきてる「身体のルールはなくてもよいと錯覚させるもの」に対しての対策にもなってくると思う。
やはり基礎から…と強く思いました。
今回もありがとうございました。
M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) ぷれじおさクラス
今回、このワークショップに参加して一番良かったことは、最後のミラーワークで私が「わたし」の声をまだ無視して、ないがしろにしていたことがわかったことです。
(わかったというよりも見ないふりをしていたのを認めたというか…)
仲良くなれたと思っていた「わたし」はなにか言いたげにムッとしていました。
私は「わたし」が「…じゃないかな」「…かもよ」と小さな声で言ってくれていたのに「はいはい」「わかってるよ」「そうは言ってもさ」と退けていました。
優月さんの話を聞きながら、そのことに気づいたとき「ああ、またやっていたのか!」と思いました。
さらにショックだったのは「それは原家族と同じことを自分にしているってことだよ」と言われたときでした。
私は、原家族にされたことに傷つき、嫌悪していたはずなのに、自分も自分に同じことをしていた…。
本当に言葉がありませんでした。
結局のところ、私はミラーワークを日常に取り入れていましたが、それは本当のミラーワークで自分と対話していたのではなく、自分を納得させるための形だけのミラーワーク、「やってます」感満載「なんかある? 大丈夫だよね」(全然聞いてない)をしていただけでした。
痛い気づきでしたが、今回気づかなければこの先も意味のない、しかも自分を傷つけるミラーワークをし続けていたと思うので気づけて良かったです。
また、「この地上は、身体に入って生きるルール」なのだということも私にはとても印象的でした。
うまく言えませんが、私は自分が「身体に入って生きる」ということが出来ていないのではないかと思いました。
それは、私が「身体を大切にする」ということは頭ではわかっていてもそれをなかなか実行できていない気がしていたからです。
身体に対して「日頃から大事に整えて備える」というよりも、「何かあったときに無理をするのは当たり前」とまだ思っているところがありました。
「身体を整える」
この習慣がなく、身体の使い方も知らないことはやはり両親の影響でもあるということもわかりました。
今回のワークショップで、正しい姿勢の取り方、歩き方、身体を整えるマッサージを新たに学びました。
私はマッサージの時間が特に「自分の身体を整えている」と実感が出来ました。
自分の身体に意識が集中して、とても贅沢な時間だと感じました。
また、自分がこういうことを一から教えてもらわないと知ることも気づくことも出来ないということに、悲しいような悔しいようななんとも言えない気持ちになりました。
今回「感情ワークショップ」と「身体のワークショップ」に参加しましたが、やはり私は自分が1回のワークショップで学んだことを自分のものに出来る量は多くないと思いました。
何度も参加して少しずつ知識を増やして、試して自分のものにする、を繰り返して安全と安心を分厚くしていきたいです。
また、私は本当にすぐに自己流の「やってます感」になってしまうので、ワークショップに参加して助けを借りることは大事だと思いました。
そして、私も「わたし」からの「ちょっと待って!」を無視しないよう勇気を出して向き合っていきたいです。
ありがとうございました。
A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) ぷれじおさクラス
何回か一緒に参加されているお仲間さんの話を聞くと、確実に回復していて状況も良くなっているのが見られて、私も励まされるような気持ちになる。
他のお仲間さんからは数ヶ月に1回くらいしかお話を聞く機会がないので、当然その間に多くの変化が積み重なっているのが見えやすい。
それは、他人の子どもが育つのは早く見えるのに似ている。
実際には、毎日毎日、変化がないように見える地道な一歩一歩がある。
子育ても、毎日ご飯食べさせて寝かせて…と単調に見えるようで、振り返ると、数ヶ月前とは大きく状況も変わっていて、私自身も子どもも成長が見られる。
きっと人生回復も同じ。
だから私も、一歩一歩やっていこうと思う。
夏のワークショップは、全体を通じて身体にフォーカスする内容が多かった。
その中でも、特に特に、今回は重点的に身体に集中することができた。
私は今まで、毎朝座って、スマホやタブレットでメールチェックやネットの記事を読むという習慣があった。
この時の姿勢は非常に悪く、それなのに(それだから、かもしれない)うっかり過集中してしまってやめられなくなり1時間とか過ぎてしまう時があった。
終わった後の心身の気分の悪さと疲れを取り戻すのには時間を要した。
多少ストレッチをしても、凝り固まった感じは治らない。
休みの日であれば、また横になって無為に過ごしてしまうこともあった。
ワークショップ・クラスの翌日、同じように座ってスマホを見ようとした。
しかしいつもとは違った。
身体を丸めてスマホを覗き込みたくない、と感じた。
私は、スマホを思いっきり持ち上げて、良い姿勢でも見れる位置まで、肩甲骨を意識しながら腕を上げた。
それだけで、気分が全く違うということに気づいた。
スマホで視界がいっぱいにならないのだ。
「スマホが世界の窓」ではない。
スマホは、大きな世界の中の、ただの一部分に過ぎない、
小さな画面だった。
この腕を上げた姿勢は、長く維持できない。
自ずと、過集中せず、必要なチェックだけで済むようになった。
今度は座って、キーボード付きのタブレットを見てみる。
これをいい姿勢で見るのはやはり難しかった。
私は、家の中で、私のまっすぐの視線に合うくらいの高い位置に置ける棚を探し、そこにタブレットを置いた。
そして良い姿勢で立ったままこのPAY FORWARD を書いている。
呼吸が楽だ、身体が楽だ。
胸を開いたままでいられる。
いつものように肩が凝らない。
私は、ヨガやピラティスが好きなので、姿勢についてはかなり勉強してきているつもりだった。
その割に、どうして一向に肩こりが治らないのかと悩んでいた。
「ヨガやピラティス以外の時間」が、生活には圧倒的に多いのに、その時の姿勢に無頓着だったのだ。
無頓着、というか、おそらく解離していたために、その姿勢が不快だということを感じられなかったのだ。
昼ご飯を食べると、強い眠気がやってくる。
いつもなら、「あと、これとこれとこれを片付けてから休もう」となるところが、今日はもう耐えられない。
すぐに横になり、昼寝とは思えないほどの熟睡をした。
熟睡ができると、悩んでいた手湿疹がみるみると回復していく。
普段も「疲れたら休む」を心がけていたつもりだったが、時間をかけて横になってもうまく休まらないという悩みがあった。
身体がガチガチで、うまく休めるコンディションではなかったのかもしれない。
今まで、「時間がない」→「頑張る」でなんとかしてきたこと。
でも待って。
もしかして、朝一番の最もコンディションがよくなるはずの時間に、自ら姿勢を悪くするような習慣を毎日続けていたから、時間がジュワッと消えていたんじゃないか?
頭で考えてなんとか時間を作ろうと頑張ってきていたけど、時間を作るためにすら、むしろ身体感覚が必要なんじゃないか?
一見遠回りに見える、「無理のない身体の使い方」が、結局近道なんじゃないか?
実際、そうやって身体のために時間を使っても、1日でできることの総量はさほど変わらなかった。
心身がスッキリすると、一つ一つの決断が速くなるからだ。
私は着実に身体感覚を取り戻す一歩目を踏んだ。
これも、意識しないとまた元通りになってしまいそうだから、毎朝、意識を続けたい。
私は、以前、寝る前に長女にマッサージをしてあげる習慣があった。
最近は寝る前が慌ただしくなってしまい、私もバタンと横になって「お母さんはもう眠いのでマッサージできません」と、あまりやってあげられなくなっていた。
ワークショップ・クラス当日の夜、私に余裕のある雰囲気を察した長女が、久しぶりに「もにもにして(マッサージして)」と擦り寄ってきた。とてもかわいい。
揉んであげると、その間、リラックスしたようで今日の楽しかった出来事をたくさん話してくれた。
私が私をケアするということも同じなのかもしれない。
私が私をケアすれば、私は私に懐いて、近づいてきて、たくさんお話してくれるようになるかもしれない。
私は身体だから、そのためには物理的な時間が必要で、具体的な行動が必要。
寝る前に私自身をマッサージするだけの余力を残しておくこと、そのためのスケジューリングをすること。
ある日、昼寝から起きると、「足をもにもにして」と私が言う。
いつもなら、「いやいや、いま昼寝に時間を使ったばかりだし、もうすぐに動き出そうよ」と、働き始めてしまうところだが、この日は言うことを聞いてみることにした。
自分がしたいと思ったタイミングで足をマッサージすると、「あーそうそう、そこそこ、気持ちいい」となる。終わるとスッキリして、立ってみると足裏が床につく感覚がくっきりとわかる。
1日、何時くらいに、どのくらい寝るのか。
1日何回食事をするか。
シャンプーは毎日するのか。
お湯だけか石鹸かクレイか。
そういう小さなことは自分で、自分の身体に合うように決められるようになってきた。
だからこそ、他人と違っても気にならない。
かつてそういったことの全てを、他人やら Google やらに尋ね、他人と違うことを気にしていた時代を思えば、大進歩だ。
しかし、もっと大きな決定となると、なぜまた「他人の意見」が強くなってしまうのだろうか。
今まで通り、私(身体)に聞いていけばいいのに。
「感じられる」ようになると、過集中ができなくなる。
今まで、『夢かな手帳』でスケジューリングする時も、前屈みで、手帳に顔を近づけて書いていた。
書いている間は疲れを感じないのだが、終わった後にものすごく肩や腰が凝っていた。
良い姿勢を意識して「灯台の時間」をとると、途中で腰が疲れてくるのを感じられるようになり、長く座っていることがまず難しくなる。
自然と、途中で姿勢を変えたり、立ち上がったり、こまめに休憩をとって身体を動かすようになった。
「人間は動物なので、長く座っているように身体ができていない」とはよく聞く話だったものの、本当にそうなのだと体感できたのは初めてだった。
今まで、どれほど解離させて座り続けていたのだろう。
前屈みになって作業をすると、楽になると感じていた。
姿勢がいい方が理屈上は身体に負荷がないはずなのに、疲れを感じやすいのはどうしてだろうと思っていた。
前屈みになると、「感じなくなる」から作業に没頭できてしまっていたんだ。
そして、解離した状態でつけたスケジュールは、自分で書いたはずなのになんとなく窮屈で、そのスケジュールに疲れていた自分にも納得する。
今日は、座り続けることに疲れを感じることができた。
そして、入ったカフェの冷房が効きすぎて寒いという感覚も感じられたので、早めに切り上げることにした。
いつも、すっかり冷え切って、身体がガチガチになってからやっと気づくことが多かった。
外に出て、身体を動かしてできる TODO、買い物などに切り替える。
皿洗いなどの家事も、気を抜くと片足立ち、前傾姿勢になっている。
そりゃあ、何しても疲れるわけだな。
重心を中心に戻して、胸を上げて皿を洗うと、気持ちもいいし、後からの疲れがこない。
肩甲骨を意識して歩いてみる。
これで初めてウォーキングが全身運動になるのか! と違いに驚いた。
今までは、健康のためにウォーキングをしても、上半身が使えず、全身運動にならず肩こりなども解消できず、いまいち…と感じていたのだ。
日常動作でも、肩甲骨を意識すると、身体の温まり方が全然違うことに気づいた。
ブラッシングはもともと、頭皮の汚れを落とすために洗髪前にしていたけれども、血流という意識で丁寧にやってみると、確かに頭皮がぽかぽか温まって軽くなる感じがした。
こうやって意識して巡らせていくと、疲れも流れていくのだな。
などということを、私はまるで新しく知ったことのように書いている。
すると、小さな声がする。「知ってたよ」
「いつも、朝から前屈みでスマホ見た後に疲れてるから、やめればいいのにって思ってたよ」
「立ってる姿勢も悪くて、痛かったよ」
「ずっと前屈みで座りっぱなしで、私が疲れた! って言っても全然聞こえてなかったじゃない」
はっとした。
そう、私はどこかで、「これをやめればよくなるのに」と知っていた。
なのに、頭が暴走して止められなかった。止めないために、あえて姿勢を悪くして、解離させて、目の前のタスクをこなしていった。「私」は、目の前のやるべきことに合わせるためにぎゅうぎゅうに潰されていった。
気づかなくて、無視して、ごめんね。
ひどかった。
まだまだ全然、わかってあげられてなかった。
私の親や夫と同じことを自分にしてきていたんだね。
これが他人だったら、とっくにお別れしてるくらい、ひどいことだね。
こんな言葉だけでは軽々しいかもしれないけど、本当に申し訳なく思ってる。
私、最善を尽くすから。
ごめん、嫌かもしれないけど、また一緒にやり直してくれるかな。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。