S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) じゃわクラス
「感情ワークショップ」と「身体のワークショップ」を経てから、日常を過ごしてみると、「あ、これはもう(身体的に)無理なんだ」と、ふっと気づく。
それは、ワークショップを経て、「どういうサインを発していたら、それが逃げるべき状況なのか」を体感したから。
日常にも、そういうサインを受け取るシーンがあった。
そして、もう、その場に行くという選択を、極力減らすことができた。
きっと、その積み重ねで、大きな事故を防いでいけるのだと思う。
それをもってしか、今後「決める」ということはできないと思った。
頭で考えると、「いや、でもそれはデメリットが大きくて…」とかあれこれ言って決まらない。
身体にとって「無理」は本当に「無理」。
それだけしかないんだ。
それに沿って、頭が、「じゃあ行くのを減らそう」とプランニングする。
それが正しい順番。
今まで、頭の使い方も完全に間違えていた。
私は、「身体のワークショップ」で毎回行うミラーワークが、正直とても苦手だ。
苦手だということ自体が、自分と仲良くなっていない証拠なのだと思う。
鏡の向こうの自分が決していい表情をしていないことを知っているから。
だから、私は今まで、調子のいい時だけ、「ご飯ありがとう」とか「元気だね」と声をかけてきた。
そういう時なら、鏡の私は笑顔を返してくれるから。
この、「調子のいい時だけ声をかける」ということも、結局は私の原家族や周囲の人間がやってきたことそのものだった。
「本当は、調子の悪い時こそ声をかけてほしかったのに」…そんな声が聞こえる気がする。
ワークショップが終わり、机に置いていた鏡を、私は翌日以降も机に置きっぱなしにすることにした。
普段の荷物にも、コンパクトミラーを入れることにした(すみません、女子ですが、鏡を持ち歩く習慣はありませんでした…)。
パソコンで作業をしている間も、せっせと手帳に書き込んでいる間も、ずっと、「私」を意識しようという試みだ。
ちょっとした瞬間にも、自分と目を合わせて、見つめる頻度を増やして練習したいと考えた。
少しずつ、目を合わせる怖さが薄らいでいく感覚があった。
これは、思っていた以上にいい効果があった。適度に「見張られている」感じがある。
見張られていると言っても、他人に見張られている時の緊張感ではない。
例えるならば、小学生が宿題をしているときに、少し離れたところでお母さんが家事をしているような感覚だ(実際に私の原家族で、そういう経験はほとんどしなかったのだが)。
本当に誰もいない空間だと、つい怠けたくなってしまう。
ずっと付きっきりでも、うっとうしいが、なんとなく同じ空間にいてもらえると、怠けずに、やるべきことに集中できる。
「これはどうかな?」「今、これした方がいいかな?」というときに、鏡の私を見つめる。
「いいんじゃない?」「そこは、きちんとしておかないとダメだ」と、「私」が答える。
こんなやりとりも、小学生と母親そのものだ。
母親のように答えてくれる「私」とは、「賢い私」であり、「身体」であり、インナーチャイルドワークショップで赤ちゃんを抱っこした、あの「私」だ。
1人でいる時の自分の表情を意識したことがなかったが、やっていることの良し悪しを、自分の表情が物語っているのを感じた。
その後、非常に調子の悪い日があった。
私は、調子が悪いと訴えている「私」から逃げて、焦って、なんとか自分を動かそうとして、またいつもの方法に逃げてしまった。
私のお決まりのパターンは決まっている。
調子の悪い時に限って、うまく休めなくて、どうでもいいネットサーフィンをしてしまうこと。
この時間でちゃんと身体を休ませてあげれば、きっと回復していたのに…といつも後悔する。
ひとしきり終わって、余計に疲れてしまった身体で、私は鏡を見つめた。
険しい顔をした自分がいる。
ごめん、本当にごめんなさい……。
私は、「私」に叱られたくなくて、睨まれなくなくて、ずっと逃げてた。
でも、本当に一番に、あなたの言うことを聞かなければいけなかった。
あなたの言うことが、一番自分のためになるってわかってたのに。
ここで、もう自分と仲直りは無理よ!と開き直らない。
諦めない。
一つ一つ、小さなことも、すぐに謝る。
ちゃんと謝って、反省して、話し合って、次に進む。
ちゃんと謝ってこなかったから、繰り返してきたんでしょ。
何度も謝って、私は私のために努力するのだと誓い直していく。
M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) じゃわクラス
わたしは、「身体を大切にしようとしているけれど、身体を大切にすることって、自分は本当にわかってるのかなと疑う」と最初に言った。
本当にわかってませんでした。ということがわかりました。
そもそもの人の身体の仕組みから、考え違いをしていました。
わたしは、まったく見当違いなことをしていました。
今までの身体の使い方は、自分にとって酷いことばかりになっていたこともわかりました。
だから、それが現実になった。
そう繋がりました。
また、わたしの身体のサインは、わたしをよく表していました。
こんなに教えてくれていたのに、わたしは、それを無視していて、それだけでなく、さらにそのことで責めてもいたという酷いことをしていました。
ミラーワークでのことをもう一度見ていると、「なに無視してんの? なんでこっち無視してんの?」と、また自分が怒っている声を拾いました。
「わたしは、あなたの甘さも弱さも全部知ってんだからね」
ワークショップ中で聞いた自分からの声は、ものすごく怒っていた。
今振り返って見てみて、そう言ってきた自分は、「わたしはあなたのことをよく知ってるんだから、何で無視するの?」と言ってるように見えました。
確かに、自分の甘さや弱さを知ってる存在ほど、強いものはない。
そこだ、って知ってるわけだから。
そして、わたしは、自分の歴史により、知識で補わないと絶対にわからないこともあります。
そのわからなかったことプラス自分を無視、で、相当変なことをしていて、またとても困っていたんだと、今回わかりました。
以前からわからなかった「身体のスピードで生きたい」ことは、「頭だけで考えたきちんとしたことをやること」ではなかった。
それは、何もない空間に慣れること、身体に聞くこと、のように今思います。
練習を続けます。
ありがとうございました。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) じゃわクラス
私は、「感情=身体」の理解が深まるとともに、頭の使い方が違っていた、ということがわかった。
頭は、計画や立案をする役割である。
「どう感じているかを決める」のでは、ない。
私は、自分という存在は理屈でできているのではないのだな、ということも感じた。
とってつけたものでできているのではない。
ましてや、誰かの意見や期待やイメージで、できているわけではない。
私が、恐ろしいはずの情報に触れ、ただ不安や焦りにとらわれているだけのときは、頭だけで何とかしようとしているのだと思った。
今回ワークで体験したのは、手や太もものあたりの力が抜けていくような感じや、鳩尾やお腹のあたりに確かに感じる気持ち悪さ。
これらが、私に不安や恐怖を伝えていた。
私は、こうして、感情も身体も持って、生きている。
私はそのサインを受けとって、解決のために、行動に移していくのだ。
私は、ミラーワークで自分との対話を試みた。
初めは、目をまっすぐ見るのもやっとだった。
私は、こんなに自分から離れていたのだと痛感した。
私(自分)は、もっともな意見を教えてくれた。
「体調に合わせて食べて」
「自分のことをやって」
「自分よりも、そんなに他の誰かの言うことや感じることの方が、大事なの?」
笑ってしまうくらい当たり前で、同時に切実な言葉だった。
こんな大事な意見を取り合わないなんて、私はどうかしている。
この人(私)以外に誰を、何を、信じろと言うのか。
「自分のことは自分で決める」
「自分の答えは自分の中にある」
という言葉の意味が、身体とつながったような気がした。
私は、自分に必要なスキルを身に着け、練習する必要がある。
いま知らないことは、自分で体験して、知っていく必要がある。
私は、どのワークショップでも、また他のどのような体験も、同じように自分の全身で感じて行動につなげる必要があった、ということも意識した。
私はいつも、頭がどんどん役割を横取りして、本来ではない動きをしていたのではないかと思う。
言葉にして表すには頭も使うけれど、まず私はどう感じる? ということは、頭では決められない。
まず、心と身体。
この私の中を通すのだ。
そのためには、自分を大切にしなくてはいけない。
センサーしっかり働かせ、自分が情報を集められるように、自分のお世話も環境を整えることも、必須のことなのだ。
自分を大切にする、というのは、本当に自分でやっていくことなのだ。
私は、まず心と身体で、自分のサインをキャッチする。
そして、頭で「よし、わかった! じゃあ、○○してみよう」と検討する。
そうやって、いまのところは信用がガタ落ちの自分との信頼関係を、きちんと作っていきたいと思う。
私は、ずっとここにいる「私」だ。
この心と身体をもっている私だ。
重心を確かめながら、呼吸している、ここに存在する自分。
私は、この人(私)の言うことを信じて、進んでいくのだ。
M. K. さん(30代/福岡県よりご参加) じゃわクラス
やっとわかってきたこととして、私は自分の体調がいいのか悪いのかわからないということがある。
私は、自分としては朝覚醒して数分で臨戦体制だと思っていた。
でもそれはおかしいことで、スイッチがきちんとオフされていなかったということだと、しみじみわかってきている。
(そしてまたどこで戦おうとしているのか?)
だから私は疲れやすい。
もちろん疲れやすい原因はそれだけではないけれども。
私はこれから疲れやすい、ということに対してまず何をしたら私は疲れるのかを知ることが必要だ。
だから私は観察をしている。
そして私は自覚のない疲れやすさに対応するために、私は休む時間を多くとることを行なっている。
あとは、自覚の乏しさへの根本へのアプローチが必要だと思う。
もう少し私はできることがあるかもしれない。
行なった結果は記録に残す方がいいと思う。
私の場合は想像はできるけど、実行に移す能力がおそろしく低いから。
私はこれから先、少しずつ私の身体本来のやわらかさを取り戻していけたらいいな、と思っている。
今回もMさん(私)お疲れさまでした。
T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) じゃわクラス
「生きることは、それに見合った体力が必要」
と最初に言われて、その体力の意味を取り違えていたし、身体との対話を毎日することも忘れていた。
自分には、その体力が足りないこともわかった。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝ないととてもできることではないなと。
私は、皮膚感覚で収集して理解することが身体のすることだとわかっていなかった。
その上、自分の頭は認識が甘いから、自分の身体の感覚も甘いと思っていて、それを信じてよいのかがわからなくなっていた。
ミラーワークで身体は、自分がびっくりするくらい、本当にごもっともなことばかりを伝えてくれていた。
身体を相手にもせず、頭が知識を得て分析する思い込み、そのプランニング力の弱い頭にばかり頼ろうとしていた。
そして、私の気づきを放置するなと、言っていた。
つまり、気づいたこと、例えばちゃんと眠るためにはスケジュールの見直しがいるよね、ということに対して、“それをやる” ということ。
「変容ワークショップ」で学んだパリピや怠け者の部分って、こういうことなのか、とつながってきた。
それで、何とか、スケジュールを見直してトライをしてみた。
それでも上手くいかなかった。
どうせ上手くいかないと一発逆転の発想に近づかず、私には何にどれくらいの時間が必要なのか、頭で考えず身体に確認するようにしてみた。
ワークショップ中のように自分につながれていないけれど、仕事の後の切り替えに、私はそれなりに時間が欲しいんだと言っていた。
まだ、それくらいのことしかわからない。
それが現状。
それでも、自分が頼れるのは、自分しかない。
加えて、私が私の話をまずちゃんと聴く(逃げず、適当じゃなく)ことができないなら、私は自分以外の相手に自分の思いを表明することができるわけないと思った。
私は、自分の言葉を丁寧につむぎたい。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。