A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) じょうにおいクラス
私はこのワークショップに参加する直前に体調を崩していた。
今までも何度か体調不良で参加したことがあった。
(初めての方へ:ONSA は、何がなんでも参加しろという強制力はありません。本当に無理なら休んでもいいのです。私がどうしても参加したいという意志でやっています。)
今回はご飯が食べられなくてぐったりしていた。
今日という今日はもう無理か…いや、とにかく挨拶だけでもして、寝ながら聴くだけになってもいいから、オンラインにつなげる近くのホテルのデイユースまで、なんとか行こう。
そんな状態だったので、精神的にも落ちていた。
「やりたいこととか夢とかたくさん挙げて、やってみよう、自立しようと意気込んでたけど、さっそく無理だったじゃないか」
「結局、体調崩して、私が頼るのは今まで通りのメンツじゃないか。自立には程遠い」
「職を変えるなんて到底無理だ。住む場所を変えるのも、人間関係を変えることも…」
ホテルの部屋までなんとか辿り着いて、接続して、優月さんとお仲間さんにお会いする。
今回のワークショップの中で、
「自分に怒らない。そのかわりに行動する」
ということを何回かお話された。
そしてハッとする。そうだったと気づく。
昨年の体調不良時に優月さんからいただいた助言の中に、「落ちているときほどひとりにならない方がいい」というものがあった。
私は、体調不良でただ具合が悪いというだけでなく、その悔しさをうまく伝えられる人がいないという孤独感があったのだ。
そして自分の中でぐるぐるして、基本的なことも忘れ、考えたくないモードに入ってしまう。
私はワークショップのシェアで話をしているうちにだんだん元気になってきた。
昼ごはんも食べに行く気力が出て、食べることができた。
今回、最も驚いたのは、「姿勢が悪いと、身体が感情サインをキャッチできなくなる」ということだ。
「もやもや」「嫌だな」とお腹の辺りに感じるものが、全くなくなってしまう。
この状態で麻痺して、即返してしまっていたのか、と、実際にやって体験して納得した。
今週は、とにかく姿勢を意識している。
これを書いているこの瞬間も。
特に PC 作業や運転時は崩れやすいと気づく。
首を正しい位置に戻すと、呼吸が楽だし、気持ちも落ち着いてくる。
私はこれを当たり前になるまで意識して練習したい。
その上でいざとなったら「NO」が言えるという自信もつけたい。
これは、またワークショップで練習の場を自分に作りたい。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) じょうにおいクラス
私は、また新たに、いまの自分について知ることができたと思う。
自分で実際に自分の境界線を守っていく力の弱さ、そしてその状態の危うさを感じた。
私には、練習が必要である。
私は、場合によっては、自分にとって大切なことを守るために環境を変えることも必要になる。
それらは、自分が自分のためにやっていくことなのだ、ということが、また明らかになったと感じている。
ワークショップでの練習を通じて、私は、自分の身体に戻り、その状態を観察することが、とても心地良いと感じた。
静けさの中でじっと自分に集中することで、私は安心し、落ち着くことができた。
姿勢を整えることで、声の出方が明らかに変化するのを感じられた。
自分のなかから湧いてくるものを正直に感じようとするとき、私は私という存在を感じることができた。
私は、身体の「ノー」をキャッチする練習で、自分が「イヤだな」と思っているということを、鳩尾のあたりや肩や腕の緊張などで感じた。
わざと姿勢をくずしてみた時の感覚は、とても印象深いものだった。
私は、身体を、自分の存在を、感じられなかった。感じなくとも済んでしまうようだった。
どこかあきらめていて、理屈で何とかなるとか耐えられると盲目的に信じ、その場をしのごうとする。
自分の感覚を自ら封じ、心も身体も動かないようにさせているようだった。
これでは、私は自分の本音の「ノー」を感じることはできない。
ずっと緊張したり変な姿勢を保っていて、何らかの症状につながることも想像がつく。
私は、この感じになじみがあると思った。
そのことが、衝撃的だった。
私は、これまでの人生の多くの部分に、このやり方が存在している。
私は本音では「ノー」だったのに「イエス」と応じたり、それが自分の希望であるかのように自分自身をコントロールしたりする。
それは、自分に対する裏切りだった。
自分に対してのウソやごまかしを維持するために、私は多大な労力を注いできた。
これでは、私は自分を信じられなくなって、当然なのだと思う。
私はいま、自分の本音とはつながっていない選択や決断の積み重ねに対して、違和感が増してきている。
私が自分の味方であるならば、これからは旧いなじみのやり方を使おうとしてはいけない。
私は、今のところどんなふうに生きたいのか、と問うてみたとき、「私は自分を好きでいたい」と感じた。
私は、自分に対して正直で誠実でありたい。
私は、自分のなかに「ああしてみたい」「こうしてみたい」という様々なイメージがあることも感じた。
制限したり裁いたりすることなしに感じてみると、私には、自分にとって大切なことも、たしかにある。
自分にとって大切と感じることは、誰が何と言おうとも、自分にとって価値があることだ。
私は、自分にとって大切なものを、自分の境界線にいれていく。
そうでないものは、外へ出したり、初めから入れないということが必要である。
そのためには、自分がどうありたいか、自分で、自分の方針をもって、決めていく必要がある。
私は、これまでそれをやってこなかった。
とても不慣れで、いざとなるととてもぎこちない動きになると思う。
一気に完璧にできることではないからこそ、私には練習が必要だと思う。
小さいことから少しずつ、身体の「ノー」を感じることが必要だと思う。
今は歯が立たないと感じた全力の「ノー」にもつながるよう、自分のことを知り、自分に力をつけていきたい。
自分のために行動を起こすのは、自分なのだ。
私はこのことをしっかりと心に留めて、学びと練習を重ねていこう。
旧いやり方につい手をのばしそうな自分ではなく、「今、ここ」の賢い自分の声に、耳を傾けていこう。
M. K. さん(30代/福岡県よりご参加) じょうにおいクラス
学生の頃から社会人になってもいつも同じ形だったエゴグラムが今回は違う形をしていた。
身につけられたこと、変わらないこと。
それを見つめるだけでなく、行動に起こすことがまだ私ができていないことだと思う。
S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) じょうにおいクラス
今回のワークショップを終えて私が思ったこと。
それは「私は何をそんなにガマンして生きているのだろう?」ということ。
でも、客観的に書き出して考えれば、もう生きる上で今の私がいる世界(国)はガマンに満ちているし、強いられている。
私は、堂々と息を吸いたいし、気軽に健康的な食べ物が買いたいし、日用品やエネルギーが徐々に値上げされていくのも嫌だし、何より権利を搾取されているのが本当にもう耐えられない。
私は、私でいたい。
どんな意見や選択をしても、それを誰かにいいとか悪いとかジャッジされる覚えはない。
…ここら辺にしておきます(笑)。
私の処世術は「私さえ我慢すれば」がいつも高め。
今までは、まぁ自覚はあったし、でもむしろ自分は、日ごろからガマンしたりセーブしながら頭を低くして暮らしていかないとダメだよなとすら思ってきた。
一方で、その処世術は私にとってとても便利で「私さえ我慢すれば」交渉しなくていい。
自分の意見を述べなくてもいい。
何なら持たなくてもいい(その方が楽だから)。
難しいことは一気に解決したい、誰かに考えてほしい。と、そういう見えない利益があったんだなととても強く感じている。
私は、何かを堂々と言うことが本当に苦手。苦手を通り越して、出来ない。
誰かが自己主張をしたり(健康な人でも)、理不尽な要求をされても口をつぐんで、フリーズしてしまうパターンが染みついている。
本当に「その場の苦痛を何とかやり過ごして、後から考えよう」が常。
でも、後から考えたことはどれ位あっただろう? 考えた時だって、真剣に考えただろうか? いつも、今を生きていなかったんだなと思うと、私は内なる自分にたくさん我慢を強いて生きてきたんだなと改めて思う。
私は、我慢をしながら生きるのは嫌。
だから、身体に戻って身体を感じられるようになりたいし、今を生きることをあきらめたくないなと思います。
ワークショップ中のチェアワークで、姿勢を悪くしただけでもやもやを感じられなかった体験は、結構、衝撃的でした。
私は、いつでも時間と身体の管理。
これを死ぬまでに達成出来たら、上出来だって思ってます。
ご一緒してくださった皆さん。
今回もありがとうございました。
また、次のWSでお会いできたら嬉しいです。その時は宜しくお願いいたします。
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) じょうにおいクラス
私はいつもぎゅっと縮こまって、自分の身を守ろうと防御姿勢をとって、なるべく何も感じないようにしてきた。
ワークショップの中でチェアワークを繰り返して、私の身体がいつも以上にガチガチだと気付いた。
最近ストレッチをさぼっていたし、出張で体が固まっていた自覚もあったけれど、これじゃあ私は快も不快も感じられない。
実際、試しに防御姿勢を取って比べた時、私は心にフタがされたようだった。
私はそうやって心にフタをして生きてきた。
身体が拒むものはノー。身体は既にノーと感じているというのも実感した。
身体はとても賢くて、ちゃんと教えてくれている。
考えてみれば、身体のノーはいっぱいある。
それを、私が気に留めず見て見ぬふりをしていた。せっかく教えてくれているのに。
私は自分の身体の感覚を大切に拾って、尊重したいと思った。
そして、私はいつも「その時言わずに、後から何とかしようと考えて」いる。
私はいつでも、後から何とか帳尻を合わせる方法を探している。
その場で考えて対処しないと、それがずっと延々続くということには心当たりがありすぎだった。
結局帳尻なんて合わなくて、私がひずんでいくばかりだった。
自分の今の境界線について改めて振り返ってみた。
2年前、私は会社で業務の多さに溺れそうになっていた。
どう考えても無理だと思い、私は上司に何度も伝えた。
最初は軽く流されたけど、しつこく訴え続けた結果、幾つかの業務を他の人に戻してもらった。
当時異動してきたばかりの私に、仕事を次々と振ってきた上司は、今は新しいメンバーに仕事を振っている。
一方で、上司は私に新しい仕事を頼む時は相当気を遣ってくるし、業務量が問題ないかしつこく聞かれるようになった。
冷静に考えればこれが普通で、当初が本当におかしかったと分かる。
私は業務量に関して、必死に境界線を引こうとした。
この点に関しては状況が変わっている。
それ以外で境界線を破られていることもまだまだあるから、道半ばだけど。
それでも、自分なりに必死に部分的にでも線を引いた結果に今があると、今回気が付いた。
同時に、がんがん振られている新しいメンバーを、つい何とかしてあげようとしてしまう私もいる。
それって本来違う担当の仕事じゃない? と言いそうになる。
私は自分のためにせっかく境界線を引いたのに、また手を出そうとしてしまう。
気付いてぐっと堪えているけれど。
そこにも私の NP の高さが垣間見える。
常に私が面倒を見なければと思ってしまう。それが私の処世術なんだ。
そういうことがまた少し見えてきた。
私の状態と何をどう積み重ねていけばいいのかが、少しずつ分かってくる。
ワークショップ・クラスの後、私は少しずつ小さなノーの練習を重ねている。
不快と感じることをそのままにしないように、相当不器用でも、嫌なものは嫌と主張している。
「できない自分に腹を立てる代わりに、一つ練習をする」
優月さんのメッセージを思い出しながら、一つずつ。私は自分なりに練習を重ねていきたい。
今回もありがとうございました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。