S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) でぃんぶらクラス
私は、今回この WORKSHOP を受講することに最後まで悩んでいた。
でも、本当に受講して良かった! と今は心から思う。
ありきたりの言葉だけど、点と点が線になった。
私は WORKSHOP 中、土台が変わった瞬間があった。
でもその時は、「あ、解ったかも!」だったから、いつもの「きらーん」な星なのかなとも思った。
でもこの1週間、職場で、プライベートの場で、私なりにアサーティブを実践してみて、その時の感覚は恐らく間違っていないかなと、今は思っている。
人と、アサーティブに関わると、嬉しくて自然と涙が出てくる。
自分も相手も大切にする。
尊重して win-win になる心地良さ。
以前の自信満々を演じていたであろう時は、周りは無反応だったのに、笑顔で聞いてくれて更に「いいね」と肯定までしてくれる。
信じられない位のこの心地良さ、嬉しさ。
それって自分を閉じていたら得ることなんてできなかった。
これまでの自分は、相手に媚びばかり売っていたから自分自身が全然嬉しくも、楽しくも、気持ち良くもなかった(むしろその逆)から当然続かない。
気持ちではなく小手先だけ、口先だけ、言葉だけを並べて出来た気、知った気(その気になればいつでも出来るし)になっていた。
でも私はやはり、気持ちいい、嬉しい、だからこっちがいいじゃないと続かない人間。
単純だから。
その上で私は、これからが大切な時間だということも自分なりに理解している。
この、フワフワしたパワーの余韻が残った時間の後の、私の日常が通常運転に戻った時。
今までのやり方に戻りそうになった時。
もしかしたらまた、元に戻ってしまうこともあるかもしれない。
でも、戻ったらまた帰ってくればいい。
少なくとも私は、心地良さを体感として実感できたのだから。
心地悪さと心地良さを両方知っている、ということは自分の大きな強みだと、今は思っています。
「でぃんぶらクラス」の皆様
今回はご一緒していただき、本当にありがとうございました。皆さんのシェアのお陰で、私はいつも大きな気づきをもらっています。また、色々な場でお会いできると思うのでこれからもどうぞ宜しくお願いいたします。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) でぃんぶらクラス
私は、「前向き表現」とは自己表現であり、「自分」がないことにはできないものなのだと知った。
健康な価値観と、共依存者のそれは、本当にちがっている。
ワークの中で示された様々な事例に対して、自分が感じたり考えたりすることを照らし合わせてみて、あまりに違うということを体感した。
驚いて、あきれて、納得する、の連続だった。
私は「質問のしかたが全くちがう」ということに、とても驚いた。
本当に全然ちがう。
正直なところ、私はそもそも、「このワークショップに自分が参加してもいいのだろうか?」と、受講直前まで思っていた。
いま思えば、この質問が共依存そのものだった。
私は、受講のための条件は満たしているにもかかわらず、自分にはまだ難しい、歯が立たないものなのでは、と想像していた。
「できない」のであればその解決のために学ぶはずが、私は「できない」のだからまだ受けてはいけないのでは、となってしまうのだ。
私は質問のみならず、この土台をもって、あらゆることに対処しようとしている状態である。
実際に参加してみて、それが身にしみた。
歯が立たないのは、まったくその通り。
でも、だからこそとても必要なことだった。参加してみて、本当によかった。
私は、自分には存在していない価値観に触れた。
私はことごとく、真逆のことをやってきている。
たとえば、「イエス」という答えにたどり着かなくてはと、最初から考えていた。
自分の方をねじ曲げる。相手からも「イエス」を得られるように、確実な場合だけ「誘う」。
相手を褒めるということは、自分にとって「いい顔をする」とか「こびる」ということになっていた。
相手をただそのまま認めるということが、自分にはなかった。
私は、相手のことをよく見てもいない。
存在を無視しているかのようだ。
それはそっくりそのまま、自分にもやっている。
相手を見なければ、ちょっとした素敵なところや褒めるところも見つからない。
土台も違えば、目指しているところも、そのやり方も、本当に違っている。
世界に相手に自分をひらくのか、どこまでせまいところに閉じこもって豊かさとは離れていくのか。
進む方向も全く異なる。
私は、「早く、行動を変える」「まず、やってみる」「早く、失敗をする」ということの意味が、自分の中でつながってきたような気がする。
つまり、それをやらないと、どこにも進めないということだ。
私は、いくら「自分として生きたい」とぼやいたところで、行動を変えないと、絶対にそのようには生きられない。
そして、いくらそのように助言を受けたとしても、実際にやるのは自分にしかできないのだ。
私は、新しい価値観に触れて自分を顧みると、自分はなんて重くてカチカチに固まっているのだろうと思った。
「まるで地蔵のよう」という言葉で表されたように、私はこの「地蔵コスプレ」にとてもなじんでいる。
まるで「これが素の自分」であるかのように。
重いのだ。
そのままで、しなやかに自分らしく生きようなどと、無理な話なのだ。
知らなかった価値観に触れてみて、私はそのことには確信が持ててきた。
本当は、重い。
ものすごく、邪魔なものを、私は身に着けている。
早く、この重いものを脱ぎ捨てよう。
そのように、練習をしていこう。絶対にその方がいい。
このまま、自分を囚われの身のままにしておくつもり?
自分の人生でしょう?
これらは、決して責めるためではない。
まず自分自身と豊かな関係を築きたい私から私へ、かけたい言葉である。
C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) でぃんぶらクラス
私へ
変わった例えかもしれないけれど、まるでぬか床にでもなったような気分。
私という「ぬか床」の中に「手」が入ってきて、かき回されているような感じ。
前回参加させてもらってから、何年ぶりだろう?
今回感じたこの疲労感は何?
前回は「そうは言っても、全く出来ていないなんてことはなく、部分的には出来ているよね?」と、どこかで「大丈夫な私」を必死で探していたことを、何とも言えない気持ちで思い出した。
(今は、出来ないことを自分自身に偽って何になるんだろう? 認めて少しでも前に進んだほうがずっといいと思う)
今回改めて説明や色々な例、お仲間さんのシェアを聞いて、「ああ、私は出来ていないんだ」ということが、ズドンと落ちてきた。
「私がない」ことには、前向き表現は出来ない。
このことに心を開いて受け止めたこと。
ここ数年の成長だと思う。
学んだこと・感じたことは沢山あって多分書ききれることはないだろうけれど、旅行の例が心に残っている。
行く所は変わっても、私は「自分」という「カプセル」の中に入ったまま、場所が変わるだけだったかもしれない。
私は、いつでもどこでも怖くないよう傷つかないようカプセルの中にいて、場所を動いてもそのまま。
そして、そうやって自分にこだわることが「自分らしい/自分は何?」を見つけることだと思っていた。
でも、それは違った。
そのやり方では新しい風が入らない。閉塞感があって当然だし、つまらない。
「行きたい・いたい所にいる」も大事だけれど、まずは私が世界に自分を開かないといけない。
そして、新しいやり方で人と関わるのは時間がかかる。
そうか、だから相手を選ぶ必要があるのかと、改めて気づく。
私は、人と意見が違うと、争いになるのが怖くてつい自分の意見を表現せずに引っ込める。
反対に頑張って主張し過ぎたと感じて、自己嫌悪になったり。
そうじゃない。
「ニーズを通すこと=争うこと」ではないんだ。
反射的に「断ったら悪い/角が立つ」と感じるけれど、「そのために(そうならないように)前向き表現がある」には、まるで初めて聞いたかのように目から鱗だった。
本当に、私には知らないことも出来ないことも沢山ある。
でも、それはそれでいい。
今はそう思える。
丁度このワークショップの前後、私は一大決心をしてささやかなチャレンジをしていた。
未来の自分のために対応しないといけないことが盛り沢山。
仕事の面でもチャレンジをしている。
何というか、現実が一気に動き出した感じ。
毎日必死で(今迄だって必死だったけれど)歯がゆい。
でも、まるで金太郎飴のように同じ毎日を量産するのとは違うと感じている。
過ぎてみると、体験の1つ1つが大切に感じられるし、奮闘した自分を愛しく誇れるような気持になれている。
帰り道、沢山の荷物を抱えてタクシーに乗った。
ああ、この暑さの中荷物を持って歩いたなら大変だった。
タクシーがあって助かった…。
気が付くと、自分の中から湧いてきた気持ちを口にしていた。
そうしたら、降りる時運転手さんが荷物を下ろすのを手伝ってくれようとした。
気持ちが伝わって、お互いの間の空気がふわっと温かくなった。
そんな小さなことが嬉しかったし、ふと「これが相手を人間扱いするってことか…」と感じた。
(今までだって降りる時はお礼を言っていたし、世間話好きな運転手さんとは世間話をしていたけれど、この違いは何だったんだろう?)
そして、大げさかもしれないけれど、私が変わることで現実を変えていけるのかもしれないと感じた。
「私が変わることで現実を変えていける」ならこんなに楽しいことはないし、「自分が楽しいし嬉しいから行動・チャレンジをする」の感覚の一端がつかめたような気がする。
(以前は「私が変わることで…」がとても重かったし、私の中は「しなくてはいけないからする」ばかりだった。今振り返ると、「私=ダメだから、変わらなくてはいけない」と思うことを手放せていなかったんだなぁ・・それに、「私」がなかったから義務感ばかりで重かったのか…)
「しなくてはいけないからする」「この現実があるから、こう決めて行動する」ではなく、徹頭徹尾「自分がこうしたいから、こうする」。
私はこれが出来るようになりたい。
限られた環境の中にいた子供の頃の私に取って、本や漫画が「世界への窓」だった。
私はその「窓」から「世界」を想像するだけだった。
でも、今の私は充分大人だ。
必要な支援を受けながら、私は私の考えで決めて行動していい。
その為の前向き表現を学べて良かった。
どうか、今のこの感覚を忘れずに、今日を1日私は私の気持ちとやっていこう。
そして、人の気持ちとやっていこう。
最後になりましたが、優月さん、お仲間さん、今回もありがとうございました。