
S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) こうじゅクラス

私の「乳児期」や「歩行期」に、何が起こっていたのだろう。
はっきりとした記憶はなくとも、少しずつ知識を得ながら今に至る自分を観察したり、身近な人物の「言っていた」ことではなく「やっていた」ことを思い出したりすることによって、大変なことが起こっていた可能性が高いのでは、と感じている。
自分に目を向ければ、私が「自分らしい」ということがよくわからずに育ったことは、明らかだ。
どうやって見つけたら良いのかも、まったく見当がつかなかった。
私は、自分がありのまま存在していいとも、幸せになっていいとも、感じられてはいなかった。
むしろ、自分は幸せになってはいけない、なれるはずがない、と感じていた。

私の親はひょっとすると、自分たち自身が満たされないということで、いっぱいだったのかもしれない。
父と母は、子育てにおいて、同じ方向を見てはいなかったのかもしれない。
私はもしかすると、何かを訴えても拒絶されるようなことが、あったのかもしれない。
気まぐれに構われたり、適切に応じてもらえなかったりしたことが、あったのかもしれない。
私に自然に備わっていたはずの好奇心や探究心は、親の価値観に見合うものだけ、歓迎されたのかもしれない。
想像だけでも恐ろしいが、もし小さな私がそれらを全身で感じていたなら…。
生きるということ、その場に存在するということが、どんなに怖かったことだろう。

傷ついたインナーチャイルドの症状・サインの理解を深めていくのは、とてもつらいことだった。
「ああ、これか…」「こういうことなのか…」と、重いものをひとつずつ、自分にゆっくりと落としていくかのよう。
けれど、これが自分には必要だということも、じわじわと感じられた。
このままであっていいはずがない。
私は、助けを求めている。私は、解決を必要としている。

なかでも「親密になることへの障害」について、いま印象深く思い出される気がしている。
私は、どうやって人と健康に関わり、親密になれるのかが、わからない。
依存を目的とせずに、互いに自立して、互いに豊かであるために一緒に過ごすということに、いったいどのようにして至れるのだろう。
本当は心から欲しいと願っているはずの、人と関わる豊かさ。
一方で、あまりの「わからなさ」に、自分には一生得られないのではないかという考えがよぎってしまう。
打ちのめされるような、悲しさがある。
優月さんから、「今、親密になれないと感じることは、正常」という言葉があった。
私がいま感じる状態には、それなりの、原因があるようだ。
私は、こうして学ばなければ、あまりの悲しさにまっすぐ思考停止へ向かい、希望を持つこともあきらめてしまうかもしれない。
ろくでもない行動をとって、自分で自分を突き落とすようなことを、してしまうかもしれない。
知っていくことは、本当に力になる。

インナーチャイルドの瞑想で、私は、たくさん喜んだり安心したりした。
「あなたのお世話をする用意ができている」と聞いて、赤ちゃんの私は「やったー!」。
うれしくて、思わずニンマリした。
「私は欲求をもってもいい」と感じられ、じんわりと温かくなった。
「二人で一緒に怒ってもいい」という言葉は、なんて心強いのだろうと思った。
そうか、私はこの信頼できる大人(私)と、一緒に怒ったり、楽しんだり、冒険したりしてもいいのだな。
「絶対に見捨てたりしない」と言われたときには、自然と涙があふれた。
仰向けの私の下腹あたりが、ふーっと緩むのを感じられた。
小さな私も、大人の私も、互いをギューッと抱きしめたいと感じて、そのようにした。
あなたがいてくれて、うれしい。
一緒にいるって、あったかくて安心。

私は自分のなかに、脆さと強さの両方を感じている。
私には、まだまだ自分でも触れて確かめることをしていない、凍ったままの感情があるようだ。
それらを解かしてのぞき込もうとするときの、崩れ落ちそうな感覚…足がすくむ。
このまま「感じる」を進めたら、一体どうなってしまうだろう。
そんな怖いこと、自分にできるのだろうか。
同時に私には、もはやこれをのぞき込むしかないと確信する、勇敢さもあるような気がする。
もはや、こうするしかない。
この方がきっと、真の解決になっていく。

私は、弱いけれど、案外強い。
このワークショップに申し込んだ私はきっと、そのことをよく知っている。
私の命を、すこやかに生かそうとしているのだ。
ありがとう、私。私は私を、もっと信じていくからね。

S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) こうじゅクラス

「インナーチャイルド・ワークショップ」を受け始めた初期、私はどちらかというと母親に対して怒りを感じていた。
それから、何度も回数を重ね、別のワークショップなどでも、自分の過去を振り返ってきた。
最近は、少しずつ、自分の父親に対して疑念を感じるようになっていた。
私の父は、母に比べれば存在感もなく、感情の起伏も少なく、怒鳴るなどの目立った行動もなかった。
そのため、私は父に対して「優しい人」と好意的な印象を持ってきた。

その、父親への怒りが、今回は特に噴出した。
なぜか?
私が配偶者選びに失敗したのは、無意識に父と似た人を選んでしまったせいだと、気づいてしまったからだ。
ぱっと見の印象は、父と夫では全く違う。正反対のようにすら見える。
だから、ここまで掘り下げるまで、気づくことができなかった。
彼らの共通点は、
・家庭に不在で、無関心。
・子どもを育てる責任が、自分にもあると思っていない。
・子どもができたら、どのように人生が変わるのか、想像できない。どのくらい忙しくなるのかわからない。計画性もない。子どもが産まれるにあたって、そのために何かを諦めるという判断もできない。
・そのような人生の重大事について、妻とまともに話し合うことができない。

私は、そのような男性像を、無意識にロールモデルとしてしまった。
私の母のような「感情的な人」が怖いから、父のような「感情のない人」と一緒にいることに安心を覚えた。
あまりに歪んだ人間関係しか選べない。
どう考えても不幸にしかならない。
私は、「穏やかに、感情を分かち合える人間関係」を知らない。
それが、私の人生を破滅的なものとした。

私は今、廃墟の中で瓦礫を拾うような作業を毎日コツコツとやっている。
この瓦礫で、もう一度、私の安全を組み直すのだ。
それは、私の人生選択の責任をとること。
それは、いい。構わない。やるしかない。だけど…。
もっと心のある人がロールモデルであったならば、どれだけ違う人生選択ができていたのだろう。
そう考えると、悔しくて仕方がない。
これを書きながら、私は泣いている。

ワークショップ中に、鏡を見ながら、言いたいことを言うというワークがある。
私は、あまりこれが得意ではなく、今まではポツポツとしか出てこなかった。
今回は、強い怒りが湧いてきて、うわーっと嗚咽しながらぶちまけた。
なんてことをしてくれたんだ。
お前の無責任さのために、私は今、瓦礫を拾って生活しなければいけなくなってしまったんだよ。
私だけならまだしも、孫の世代にまで、悪影響を及ぼしたんだよ。

「この世界へようこそ!」
「私は、あなたのお世話がしたいのです。そして、その準備ができています」
「そのために、私の時間のすべてをあげましょう」
大人の私は、小さい私に、そう言った。
それは今までのワークショップでも、何度も聞いた。
今回は、実際に口に出して言ってみたから、なおのことくっきりと聞こえた。
私は、改めて、「そんなことを、言ってくれる人がいるんだ」と、安心感で涙が出た。
私は、そう言ってくれる人を、ずっと外側に探していたから、迷走した。
そして、私がお世話するべき人が生まれても、そのやり方がわからず、戸惑っている。
自分がお世話されたことがなければ、他人をお世話することもできない。
時間がかかるけど、そこを一からやり直さないといけない。
私は、小さい私にした約束を、守る。
何度でも、私に言い聞かせる。

ワークショップ・クラスが終わってから、私の(現実に存在する方の)子どもたちが帰ってきた。
帰ってくるなり、電気を消して部屋を真っ暗にして、ペンライトを持って探偵ごっこを始めた。
部屋が真っ暗になり、私は何もできなくなって困った。
もう夜遅いし、寝る準備もしてほしいところだ…が、楽しそうなので、私は少しの間、微笑ましく見守った。
翌週、幼稚園のお迎えに行くと、子どもが園庭で遊び始めてなかなか帰りたがらない。
日が長くなって、暖かくなったからだろう。
これも、「何分までね」と約束してもらった上で、見守るようにした。
手帳にも、そのための時間を書き込んだ。
(その約束も、たいてい「いやだ〜もっと遊びたい」と延長される。やっと園の外に出たかと思えば、正反対の方角にある友達の家までついて行きたいとダダをこね出す。こういった延長の時間も、見越して書き込む必要がある)

ワークショップ中に、「自律性:自分がやりたいことを、自然に自分からやること」が、いかに大切かということを学んだからだ。
これを子ども時代に奪われると、「自分のやりたいことがわからず、人生決断ができなくなる」と聞いた。
私は青ざめた。
私はそれで、ものすごく人生が苦しくなった。
借り物の意見がなければ、決断ができない状態だった。
借り物の人生は、ずっと息苦しかった。
それを取り戻すために、援助を受けながら、人生決断の練習をしているのが現在だ。
そこには、大変なお金・時間・エネルギーがかかっている。
自分の子どもには、そんな苦労を負わせてはいけない。

探偵ごっこも園庭あそびも、それ自体に意味も生産性もない。
生産性とか時間効率とか言うなら、寄り道せずまっすぐ帰ってきてくれる方がいいし、遊ばずに寝る準備をささっと始めてくれる方がいい。
意味も生産性もなくても、「今、そうしてみたいからする」ことが、すごく大切なんだ。
そうやって、小さな「やってみたいこと」の経験を積み重ねるから、大きな「やってみたいこと」にも挑戦できるようになっていく。
私の子どもには、そうあってほしい。
そのための時間を、たっぷり与えてあげたい。
そのためには、理想をぼやいていても仕方がなく、現実的に、文字通り「あそび(余白)の時間」を捻出する必要がある。
やっぱりここでも手帳が出てくる。
そのために、私は別のワークショップで、時間習慣の基礎をひたすらやり直している。
気づきを得ては、基礎に戻り、行動し、学び直し…深めていく。

「子どもが突発的にやりたいと言ったことに対応する時間を捻出するために、自分の時間をとって、うんうんと、何を削るか悩む」
それは、外から見たら映えない努力だ。
大した評価をされることもないだろう。
だから、かつての私は、そういうことをサボってきた。
けれども、今の私にとっては、そこに意義を感じる。
その努力に時間をかける。そうする自分を認めることができる。
私自身も、今、「私と子どもの安全のために、私がそうしたい」と思っているから、そうしているのだ。
他人から見たときに生産性がないとしても。
それでいいと思う。
そういう小さいことを、どんどん、私自身にも経験させてあげたい。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。