2024.12月開催 「土台を変えるワークショップ」ぐりーんクラス

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タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) ぐりーんクラス



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私の身体は、単体で存在しているわけではない。

大地とつながり、周りの環境とのつながりを含めての「身体」。
これが損なわれるということは、生きていくには脅威のはずだ。

伝統的な価値観が受け継がれないことで、当たり前に大切だったことが、忘れられていく。
その大切さの理解がなければ、そもそも損なわれていくことにも気づかず、脅威すら感じない。

私はこれが、とてもおそろしく、命にかかわる重いことなのだと感じた。


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「生きる」とは、神聖なことである。
真剣に行うことである。


私は、生まれ育った環境で、そのように扱われてきただろうか。
そして自分も、自分自身のことをそのように扱ってきただろうか。

そう思ったら、泣けてきた。


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土台が異なると、その先に積み重なる選択も結果も、まったくちがうものになる。

動画で垣間見た、大地に近い姿勢のダンスの数々。
大地と共にあることが、ただただ自然なことであるようだった。


ハカから伝わる、喜びも、悲しみも、自分の決心も、相手への敬意も、本当に真剣に表す様子。
それらは、何かに強いられているのではなく、それぞれ自分自身から湧き出るものが当然のように尊重され、ただ表されているというように見えた。

そしてその価値を、共同体で分かち合っていた。


私は、その気迫も真剣さも、とてもまぶしく見えた。
うらやましかった。


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チェアワークにていねいに取り組むことで、私はまた、自分を粗末に扱っていたのだ、ということに気づいた。


私は、自分の声に耳を澄ませる以前に、その十分な時間を与えるとか、自分の準備や呼吸を「待つ」ということが、できていなかった。
また、できるだけ早く立派な何かを導き出さなくてはと、脅すようなことをしていた。


実際にやってみると、自分の呼吸にひたすら集中することも、大地に返すように力を抜こうとすることも、心地が良い。
急いで何かをつかみとろうとするのではなく、まだ言葉ではないものに、じっと耳を(全身を)傾けてみる。


そうすると私は、自分を大切に扱って、交信を試みているように感じらる。
私は、これをくり返し、真剣にやっていくのだ。

私が私を、神聖な存在として扱い、自分で責任をもっていく。
そのためにやることは、本当に基本に戻ることだと思った。




タイトルはじまり目印

A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) ぐりーんクラス



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私は動画を見て、私の「生きる」と本来の「生きる」が全く違うと思いました。
私はどこにもぶつからず、そのまま流されること、何かのレールに乗ることを「生きている」と言っていました。

私はなんとなく進学して、世の中で言われているように就職しました。
私は日々の受け身で選んだことを、バタバタ過ごして忙しいふりをしています。


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私は結婚式や葬儀を見て、生きていくのはもっと力強くて、大きなエネルギーの必要なことなのだと感じました。
私と違って皆覚悟があり、自分が思っていることを行動しているように見えました。

きっと私があの場に入ったら、キョロキョロと周りをながめて誰かのマネをして取り繕っていると思います。


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私は形だけ合わせて、やってるふりをします。
私がしても自分の中から、あの強い感情は出てこないと思いました。

私は出てくる前に勝手に諦めてやめてしまいます。


私は彼らと同じように生きているとは、とても言えないと感じました。
私が就職活動した時も、転職活動した時も同じことをしました。

本当は自分に向いてること、好きなことを探して選ぶのに、今の私ができることを選びました。


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私は自分の意見や結論が出るまで考え抜く、やってみることをしません。
私はすぐ良い答えを探そうとします。

私は間違えたら嫌だ、考えて大変な思いはしたくない、悩むのが面倒だと逃げてしまいます。


私は指摘されてようやく、自分が子どものころ怒鳴られながら勉強をしているのと同じままなのだと感じました。
私の生き癖はずっとかわっていないし、大人の今の方が仕事や家事などの言い訳が増えてひどくなっています。


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私はチェアワークで全然違うことをやっていました。
私は身体の声を聞くことを「何か良い方法を教えてください」と一発逆転の方法を教えてくれるもののように思っていました。

もしくは私に取って都合の良いもの…このままでいいとか、きっとそのうちなんとかなるというような答えを待っていました。
だから私は何の根拠もない、私の本音「大丈夫、なんとかなる」を身体の声だと思っていました。


私と私の家族の会話では「なんとかなる」という言葉で終わることが多かったです。
今振り返ると私にとってそれは「誰かが私の代わりになんとかしてくれる」からなんとかなるという意味だと思います。


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私と私の家族は自分の問題を自分で解決しようという意識はありませんでした。
そして私はそのまま大人になり、今もそのまま誰かに何とかしてもらおうとしています。

馬鹿みたいに同じやり方しかしないし、何もしないことで面倒をみてもらおうとしていました。


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私はこれから自分で考えて答えを出す、面倒で大変なことも甘えて投げ出さずやる。
他人を当てにしない、身体の感覚を感じる練習をする。

私の頭の中の時間と実際にできることの差を理解すること、そのために記録をとって見直すこと。

だらだらして浪費してる時間をやめること。
いい加減、誰かに神頼みするのをやめること。これらに取り組んでいきます。

あと私はわからないと投げ出す、放置してしまうのでそれもやめます。


私はチェアワークをすると、身体の中心が重い感じがしました。
グッとしまって居心地が悪いです。

これは大丈夫ではない、ここに止まってはいけないように感じました。
私はからっぽにして、欲ではない感覚を観察できるように繰り返しやってみます。




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S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) ぐりーんクラス



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私は、今回のワークショップを通じて、基礎をコツコツと地道にやることをサボってきていた自分に気付かされた。

今週は、初心に返って、毎日チェアワークをした。
ノルマ・ルーチンの意識でやるのではなく、ちゃんと緩んでいることを確認した。

3回くらいで確実に緩んでくることが多いとわかったので、その分の余裕の時間(30分くらい)を取れるようにスケジュールを工夫した。


当たり前だけど、ボディワークなので、毎日やると上手になってくる。

首がしっかりと伸びる感じ。
体幹の周囲に感じる温かさ。

「うん、この感じが、ワークショップ中の集中に近い」と自分でもつかめてきた。


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1回のチェアワークで得られるものはノートの1ページ分くらい。

それも、漠然としていて、それが得られたからといって何かすぐに行動に移せるものは少ない。
それでも、大まかな方向性はつかめてくる。

「私はどうやら、こういうものが好きらしい」
「私は、こういう生活がいいらしい(そうでないのは嫌らしい)」
それに沿ってスケジュールを動かし、それをもとに、次の将来計画の参考にする。


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ひとまず5日間で数ページ分くらいの i – message が出てきた。
「今まで、その基礎をコツコツやってたら、もっと人生は動いていたでしょうに」とワークショップ中にご指摘いただいた通りだ。


たった5日間で、数ページ。
1ヶ月経ったら、半冊〜1冊くらいに達するかもしれない。
1年経ったら、数冊分。

そのくらい、身体を使って「考える」ことをし続けたら、妙な迷走をすることなく、まっすぐに自分の道を進めるだろう。


それができたら、私にはどんな未来が待ち受けているのだろう。
まだわからない。
その手綱を離さない限りは、私にフィットした道を選べるのだ。

そうわかると安心するし、ワクワクしてくる。
私はこの習慣をなくしたくない。




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M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) ぐりーんクラス



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私はワークショップに参加して、私の「生きる」は根本的に違っていたということがわかりました。


ワークショップでハカなどいろいろな伝統的な踊りを観ました。

私は動画であったにも関わらず、そのパワー、気迫に圧倒されました。
眩しくて、尊くて涙が出ました。

生きるエネルギー、生きることの真剣さを感じました。
すべてが力強く、内側からエネルギーも感情もあふれ出ていて、本来の「生きる」はこのような姿なのだと思いました。


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一方で、私の「生きる」はとても消極的だと思いました。

生きようとする力も弱いし、熱量も高い方ではない。
どこかエネルギーを出し惜しみしている感じすらする。


それでも、自分なりに以前よりはだいぶ変わってきていると思っていました。
でも、自分で真剣なつもりでも「本物」を見てしまうと自分がそうではないということがわかりました。


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私はまだ、真剣にぶつかること、挑戦することの怖さと面倒くささから正面からは向き合えておらず、なにかしらの逃げ道や言い訳を用意している。

傷つくことや疲れることが嫌で全力でぶつからず省エネで生きている。
そういう自分がいることに気づきました。

また、向く方向、向かっている方向(熱量の向け方)も違っているのではないかと思いました(ここはまだはっきりしないのでもう少し考えたいと思います)。


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私が目指している「ていねいな生き方」もこの本当の意味の「生きる」につながっているのではないかと思いました。
それは「ひとつひとつを真剣に全力で取り組む」ということ。


私は自分がまだ中途半端なのだと思いました。

まず、私は「真剣に全力で取り組む」とはどういうことなのか、そしてそれにはどうしたら良いのかを考えたいと思います。
そのために、自分の身体を整えること、自分の内側からくる小さな声を拾うこと、その声を都合が悪いからとないがしろにしないことから始めたいと思います。

ありがとうございました。




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M. K. さん(30代/福岡県よりご参加) ぐりーんクラス



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私にとって今生きている状態はなんとなくふわふわ浮いて生きているような感覚がある。


ワークショップに参加して、本来の「生きる」とは、命懸けであるということを見た。
今までの別のワークショップでも確認した、温度があると私は思った。


さらに、生きるとは共同体の中の一部としてあること。
全体性、のようなものを感じた。

私が今回学んだことは生きる熱、さらにそれを包含する全体性ということだった。


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私の今の生活に目を向けると、仕事中は空調のきいた部屋で外の温度もわからないような枠の中で生活していたな。
私は食べ物は大切に考えているけど、自分の手からかりとったものではないものを食べている。

私は自然の命の一部をいただく感覚は希薄であったと思う。
外の空気や太陽の光、匂いや雨や川の流れる音などを受信するところをオフにしてしまっていたみたいだ。


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私がこれから行動を通して分かっていくことは私は私の身体で生きているということ。
私は空調のきいた部屋で何かの映画を見ている人ではなくて、私には温度があり、私の命を生きているということを感じたい。


私は1日1日の季節の変化を感じていきたい。
そしてそこにいる私の変化、変わらないところも見つめていきたいと思った。




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S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) ぐりーんクラス



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今回の WORKSHOP で、身体を動かすこと(運動)は、今までは時間が出来た時にできれば良い程度の認識だったけど、人として必須条件だったと学んだ。

大地に足を付けて、身体を動かすことが、自分の身体の感覚に耳を傾けることが、人生にとってこんなに大切なことだったなんて、知らなかった。


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私は、生まれてからずっと大地の近くで暮らしたことがない。
アースされて当たり前な暮らしが人として正常だなんて思ってはいなかった。

そもそもそんな選択があるとも思っていなかった。大地と近くにいなかったから、近くへ行きたいともいたいとも感じなかったし、今もまだ、大地の近くで暮らすという感覚が掴めない。
よく解らない。


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大地の上で楽しく身体を動かすって感覚が、今の私には本当に解らない。

そして私はずっと、人として生きてこなかったと学んだ。


生きるっていう意味がまるで違っていた。
でも、大地に戻るってどういうことなのかが、やっぱりまだ理解が出来ていない。


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私は WORKSHOP を受けると、特に上のクラスの WORKSHOP を受けると毎回思うことがある。

本当に本当に私は、何にも知らない。
そして教えてもらったことすら、上手くできない。
気が付くと道がそれて行くこともしょっ中だ。

見えないものを、感じられる感性は全くもって弱いけど、やっぱり私は私の人生をまだ諦めたくないと思っている。


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自分が生まれた意味。私の残りの時間でやらなければいけないこと。
好きで、得意なこと。

自分にそんな高貴なものやことがあるとも、まだ思えない。
実感できないから。

でも、その答えを見つけることが私の最大の仕事であるらしい。
そしてその答えを私は明日までが自分の残り時間だったとしても最後まで考えたい。

そういう人生の時間を、私はこれから過ごしたいと思った。




タイトルはじまり目印

C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) ぐりーんクラス



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ワークショップ・クラスから大分時間が経った。
でも、あの日受けた衝撃は今も私の中に鮮やかに残っている。

インド舞踊の女性の美しさ。
大地と一体となり身体の中に芯が通っていて、強さとしなやかさがあった。

あの周りの建物と観客との交わらなさ、お互いの異質さ。
周りの空間からくっきり際立って見えた。


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オールブラックスのハカを見た時から、泣けて仕方なかった。
なぜ涙が出たのか言葉にしようとすれば出来るけれど、どんな言葉にしても形にした瞬間に陳腐で薄っぺらなものになりそうで、今も言葉にしたくない。

あの感じを覚えておくために、1つ書くとするならば。

彼らに感じたのは、「自然」「静けさ」だった。
例えば山がそこにあるような。


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私が回復を始めたのは、ヴィジョンクエストしたかったからだった。

でも、その後私がしてきたことは何だったんだろう?
私は彼らとは「生きる」ということの重みも真剣みも違う。


気が付いた。
私は「真剣にやる」=「真面目にやる」ことだと思っていた。

「真面目にやる」って悪いことではないけれど、子供のころ両親や先生から言われ、大人になってからも周りから期待されていたことではなかったか?
「はみださず、言われたことを言われたとおりにやる」ってことじゃないの?


何ということだろう。
私はこれだけの時間を生きてきても、真剣に生きるということを知らない。


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「新しいことは何もやらない」
「戻るだけ」

その通りだった。
振り返ってみたら、何度も何度も違う言葉で違う角度から学んだことだった。


私はその度に分かった気になるけれど、また、すぐにずれてしまう。
気が付くと「自分」に合わせてではなく、状況に周りに人の都合に、自分の理想に合わせるよう「がんばって」いる。
身体を二の次にしている。
チェアワークしながら居眠りして、椅子から転げ落ちそうになるなんて、違うでしょう?


私は「がんばり方」を変えないといけない。
実際の行動を変えないといけない。


文節区切りの線

私は、色々なことが決められない。
(それもそのはず。私は自分に必要な時間を自分に許していない…)

どうすることが自分に取って適切なのか?
何を手とするのか?
したいことはあっても、手とつながるのか?


ワークショップの時も、考えてはいけないと分かっていても、もんもんとしながらチェアワークしていた。
やはり「身体」は答えなかった。
(今振り返ると、当たり前かも。私はまた、心のどこかでピカーンとした答えが一発でやってくることを期待していた。私の発想は嫌になる位「バレエ」だ…)


それでも一瞬、私は私の中に「静けさ」を感じた。
これが「身体」?
うまく言葉に出来ないけれど、「静けさ」を感じることはとても心地よかった。


文節区切りの線

怒涛の毎日の時間の中で、私は焦るし状況に流される。
簡単に自分を見失う。
古い悪しき習慣が顔を出す。

そんな時、「がんばる」ことで対処しない。
せっかくまともに寝て休んで考えて、自分に集中出来る環境を求めたのだから。

何度ずれても、「戻る」。
実際に。

私は、私の中の「静けさ」と共に進みたい。