2024.06月開催 「感情ワークショップ」うばクラス

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タイトルはじまり目印

S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) うばクラス



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ワークショップ・クラス後も、引き続き、チェアワークをしてから感じるということを練習した。

ある人を思い浮かべて、身体の反応を待ってみる。
「私は、もう、この人には会いたくない。顔を合わせたくない」
「私は、この人に会うことでイライラしたくない」

身体(=感情)の答えはシンプルだった。結論は私の中では、とっくに出ている。
感情は、判断が速い。


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私が今まで、手帳とにらめっこして、
「いやでも、この日はこの人にいてもらわないと、やっぱり困るかも…」
「何かアクシデントがあった時のために、念のために来てもらおうか…」
などと、こねくり回していた時間はなんだったのだろう。

そう思うくらいの速さで物事が決まる。
私は、身体を通した上で結論を出してすぐに、その人が来る日を全てキャンセルにした。


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身体が反応してダメなものは、ダメなのだ。
そして、それを無視して、現状維持を選んでしまうことが、「がまん」だったのだ。

この人に会うと私の身体はこわばり、イライラして、明らかに私の生活を損なっていた。
それなのに「いやいや、もう少し状況が良くなるまで状況を見よう(がまんしよう)」と、内面のコントロールをして、「解決しない」を選び続けてきたのだ。

それで、こわばった身体をほぐすために「気晴らし(=怠け、甘え)」に時間をまた使ってしまう。
「だって、がまんとがんばりはダメだって教わったし」と言い訳にして。

まさしく私はがまんの意味を履き違えていた。


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そのやり方は何も、自分のためになっていなかった。
私は自分の人生を大切にできていなかった。

逆にいうと、自分の人生を大切にするための「我慢(=満足の遅延)」や「頑張り(=努力)」は、むしろ必要だということ。

この場合の我慢とは、不健全な関係を脱却するために起こる一時的な摩擦や、環境の変化などで生じる不快な思いに、避けずに向き合うということだ。
それらは絶対にやるのだと覚悟することだ。


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どうやって、自分の「がまんとがんばり」がいい方向に進むものであるのかを見分けるのか? 
それも、身体の反応でわかる。

今まで、少しずつではあるが、いろいろな行動を起こしてみた。

その中で、「解決や自立に向かって進んだな」と感じたときには、爽快ですっきりした後味の感情が残る。
身体も軽くなる。

「やったつもりだけど、なんか違うな」というときには、後味が悪いモヤモヤとした虚しい感情が残る。
身体も硬くなる。


文節区切りの線

まだ私は練習の途上の段階だ。

これからも、「あ、これは身体が固まってる(感情センサーが働いてない)行動だ」ということが多々発生すると思う。
プレワークも経て、「記録は大事」と感じている。

「やっちまった」と思ったら、とにかく書き出すということを続けたい。

そして、気づいたら、身体に戻る。
ちょっと時間がかかるように見えて、その方が圧倒的に速い。




タイトルはじまり目印

M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) うばクラス



タイトル下の線


わたしは、自分が「問題を解決しない」の世界にいたことに、衝撃でした。

「あ、その世界に自分いたわ。」とシンプルに思えました。
言われるまで、気づきませんでした。


「いや、こんなに解決しようとしてるのに?」となっていたわたしは、
・最初にじわっと感じたことが怖くて、自分にとって嫌なもので、一人では到底受けきれないってなってて、こんなの受け入れたら何もかも全部壊れちゃうと恐れて
・感情をどこかに追いやって、感じないようにして
・さあ出てこい「頭」、そして何か「こうだ!」っていう一発で決めた作(欲・太い道)を練ってくれ

となっていました。
まさに、ワークショップ内で示された図そのまんまでした。


それは、小さいわたしの環境におけるやり方そのまんまでした。
そして、「それは違う/同じことをまたやろうとしてる」と何回も言われてきたことは、このように違うかったのかとようやくわかりました。


文節区切りの線

古いやり方でやろうとしてしまう度に、「ち・が・うー!」を、わたしは、これからも何百回も思い出すことになると思います。

わたしは、その度に戻ると思います。
戻るところがわかったことが、わたしは大きいです。

間違ったやり方は、どうりで「何もどこにも進まないな…」と奥底で思っていたことと合いました。


自己流(過去からのやり方)は、わたしは決めてもいなかったことなのかと思いました。

わたしは、ただ、怖がっていただけでした。
それは、感じて出てきた「怖い」ではなくて、感じることを怖がっていただけでした。

感じることを止めることは、危ないことだったのか。と、今までと反対の世界に足を踏み入れられた感じまでしました。


文節区切りの線

午後のワーク中、「ここは、安全な場だから」の優月さんの声かけで、気づきました。


怖い、足がすくむ、足が震える、嫌だ、不安、泣きそう、怒り、悲しみ…。

小さいわたしは、それらを安全に感じれる環境に、ほんとにいなかったんだな。
安全じゃなかったから、できなかったんだな。そんなシンプルなことだったんだ。


わたしは、怖いと思うことを、自分で禁じていたんだな。
怖い、なんて思ったら、小さいわたしにとってはたった一つの帰るとこだった原家庭が壊れることを意味していたから。

だから、わたしは、感じることを止める自己流のやり方になってたんだな。
そうやって、わたしは、「これぐらいなんてことない」とガマンをしながら、「今の時間」に自分でそれを再現していたのだな。


文節区切りの線

午後のワークは、そのわたしの過去の再現のやり方とは、まったく違うものでした。

「これぐらいなんてことない」としてきたことは、大変大きな重要なことでした。
他人はまったく関係ありませんでした。


そして、わたしの中から出てきたものを、わたしは大事にしたいです。
それがわたしは今までできなかった。

わたしは、「いかに自分の不快を取り除くかになってる、それは良くない」ということが、ようやくわかりました。


文節区切りの線

やめると決めたことをやめる。
こうかな、と出てきたことをやってみる。
こうかな、と思ったが、ちょっと違うかも…と吟味してみる。

これらを、これから何度も間違いながらも、身につけていきます。




タイトルはじまり目印

S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) うばクラス



タイトル下の線


私は、「がまんしない」を、取り違えていた。
「がまんする」を、どこか美徳であるように据えて、「がまんしない」は、自分を粗末にした反動で時々許される「甘え」や「怠け」のように考えていたのだと分かった。

この都合のよい「がまんしない」は何の解決にもならない。
私は、自分を甘やかすのではなく、大切にすることをやっていくのだ。

私は、自分がメモしていた「イライラ球」、「これは感情ではない」という言葉をみて、こんなものをぶつけられたらたまったものじゃないなと思った。

けれど、もし身近にそのような環境があって、子供だったために逃げられなかったとすると、なんて残酷なのだろう。
そして、これが感情と間違って覚えていたのだとしたら。私はこのことも、いつまでも取り違えたままでいてはいけない。


文節区切りの線

私は、感情とは「いま、ここ」なのだと学んだ。
それは、本当に今ここにあって、自分に関係のあることなのだ。

私はよく、「今」ではないことに気をとられている。

「あとで困るかもしれない(だから、これはまだ手放せない)」
「あとでこう思うかもしれない(だから、今はまだ決められない)」

そういうときの私は「いま、ここではないこと」をやっている。
その「あとで」になったら、その瞬間の「今、ここ」になるはずなのに。


私は、「いま、ここ」のことをやらないと、現実は変わらない。
不安を感じる状態も、変わらない。


文節区切りの線

私は、ワークショップ内でたとえ話に登場したシカのことが印象に残っている。

○月○日の深夜にクマが出る、と知って逃げるシカがいるか?
…いない。

きっと、いつでも「今」その瞬間に自身の五感を働かせ、ニオイや音や足跡などから確認して身を守る。
生命として自然にもっている働きが、当たり前でありとても貴いように感じた。

私は、自分も本来持っているはずの働きを、なんと鈍らせてきたことだろう。


文節区切りの線

私は、物事を自分のこととして感じて考えるために、必ず自分のセンサーを使い、自分の中を通さなくてはいけない。
ワークで体験をして、自分がいかにそれをやっていなかったか、ということが分かった。

足の裏を感じ、重心を感じ、呼吸を感じて立った姿勢で、自分をひらく。
フラットで、しーんとした感じ。
私は、この感じにもっと慣れたいと思う。


自分のこととして感じると、本当に心も身体も動く。

これは、自分のことだ。
そして、それをなんとかしていくのも自分だ。
重さがあることだ。


文節区切りの線

自分を通さずに情報を収集している「つもり」のとき感覚を思い出すと、ふわっとしている。
ただ怯えるしかない。

まるで「誰か」が感じ考えることをただ眺めているだけ、という気がする。
地に足がついていないのだ。


外側の出来事や情報を、自分の心と身体を通してみる。
そして、自分のなかから情報をとり、次の行動を決める材料として使う。

だから、感情は自分にとっての羅針盤になる。


文節区切りの線

こう考えてみると、私は、自分のやりがちなことがおかしいのだ、と改めて身にしみた。

「誰か、この自分のことを察して、なんとかしてくれたらいいのに」という下心の、おかしさ。
「こう感じてもいいの?」「どう感じるべき?」という問いの、おかしさ。

私がこの瞬間にこんなふうに身体をもって感じていることを、自分以外の誰かが、いったいどうやってわかるというのか?


頭で決めつけるということも、本当に変なことだ。

身体も心も「わたしは、疲れている」と感じたとして、頭が「そんなはずない!」と応答する、おかしさ。
身体は、「いやいや、ほんとです」と言っていても、頭の方があれこれ理屈をならべて、もみ消そうとしてくる。

こんなことが起こっていては、自分を信用できず、自分が望む方向が分からずどこにもたどり着けないのは、当然のことだった。


文節区切りの線

私は、自分のセンサーをきちんと働かせたい。

自分が感じることを、自分の行動を決めるための、大切な情報として受けとめていく。
そのように練習をしていく。

私は、この自分で、「いま、ここ」のことをやっていく。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。