M. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) うれしのクラス
これが「ステージ3」なのだなとあらためて実感したワークショップでした。
わたしにとってはまだ難しく感じた。
レクチャーは(自分の理解速度は遅いが)ハッとすることや確かにそうだと感じることばかりだった。
だけど、それを「実際にそう生きる」ことがまだよくわかってない。
それは、今から自分でやっていくことだからだと思う。
自分の手を使って生きてくこと。
自分のこの年齢にして、この手札…。
それなのに、質問(要対処)の大きすぎること。
そこで怖くなってしまい、自分なんてダメだとなり、止まってしまう(思考停止)ということはわかった。
そのことに気づいたのは大きかった。
どんなに質問が大きくても、この今の自分でやることしかできないんだなと初めて思った。
質問が大きいので、大きいことでしか対処できない。とも無意識で思っていたことにも気づいた。
わたしは日常でも止まってしまうことがあることに気づいた。
ワークショップでの質問にも止まってしまった。
それが思考停止していることだと、生まれて初めて気づいた。
怖くなって止まってしまうと、あたかもその権利を得たようになってた。
止まっていい、だって、あなたは能力低いしそんなにできないんだから、と。
だけど、自然界でそのようなことは辻褄が合うのかな?
そのようなことを言って、保護してくれる人はいるのかな?
いないよね。たとえ今の自分の家族でも。
保護しようと見せかけられて搾取されることはあるよね。
いつもワークショップ・クラス後は、落ち込んで反省して、変な馬力を出そうとしていた。
今回は、落ち込んで反省もあった、そして、今の自分を見て「考えて」いきたい。
ありがとうございました。
A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) うれしのクラス
私はワークショップ中に出てきた「地道に手をつけてこなかった怠け者」という表現が胸に刺さった。
まさに私のことで、その事実から私はずっと逃げ続けている。
私にはいざという時に、役に立つスキルも経験もないという事実が痛かった。
大学で卒論を書く時、就職活動をした時、転職をした時、将来のことを考えた時。
私は自分のことをちゃんと考えるタイミングで、何も考えなかった。
正直いって私は「いいな」と思ったことを、目指す努力を投げ出していた。
こわくてよくわからない、失敗するかもしれないことより、今の私でもできることを選んできた。
つまり誰でも出来ることをしていた。
そして誰かのせい、言い訳がつくことを自分で選んできた。
私は命の危機が目の前にきても、まだ自分の終わり具合がわかってなかった。
クラスではっきり言われて、お仲間さんの真剣な努力をみて、やっとこの恐ろしさを感じてる。
私はわからない、後で考えよう。先延ばしで、永遠にその時はこないを繰り返している。
ワークショップに出てやった気にだけなってる。
それどころか、私のことをなんとか自動で変えてもらうという下心で参加している。
そんなことは起こらないのも、わかってなかった。
私は引越しして場所をかえ、転職して表面の動作をかえるだけでやり過ごそうとしていた。
全然何もかわってないし、かえようとしてないのだ。
いい大人なのに、まだ誰かが生き方を教えてくれると信じてる。
前回の転職と同じ動作を繰り返していた。
私の誰かに話を聞こうは、あわよくばその人に乗っかろう、なんとかしてもらおうということなのだ。
その依存心を捨てて、話しを聞かなくてはいけない。
生の声から少しでも自分のことを判断する材料を拾わなくてはいけない。
私はやることが全然違うのだ。
ちゃんと話を聞こうと思ったら、前準備が必要で、そのための時間も足りない。
残業なんて絶対できない。
私は本当に本当に、自分の依存心と怠け癖がこわい。
私はそれが自分の人生を台無しにしようとしているのだ。
今の時点でも逃げてやり過ごそうとしてしまうのが本当の恐怖だ。
M. K. さん(30代/福岡県よりご参加) うれしのクラス
私は幼い頃、お金がなかったのでとても悲しかったです。
私は子供であり、親の庇護なしでは生きられないのに、お金もなかったのでどうやって生きていていけばわかりませんでした。
ここと出会う前、私にとっての「お金」は私が生きいていくために絶対に必要なものでした。
私の職業選択に1番影響を与えたのは「お金」でした。
ワークショップに参加するまで、私も「お金」とは何かと交換するためのもの、だと思っていました。
同時に、ただの紙切れでもあると思っていました。
昔は私に関することでお金を使っていいとは思っていなかったし、私に投資していいのだと分かってからも、その使い方はどこか変でした。
今も、変だと思います。
私は昔の私が買えなかったものを、買っている。
私はただ欲の為に買っているだけな気がします。
私は自分の経験に投資するようなことがもっと早くできればよかった。
私という存在を生かしていくための技術を学ぶためにお金が使えたらよかったと思いました。
これからの私は、私をどのような環境において、どのような栄養を与えていくのか。
私にどんな研磨が必要なのか考えてお金を使うということをしたいと思いました。
環境を変えるために、私の物質としてのお金が減ってしまうだろう。
私がこれからどうやって自分の力でもう一度私を生かしていくためのお金を得るのか、そこが課題だと思いました。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) うれしのクラス
私は、お金とは「手(手段)」であるという考え方を学んだ。
そして、自分の手を使って、自分の一生を何とかして支えていくことが「自立」と学んだ。
このことを自分なりに感じてみて、それがつまり「生きる」ということなのでは、とじわじわと思えてきた。
言葉にすると当たり前のようだが、自分にとっては当たり前ではなかった。
つまり、「生きる」ということを、していなかった…。
自分に向いていることは何なのか。好きで、合っていて、長続きすることは、何なのか。
本来であれば、しかるべき発達段階に、自分の「手」のために真剣にならなくてはいけなかった。
それが何なのかを探り、見つけ、試していくことを、してくるはずだったのだ。
自分の「手」となるものを育てるためには、学んだり鍛えたりする時間が、絶対に必要だったのだ。
私は、それをしてこなかった。
やっていたことは、自分を生かしていくスキルとしては深まらないことばかり。
長く就いてきたのは、時間との単純交換という形の仕事。
「最もクリエイティブではない方法」と表されたことは、本当にその通りであり、自分に強く響いた。
どこへ向かうかを考えもせずに突き進んできた趣味も同様に、自分のために何も生み出さず、広がらないことだった。
私は、この事実に、悲しさとむなしさを感じている。
取り戻せない時間のことが悔しい。
私は、嘆き悲しむばかりではなく、この「むなしさ」という感覚は正しかったのでは、とも直感した。
自分の成長や「生きる」につながることをやってこなかった。それは、むなしくて当たり前ではないか。
それなら、私はこれからでも「生きて」みたい。
そのためにできる限りのことをしたいと思う。
自分の「手」となるものをさがす。
そのために学び、自分を鍛えていく。
必要に応じて、働く環境も居住環境も変えて、新しいことをやってみる。
それは、どんなに下手くそでも遅いようでも、何としてもやらなくてはいけない。
私が私のためにできることは、この先の自分を生かしていくために真剣に行動することだと思う。
T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) うれしのクラス
私は普通にあまり何も考えず日常を過ごしていると、お金=お札というのが当たり前のように染みついてきてしまう。
怖いなと思った。
ワークショップ・クラス後の1週間は、手(手段)について考えていた。
私がこれまで聞きなれてきた、手に職をつけると言うことの意味も、単純に職業に関することではないのだとわかった。
自分が身に着けてきたスキルについても、あまり大事ににしてこなかったかもしれないと思った。
それから、私は自分が延ばしたいスキルが何であるのを真剣に考えてきていなかったのだということを、いくつもの案立案のA案を考える中で思った。
それに、今、実際に今後のことを調べている中で、どうしても語学力というのにぶち当たってしまうのも実感している。
他のB案~E案まで、練り直しの最中だ。
私は、いくつもの新しいスキルを身に着けられる時間は、厳しい現実がある。
自分のこれまでの中から、何かを引き出しそれを磨いていくことになると思う。
厳しい現実とも向き合うことになるだろうとも思う。
それでも、私はこれまでの経験やスキルを活かせる道を柔軟に探す。
そして、ワークショップ中に言われた「何とかして、自分の一生を自分で支えていく」ことと、子ども達も支えていくことを形にする。
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) うれしのクラス
お金とは自分が生きていくための手段。
ワークショップでそう聞いた時に、若い頃から「うちの会社は潰しがきかない」と耳にしていたのを思い出す。
会社から出た時に今のスキルは役に立たないと先輩から聞かされた。
今になって、つくづく実感する。
ワークショップ・クラス数日前の、会社のイベント。
長年過ごしてきた場所だから、(中身はともかく)一見それっぽく振舞っている自分を眺める。
ここから出たらきっと通用しないだろうな。
そんなことを考えていたら、ワークショップ・クラスの中で思い知らされる。
私のなけなしのスキルっぽいものは、私が生きていくためには使えない。
自分の手に何もないことに、途方に暮れてしまう。
「手に職をつける」のは大切どころか、生きるために必要だった。
それでも、ワークショップが終わってから、日々の中でもしかしてこれは私の芽になるかな? と思うこともある。
相当頑張らないと無理かも…と思うとそこで沈みそうになる。
想像よりもはるかに時間がかかることにガッカリしつつも、そういうものかと思い直す。
先日、好きなことを生活の中心にしようと挑戦している人たちに会った。とても楽しそうで、話していると私も楽しい気持ちになった。
地元で自給自足をしている人の本には、自分で自分を賄う豊かな暮らしが描かれていた。
不便さを楽しみ、自分の得意をお金を得る手段にするために相応の努力をしている。
そういう姿を見ていると、羨ましくなって、私はまたついショートカットを探してしまう。
でも、自立のために努力を重ねたからこそ羨ましい現在があると、今なら分かる。
自分で考えて努力していくことでしか、安全な未来は得られない。
私にも相応にできることはきっとあって、自分の一生を支えていく方法を、私は自分で見つけたい。
私はついつい引っ張られる一発逆転はあきらめて、日々地道に探し続けることをあきらめない。
ありがとうございました。
S. Y. さん(30代/富山県よりご参加) うれしのクラス
「お金は、増えるものに投資する」
「時間の単純交換をしても、手が増えない。歳を重ねるごとに不利になっていく」
目からウロコの考え方にばかりで、「もっと早く知りたかった…」と思うばかりでした。
時間の単純交換=事務的な仕事=安定だと思い、そこに安住している自分がいました。
いっけん、今はそれで安定しているように見えても、それは歳を重ねていったときに、あるいは環境が変わったときに、何も自分に残らないというリスクと引き換えになっていたのだと、恐ろしく感じました。
次の仕事についても、徐々に考え始めていきたいと思っています。
その前に、「その仕事で、私のスキル、手段は増えるの?」という考え方を知っておけて、本当によかったと思います。
その視点をもって、探していきたいと思います。
「岐路のときは、自分が変わり、殻を破り、成長するタイミング。
自分がギリギリ、リスクをとれる選択肢は、必ずある。」
という話に、背中を押されるような感覚がありました。
私は、まさに今、岐路に立っています。
私にとってギリギリ、リスクをとれる選択肢を選ぶという方向で、かなり進んでいます。
それでもなお、リスクをとるのが怖いと、立ち止まりたくなる瞬間が何度もあります。
行き当たりばったりの選択ではなく、私は、この選択に半年以上の時間をかけています。
もう、私は、私が成長するためにこの選択をするのだと、腹を括らなければいけないなと感じています。
後半の、自分で自分を生き抜かせるための複数案を考えていくということは、このワークショップ内でなければ、とてもできなかったと思います。
私は、特性のために、せいぜい数ヶ月先の、短期的な視野しか持ち合わせていません。
したがって、今は、今の眼の前のことに集中しています。
集中すること、それ自体は悪いことではありません。
ただ、「直近3ヶ月間をやり過ごせる選択」と、「3年先を見越した選択」とでは、かなり変わってきてしまいます。
だから、こうやって手助けを得ながら、自分では考えもしないような問いに答えていく時間が、私には必要なのだと感じました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。