2024.05月開催 「境界線ワークショップ」ぬわらえりあクラス

画像
タイトルはじまり目印

M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) ぬわらえりあクラス



タイトル下の線


ほんとに困った、しんどい状況になった、これマズいなってなった、ああどうしようとなったら…。
そういうときの自分の責任を持ちたくなくて、わたしは、相手に自分を任せてしまっていたのだった。
自分のことを全く知ってもない相手に。

ああどうしようとなったときの自分も込み込みで、そんな相手に載せて。
そして、実際にああどうしようとなったときに、相手はどうにもしてくれないことも知った。

わたしは、これが、奪われるだけ、依存なのだとわかった。
そして、これも自分でリスクをとりたくない行為なのだと思った。


文節区切りの線

これは、ダメだよね。という軽い反省では済まず、わたしは、ほんとに、酷い自分への裏切りだと感じた。
わたしは、自分に土下座しても足りない。

ほんとに困ったとき、見捨てられてきた。
だから見捨てられたくなくて、すがる。

まさに、原家庭のままの状況の再現。
「インナーチャイルド・ワークショップ」ではないが、小さいわたしも出てきた。


文節区切りの線

普通、困ったってなったら、「ん? どうしたの?」って、声かけるよね。「じゃあ、どうしようか」って一緒に考えるよね。
それに、なんか方法ある…それは、わたしは最近そう思えるようになってきてる(実際に別方法がとれる、とはまた違いますが…今は意気込みレベルで)。
わたしは、そう気づき、安心した。

そしてまた、わたしは、そういう普通のことも、わからなかったのだった。
あるいは、だから、一人でどうにかしようとする。
それは、小さいわたしの癖だ。


それが、どう依存なのか、その場ではわたしはよくわからなかった(しばし頭混乱していた…自分一人の力でやろうとしている…のに? と)。

ああ、いや、これは充分依存だ。
コントロールだ。これは恐ろしい女だな、わたし大丈夫か、いや、気づけた、OK。と、確認できた。


文節区切りの線

ワークショップ中に言われた映画の世界にいるということ。
それは当たりすぎてて、わたしは、感心すらしてしまった。

それは、わたしは、もう三回目ぐらいに言われてきたことだった。
「自覚が持てるといいね」勉強会で頂いた言葉も、思い出した。

自覚って、こんなに持つのが難しいのか。とわたしは思った。
そして、まだわたしは、怪しい。


文節区切りの線

その悪い癖を、わたしは、もうやめたい。
わたしは、なんかもうしんどい。
なんか大好きな大切にしたいはずの存在が、大嫌いになる…と、帰りに涙が出てきた。

そう必死にやってるときの自分も、わたしは、好きじゃない。

やめよう。
そう思ったら、気が軽くなった。
無責任な軽さではなくて、別のことにその力を使えるような、そういう感じになった。

やめよう。
これは、依存なのだ。
恐ろしい女になること。そう思ったら、そこから離れたくなった。


文節区切りの線

自分が何をしたいのか、わかってない。
と、プレワークに書いていた。
そりゃ、わからんはずだ。と今わかった。

今まで書いてきたワクワクリストやライフサークル、なんかおかしいとわたしは思う。
だけど、わたしは、何がおかしいかよくわからない。

ほんとに、わたしは基礎からわかってなかったんだ。
酔ってる人が酔ってないと言うのはこれか、と思った。


文節区切りの線

その原因、仕組みが今回見えて、わたしは、開けた気持ちになった。

そして、そこで、よく頑張ったわ~でどっこらしょと座ってしまい、また甘さに負けることを今までしてきた(…気づいただけで頑張ってもないのにとつっこめる)、その甘えも書いておいて、
安住して座るのでなく、クラウチングスタートの姿勢で考えます。

ありがとうございました。




タイトルはじまり目印

M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) ぬわらえりあクラス



タイトル下の線


私は、今回もワークショップに参加して自分が進んでいる方向がズレていたことに気づきました。
以前まではこのことにショックを受け、落ち込んだりもしました。

でも今は「またか…」と多少の落ち込みはありますが、ホッとする気持ちの方が大きい気がします。
それはこれ以上ズレていかないから。ここで止まることが出来たから。


文節区切りの線

ズレたままどんどん進み、進みながら自分の境界線の中に新しいもの(ゴミ)を入れる。そして違っていたと気づいたときの軌道修正や入れたもの(ゴミ)を片づけることにかかる時間とエネルギー。

何をするにも時間のかかる私にとってはその恐ろしさが少しずつわかってきたから。
だから気づけて良かったです。


文節区切りの線

今回は自分が先送りしてきたこと、自分の境界線の中にあるゴミについてシェアしました。
私はこのことについて本当にものすごくうまく逃げてきたように思います。

逃げすぎて自分の中でそのことが「とても小さなこと」になっていました。
いつのまにか完全に圧縮された状態になっていました。

だから私は自分にとって大事だと思う他のこと(結局は新しくゴミとなるもの)に取り組んで自分は進んでいると思っていました。


文節区切りの線

シェアをして表に出したことでその「とても小さなこと」は私の境界線の中で存在感を増し、本来の大きさに戻り「とても大きなもの」になりました。

よく見ると、それは私が長い間あこがれているものであり、何度も「私はどう生きたいか?」の中にも出てくるものに通じていました。
(これは今回 PAY FORWARD にまとめている過程で気づきました)


私はそのことにトライしてこなかったわけではありませんでした。
でも全力で取り組んできたかと言えばそうでもありませんでした。

そこには「誰か助けてくれないかな」といういつもの依存からの甘えがあったり、面倒くささや、本気でやって傷つくことが怖い気持ちもあったように思います。


文節区切りの線

今回、ワークショップでシェア出来て良かったです。
私にとってシェアが出来たということは「腹がくくれた」ということだから。

優月さんからの「それを何が何でも乗り越えると決める。覚悟する。」という言葉も刺さりました(今まで何度も言われてきましたが…)。
私はこの「何が何でも」までの強さがなかったのだと気づきました。

また「もうそれをしないと先には進めないということ」という言葉にも納得しました。
それは自分でもそのことがどこかでわかっていたからだと思います。


文節区切りの線

私は、この山を何が何でも乗り越えたい、そして乗り越えます。
私は、このゴミを何が何でも片づけて、その先に進んで行きたい。

そのために「NO」を使って自分の境界線を守ったり、自分に必要な時間をかけて考え、取り組んでいきたいと思います。

ありがとうございました。




タイトルはじまり目印

S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) ぬわらえりあクラス



タイトル下の線


今回の WORKSHOP で、私は改めて「もう、この問いから逃げることはできないんだな」と強く感じた。
それは、「自分はどう生きたいのか」という問いだ。

壮大すぎて、そんな簡単に答えなんて出るわけないし。とか、私には無理な問いだし。とか。私はずっと、何やかんやで向き合う事を避け続けて生きてきた。
でも、そうするうちにごみは増え続けて、何が何だか(何が大切で何は手放すのか)解らなくなって私の頭はずっと、混乱状態だった。


文節区切りの線

私がいつも失敗してごみを増やすパターンについて考えた時。それは結局、詰め込みすぎた時だ。

その時の自分の、キャパ以上の荷物を背負った時。
今、私がたくさん背負ってしまうのは「恐怖」と「焦り」からそうしてしまうのだけど、それは今は有事なんだから仕方ないし今は頑張り時なんだからそれ以外の方法や道はないんだと思い込んでいた。

でもそれは、半分合っていて半分は間違っていると、今は思っている。
理由は、自分が埋もれてしまうから。

やりたいことの上にやらねばならないことで埋め尽くされて、人生がどこか重くて暗くて、息苦しかった。というより、全てのことを心から楽しめていなかった。


文節区切りの線

私は、詰め込みすぎるとイライラして、落ち着かなくなって、途端に自分のことが解らなくなってしまう。
何を求めていて、何を一番に考えているのか。本当はこうありたいと願っていても、「今は無理」と言って自分のニーズは放置して、なのにできない理由を探し出す。

でもその結果、あろうことか星に走っては地団太を踏み、自分のことが好きでなくなっていた。
思い返すと「こんなはずじゃなかった」って、泣いてばかりだった。


今、私が思うこと。
これまでたくさん集めてきた人生のラベルも、物質としてのモノも、自分が好きだったとしても抱えきれないならそれは、今の自分にとっては要らないもの。

いつか私が成長した時、再会するのかもしれないし、また別の何かかもしれない。


文節区切りの線

今の等身大の自分を認めることは、こんなにも難しい。
でも認めてしまえば、こんなに楽なことはない。

そちらの方が生きるのが楽しくなると、私は知っている。
だから私はもう、昨日と同じに生きるのをやめよう。
だってやっぱり成長したいから。

WORKSHOP を受けながら、そんなことを思った。


文節区切りの線

「ぬわらえりあクラス」の皆様
今回もありがとうございました。

お仲間さんが居てくれるから、私はなんとかしがみついてこれています。
皆さんと共に考えながら、私は私のベストを尽くしたいなぁと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。




タイトルはじまり目印

T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) ぬわらえりあクラス



タイトル下の線


私は、自分の身の丈に合わないことを、ずっと追いかけてきた。
こうなりたい、こう見られたい。私は思い描く自分を演じれば、装っていれば、そうなれるような気がしてた。

私が自分なりに行動したつもりだったのは、結局のところ新たな依存先探しになっていた。

新しい場所に出ていくこと、薄い関係を増やすこと、誰かの手を貸りること。
それ自体は必要だけど、それが見つかればもうOK! とつい思ってしまう。

私はこの一発逆転と依存の発想が常にベースにあることに、プレワーク中にまた気付いて、恥ずかしくなった。


文節区切りの線

WORKSHOP が終わってから、私の日々がいかに身の丈に合っていないかを度々思い知る。

身の丈に合わない生き方。選択。スケジュール。
「身の丈」で考えてみると、私のもやもやに付合することが多い。
ただひたすら頑張って疲れ果てているのも、私の境界線をはみ出していたから。

私が感じる不安や焦りは、私の身の丈では無理なことを達成しようと必死だったからなのかもしれない。

日曜の夜がとても忙しくなっていたのは、食料品を対処できる以上に買ってしまっていたのかも。


文節区切りの線

追い立てられるような仕事のスケジュールに、思考停止で奴隷化してる自分に気付いて、ここで立ち止まろうと思った。
暴走する列車から私は降りたいと思った。

頭を整理して、上司に相談し、一先ず大きめの会議を一つ先に延ばすことにした。
自分のキャパをはみ出していると感じて行動したことで、私は少し気が楽になった。

きっと日々そんなことだらけで、当たり前になりすぎて気が付かなかった。


文節区切りの線

身の丈に合わないものをどんどん取り込んで、私の境界線の中はガラクタだらけだ。

自立できていないから、依存と引き換えにゴミを増やす。
自己理解を先送りにしてきた分も含めて、ゴミの整理にも相応の時間がかかる。

誰かに片付けてもらいたくなる思いに気付きながら、それでも他でもない自分でやるしかないと分かってる。


私の等身大って一体何なんだろう。
私が私だと思っていたものが、どんどん崩壊してく感じがする。
それも自分で一つずつ整理していくしかないし、私はガラクタの山から宝物を見つけ出したい。


文節区切りの線

日光を浴びて体を動かそうと、ここしばらく、週末に近くの大学構内を歩くようになった。

ワークショップ・クラスの翌日、以前から気になっていたエリアに初めて足を踏み入れた。
そこが遺跡と自然を保護する水辺のある原生林ということを、行って初めて知った。

緑の多い構内をたまに散策してたけど、昔からの自然がこんな身近にあったことに驚きながら、じわじわと幸せな気持ちになった。
これは私の境界線に入れていいもの。私が心地良いものだと思った。


文節区切りの線

WORKSHOP で優月さんの「何か危ないことがあったら振り返ってよく考えて、二度と起きないように対策を打つ」という話にハッとした。

私は何かあると、「どうしてこうなったんだろう。誰が悪い。私が悪い。」
そう考えて、それで終わってしまいがち。

それでは何の解決にもならないと頭では分かっていても、中々その先に進めないことが多かった。


振り返る、何かから学ぶ、次に繋げるという習慣の無さが、自分が苦手と感じてる諸々と繋がっていると、日々の中で気が付く。
検証して着実に次につなげるのをすっ飛ばして、次! 次!! と反応で進んでいくから、何も積み重なっていかない。

習慣がないなら練習すればいい。
今週は振り返って次に繋げたいと思うことがあり、忘れない内にまずその時間を取ってみようと思う。


文節区切りの線

私は、日々「自立」を意識しながら、今回の学びや気付きを自分のペースで実践していきたい。
一つずつしかできないけど、自分なりにコツコツ、身の丈に合わせて取り組んでいきたいと思う。

今回も多くの学びをありがとうございました。




タイトルはじまり目印

S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) ぬわらえりあクラス



タイトル下の線


私は、「私に関係のあることだけ」を境界線の中に入れ、そうでないものは外へ出さなくてはいけない。
自分のゴミは、自分で片づけなくてはいけない。

それなのに私は、現状の等身大の自分のことをよく知ろうとしないまま、遠くで輝く「星」を目指そうとしていた。
こうするべき、こうなれば…と想像することをくり返しているようだ。
このふわっとした感じに、覚えがある。


自分の実力範囲を超えたところへ、実力範囲外のスピードで、たどり着かなければいけないと想像している。
そして、それはあまりに現実味がなく、手に負えないようなので、ふわっとした焦りと不安と絶望感に駆られたままで時を過ごしてしまう(=何も、していない)。

私は、絶対にうまくいかないやり方をとって頑なに変えようとしないという、とてもおかしいことをしている。


文節区切りの線

私は、自己理解なしに「自分になる」というのは、どうやっても無理なのだと分かった。

自分の手持ちの武器は何なのか、どんな状態にあるのか。
何をしなければならないか。

自分が何が好きなのか、合っているのか。やってみなければ分からない。
色々な可能性を想像するだけでは、わからない。


文節区切りの線

私は、「自分のゴミを自分で片づけること」が黄金の扉なのだと学んだ。
境界線をしっかり持つとか、「ノー」と言えるようにさえなれば、ということは、解決ではない。

取り組もうと考えるだけで「うっ」と躊躇してしまうようなことを、私はやらなくてはいけない。
そのゴミを放り込んだ自分に向き合わなくてはいけない。


本当に、それに早く手をつけなくては、先へは進めないようだとわかった。
私のパターンは、TEG のデータのとおり、傾向が変わっていない。そして依存をする気が満々のままだ。

追いつめられたら、またいつものパターンをとるしかなくなるだろう。
自分のいるところをふわっと逃げ出して、自分の外側のことを先にやったり、「誰か」重心で考えようとしてしまう。
このままでは、私は自分を本当に守ることはできない。


文節区切りの線

私は、自分の「衣・食・住」のことを自分でやっていくということが、冷静に考えれば当然なのだと思った。

自分の境界線の中にあるものは、自分に関係のあることでなくては、困る。
そうでないことがむなしいのは、当たり前なのだ。

「生きるとは、自分でやること」「自分の人生に責任を持つ」ということが、ふわっとした言葉ではなくて、自分の心と身体のこととして、自然なことなのだと感じた。
私は、それを自分でやるのは、貴いことなのだ、とも感じた。


私は、いつでも今、この現状の自分からスタートする。
私は、自己理解がそっちのけだったことに気づいた自分から、また始めていく。

何とか工夫すれば重くても全部持てないかと試みることは、やめる。誰かに片づけてほしいと願うことも、やめる。
重いものを引きずっては進めないので、ゴミだまりに向き合っていく。




タイトルはじまり目印

S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) ぬわらえりあクラス



タイトル下の線


自分の境界線の中から、いらないものは出さなければいけない。
自分をイライラさせるもの、煩わせるもの、時間を吸い取るもの、自立を阻害するものは、出さなければいけない。

これは、基本中の基本だった。
ずっと前に教わったことだ。

「自分のゴミは、自分で片付ける」
そんな強い伝え方をされるまで、私はゴミを見て見ぬふりを続けていた。

「いや、これはゴミじゃなくて、私には必要なものなんだ。
だからまだ捨てられない」と自分に言い聞かせて。


文節区切りの線

なんでゴミが自分にとって必要だったのか。
そこに私の「見えない利益」がわんさかとあるからだ。

ゴミを見て、たまにゴミにつまづいて私はイライラする。
すると、私は、私がうまくいかないことをゴミのせいにすることができる。

決して私のせいではないと。そして、ゴミをいかにいい位置に収納すればつまづかないのかという、「解決しない問題」の解決に時間を使い、何かやった気になる。


それは一時的にうまくいく。
「やった! やっといい収納場所を見つけた」

そして、ちょっと片付いたように見える部屋の床にスペースが空くので、またゴミを持ち込む。
いずれ、片付けたはずのゴミが、雪崩を起こして床に散乱する。

それは、最初に片付けた時よりも量が増えているので、さらに片付けることが難しくなっている。
それでも捨てずに片付ける方法ばかりを探している。


文節区切りの線

さすがに、そのゴミは生ゴミやホコリなど、「見るからにゴミ」ではない。
どこの家にもよくある、「本音のところ気に入らないけど、まだ使えるもの」「なくてもなんとかなるけど、あったら便利なもの」「それがあったら、未来を良くしてくれそうな気分になるもの」だ。

確かに、「捨てるのはもったいない」という気持ちをかき立てられるものばかりで、他人から見た時にも、「え、それ捨てるの?!」みたいな反応になりそうだということも、捨てられない理由になっている。


文節区切りの線

それを捨ててしまうと、私は不便になる。
その道具に頼っていたことを、自分でしなければいけなくなる。

それを捨ててしまうと、私は、生活のレベルをぐんと落とさなければいけなくなる。

それを捨ててしまうと、私は、「道具がなければ何もできない自分」を直視しなければいけないくなる。
それを捨ててしまうと、私は、「いい気分の自分」を保てなくなる。

それを捨ててしまうと、私は、「これがあればいい未来になるのではないか」という幻想を抱けなくなる。
それを捨ててしまうと、私は、問題はゴミのせいではなく、それを家に入れてしまった私のせいで起こっているということに気づかなければいけなくなる。


しかしそれらが明らかに私のスペースを圧迫している。
だから、本当は、私の家は狭い家だったのに、こんなにものを買ってきちゃいけなかったんだ。

他人は、「そんなに持っているのだから、さぞかし広い家に住んでいるのだろう」と推測する。
私は、私の家がすごく狭くてみっともないことを、他人に知られるのが怖くて、ずっと隠して生きている。


いいところだけつぎはぎして見せて、いつボロが出るかと怯えている。
そんな状態で生きていて、他人に心を開けるわけがない。

新しい出会いがあっても、うわべの会話しかできない。
親密な関係なんか、作りようもない。


文節区切りの線

今週は、今の自分の現実にイライラを感じやすくなった。

これは決して「自分が置かれている現実」と呼んではいけない。

受動ではない。
被害者でもない。
「自分が作り出した現実」だ。


ちなみに、現実そのものは、先週と今週で大きく変化しているわけではない。
ワークショップを経て、私の感じ方が明らかに変化したのを感じた。

私は、本来であればこんなにイライラするような現実をうまく回すために、相変わらず、自分を麻痺させるという方法を取り続けていたのだ(内側のコントロール)。


文節区切りの線

強い苛立ちを前に、私はちゃぶ台をひっくり返したいような気持ちに駆られる。
つまり、「もう来ないでください。明日から、来月から全部やめます」と言ってしまいたい気持ちだ。

そこで、「待て」と冷静になる。その「0か100か」では、破綻を招く。
だからこそ、ワークショップ中に「まず1日やめてみる」という実行例を示されたのではないか。


文節区切りの線

[PAY FORWARD 期間中に片付けたこと]
・2つ続けていた仕事のうちの1つに、辞める連絡を入れ、合意を得た。
・受ける予定にしていたサービスを、まず一つキャンセルした。→ その日は、そのサービスがなくなっても支障なく回った。
・今後キャンセルにするサービスの候補を考えた。私のためになっていないと薄々感じていたもの、不安ゆえに過剰に入れ過ぎていたものから、やめていくことにした。
・サポートを得るための相談の連絡を入れた。
・法律の勉強会のチラシを見つけ、申し込んだ。

片付けたこと全てについて、それらの行動をすると、とてもスッキリした。
肩の荷が降りて、自信がつく感覚があった。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。