

S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) るいぼすクラス

ONSA さんとご縁をいただいてからの3年、ほぼ欠かさずに「インナーチャイルド・ワークショップ」に参加させていただいている。
ワークショップの前になると、楽しみな気持ちと、重い気持ちが混ざる。
このワークショップでしか味わえない、深い集中の時間が好きだ。
現世からいったん離れて自分の過去に入っていく体験は、とても自分1人ではできない。
それと同時に、
「ああ、また過去を見にいくのか」
「もうそろそろ、前を見て生きてもいいんじゃない?」
「やらなければいけないことはいっぱいあるし、過去を見ているより、進む方に時間を使ったほうがいいのでは?」
という焦りも湧いてくる。

ワークショップが終わる頃には、いつも、「私にはこの場が必要だ」と再確認する。
「とにかくやらなければ」と焦り、過去の傷は忘れたことにして、感情という人生の羅針盤も動かないまま、目の前のタスクを千切っては投げ、千切っては投げ…と繰り返してきたから、人生が迷走してきたのだ。
3年という期間、集中して再訓練を重ねてきた今の感覚で、当時の状況に入っていくと、以前よりも不快感を強く感じた。
「こんなところに子どもがいてはいけない。この子(私)を連れて逃げなければ」と感じ、小さい私にも、そのように手紙を書いた。
小さい私は、「ここじゃない、安心できる場所があるの?」と、信じられないような気持ちだった。
やっと安らげるのかと、力が抜けるような気分だった。

「感情が復活すると、人生決断が早くなり、危機察知・回避も早くなる」
「勉強したりタスクをこなしたりするより、遠回りに見えて、とても早い」
いつもそのように受けている説明の意味も、少しずつ体感としてわかるようになってきた。
私はようやく、当時の状況に強い不快を感じ、「逃げなければ」というところまで思えるようになってきた。
それは、「今後、このような不快を感じる関係性には近づいてはいけない/逃げなければいけない」という身体感覚を学び直す過程でもある。

ONSA を受講したての頃、「有害な人間関係とは距離を置かなければいけない」と習ったものの、「その有害な人間関係って、どうやって見分けるんですか?」という状態だった。
診断基準のようなチェックリストがあって、それを頭に叩き込めばいいのだろうとも考えていた(もちろん、ある程度は知識の勉強も必要で、それは役に立っている)。
ただ、その「診断基準のようなチェックリスト」は、ある程度、その人と関わらないと見えてこない部分もあり、人間関係の入り口では判断が難しいことも多い。

その点、感情は強い。
「この人といると、落ち着かないな」
「この場にいるのは、ちょっと嫌だな」
「この人は、安心できるな」
ファーストインプレッションの、たったこれだけで、結論が出る。
むしろ、ここで頭を動かしてしまうと、「でも、いいところもあるかもしれないし」「付き合ってた方が、私も得だし」とか考え始めて決まらない。
おそらく、感情の言うことの方が正しい。
私は、もっともっと感情を解放したい。
そして、その羅針盤をもとに、私にとって安全な人生選択をしたい。
薄皮を剥ぐように、私を再発見していきたい。

私の子どもがちょうど学童前期〜学童期と重なるので、「インナーチャイルド・ワークショップ」は、私の子育ての再訓練の場でもある。
「自分がされていないことは、自分の引き出しにない」ということを痛々しく感じる。
私の手持ちのキャパシティでは、子どもに十分な環境を与えることは難しいのだと、日々悔しく思っている。
完璧な環境が与えられないから、もうだめだ、私は母親失格だと全て投げ出したくなることもある。
その0か100かで考えることをやめたい。
確かに不足していることはとても多い。
過去にもたくさんやらかしたし、今もやらかしている。
それでも諦めない。粘り続ける。
20でも50でもいいから、今できることを積み重ねたい。
Better than Nothing.

S. H. さん(40代以上/岩手県よりご参加) るいぼすクラス

私は、前回初めて受けたときとはまったく異なる印象や感覚をもち、とても驚いた。
前回、本当に目をひらいて参加していたのか? というぐらいに違う。
私は、抑えていた「感情」に気づき、あらためて感じる必要がある。
私は、自分を「癒す」必要がある。
これらは、言葉で理解するだけではなく、実際にそうしなくてはいけない。
学童前期や学童期の私は、想像以上に深い痛みや傷を抱えていたのかもしれない。

私は、この年代の自分がどんなふうに過ごしていたのか、あまり思い出せない。
それについて私は、家族の状況に変化が大きかったから仕方がない、自分にもきっと至らないところがあったのだから、といった解釈をしていた。
知識で確認して、自分のことを感じてみて、「いや、ちょっとまって…」と、たびたび言いたくなった。
子どもの私には、当時は押さえつけられていた「こんなことがすき」「こうしてみたい」が、あった。
実は、「たのしくない」「たのしいということが、よくわからない」とも感じていたようだった。

感じることを抑えている、毎日が楽しくない子どもって、いったいなんなのだろう…。
様々な芽がつぶされ、育たなかったかもしれない。生き物として危うい状況だったのではないか。
ましてや、その先には思春期が控えている、大切なはずの時期。
「仕方がなかった」では、済まされない。

家の外の世界の広さを知ったり、自立を目指したりすること。
学んで練習しながら「私はできる」という体験を重ねたり、健康的に人と関わることを学んだりすること。
私はいまになってやっと、本来これらの時期に取り組むはずの「人生の宿題」の感触が、初めて自分のこととして感じられるような気がしている。
私は、すでに失った時間を思うと、悔しくて、悲しくて、情けない。
でもだからといって、いまの自分が感じたり体験したりすることを自分が馬鹿にすることも、ちがう。
やはり私は、ここにいる「私」でしかない。

私には、「甘え」がある。
助けやなぐさめを、いつもどこかで探している。
これが自分にとって大問題だということも、今回とても身にしみている。
「大変だった」自分は、この歳で今からこの宿題に向き合わなくてはいけない。
だから何とか、大目に見てもらえないだろうか。
近道を通れないだろうか。助け船がやってこないだろうか…。

子どものころの私は、「しっかり者」「お姉ちゃん」という役割で自分を支えていた。
弟妹の存在は、自分にとって絶対的な味方と感じていた。
私はいまだに、その味方の存在を感じられる、子ども時代の懐かしさに帰りたい心地がする。
私はどこかで、懐かしさを握りしめていても、傷や痛みの解決にはならないことも、分かっている。
でも、それを手放して何も無くなることが、ほんとうに怖い。
私はきっと、もっとちゃんと痛みを感じたり、泣いたり怒ったりしなくてはいけないことも、怖い。
そして私は、怖いけれど必要なことだ、ということも、わかっているのだと思う。

インナーチャイルドの瞑想のなかで、子どもの私は、大人の私に会った。
この人がどんなときでも味方でいてくれる。
信じていいんだ。
そう感じられて、とても心強かった。
いま、これから、私の味方は、私自身。
大人の私が、絶対に自分の味方で居続けるのだ。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。