Y. W. さん(40代以上/愛知県よりご参加) くりすてぃーぬクラス
人間関係も、目の前の生活も、私の内面がそのまま現れている。
今、私はそう感じるようになった。
今回の「冬の大勉強 & 大準備会」で学びを進めていく中でも「本当にそうだな」と随所で私は感じた。
つじつまがあってるとわかると、つらいけど、納得がいく。
そりゃそうだなと、シンプルに思う。
逆にこれまで、私がいかに「見たくない」から「見ないようにしていた(ごまかしてた)」かもよくわかる。
これまでの私は、認めることができず、それで精一杯だった。
今の私の苦しみや悩み、うまくいかないこと。
そのすべてが、私のせいではない。
でも私もまた、確実に関与している。
自己否定に走らず、でも自分のしていることや過ち、ゆがみも「私がしてることだ」と認めていく。
今の私は、揺れながら、それをしている。
私の人生が、歪んだ環境・土台から始まったこと。
私は、とてもくやしい。
でもその上に、歪んだまま、あれこれ具体的なものを積み上げてしまったこと。
これは私がしたこと。
その歪みに長年気づけず、私はここまできてしまった。
とても悔しいし、時間を戻したいけど、できない。
苦々しいけど、仕方ない。
これが私なんだ。
目の前の現実、状況、私が歩いてきたここまでのこと。
ありのままに、正直に見ることも、認めることも、私にはとてもむずかしい。
ごまかし、目をつぶったり、何かにすがりたくなる。
でももうそんなことを続けても、どうにもならないし、私を幸せにしないんだということもわかっている。
落ち込むのは仕方ないと自分をいたわりつつ、今の私にできる「正直さ」で、一つ一つ受け止め、できることをしていきたい。
優月さん、スタッフの皆さん、お仲間さん
貴重な時間をありがとうございました。
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) くりすてぃーぬクラス
私はプレワークを通じて、自分がいかに救済者を演じ続けてきたのかを痛感していた。
両親の救済者だった私は、両親と距離を置いた今は、職場のそして上司の救済者。
そのことを改めて実感する。
結局のところ、私はその役を手放せずにいた。
「負わなくともよいことまで、“負わねば” と思い込んでいる」というのは私のデフォ。息を吸うように責任を負おうとする自分を私はいつも感じてた。
もはや目を皿にして責任のかけらを拾い集めている気すらしてくる。それは私の性で病なんだ。
困っている人を助けるのは人として当然のことと刷り込まれた私。新たな業務を始めるために手放すことで打合せたことですら、再び自ら関わってしまう。つい最近もそんなことがあったばかりで、身につまされる思いだった。
そして「限界と境界」も分からないまま。私は火事場のバカ力でその場をなんとかしようとするのがデフォで、それを日常的に使っているから文字通り燃え尽きていた。
そうやって身をすり減らして、心も擦り切れそうだった。私は自分にどれだけ負荷をかけてきたのだろう。ごめんね、私。
「接触回数=親密度」。私は仕事でザイアンスの法則を他人によく説いてきたのに、自分のプライベートでは全く活かせていなかった。むしろ真逆のことをしている自分にがっかりする。
私がいかに自分のこととして考えられていないか。本当に痛いことばかり。
私の今の業務は、どちらかといえば人を助ける、手伝うことがメインミッション。
何をどこまですることが私の境界線なのか、幼い頃から救済を生業として生きてきた私は、正直分からなくなる。
私はその生き方しか知らない、教わらなかったから。
だから、来年の冬には私は自分の境界線を鍛えられたと実感したいと願うことにした。
あれほど行き詰まっていたところから、小さくて大きな歩みを進められたと感じたい。
そんな1年後を目指して、私は自分の状況や状態を意識しながらコツコツ歩いていこうと思う。
ここまで必死に生き延びてきた私ならきっとできる。そう信じて、また自分と共に歩いていく。
今回もありがとうございました。
S. H. さん(30代/宮城県よりご参加) くりすてぃーぬクラス
私は、数年前の自分が感じていた「わけの分からない苦しさ」が、変化してきているのを感じる。
かつて、自分の生きづらさや人間関係を難しくつらく感じることは、自分の落ち度ととらえるしかなく、ただ苦しさだけがあった。
「人への依存」があり「自分の人生に自分が不在」だったのだ、という理解が進んできたからこそ、それが本当に重くて苦しいことなのだ、ということもはっきりとわかるようになってきた。
こうして学ぶ機会を得なければ、私はずっと自分自身のことを分からないままだったかと思うと、とてもおそろしい。
私は改めて、学びと練習をつみ重ねようとしている自分のことを、誇らしく思っている。
私は、今回のワークショップ・クラスで、「救済者」という言葉を強く意識した。
それは、自分が頻繁に担っている役割であり、自分の存在意義の一つとなっているということが、身にしみている。
私は、その役割を果たせば存在していい。そうでなければ存在してはいけない。
何とかして自分が存在していいと感じたいがために、私は反射的にその役割を担おうとする。
「救済」をするには相手が必要である。
そして私は、「人間関係への嗜癖」のために延々と時間やエネルギーを費やしていくが、結局自分には何も残らない。
私は、「自分がない」「空虚」と感じる仕組みがあるということに、今とても納得できる。
私は、この自分が陥りやすいパターンの重苦しさを感じるとともに、自分がそこにしがみついているようにも感じている。
私は、自分のために、この状況を変えていきたい。
私は、ワークの一環で取り組んだ「この先のビジョンは?」という問いが、とくに印象に残っている。
チェアワークの前後で出てくる答えがまったくちがっていて、自分でもおかしかった。
最初に浮かんだものも、自分にとって確かに必要なことではあった。
しかし、私の中にはそのとき、「ビジョンとはこれでいいのだろうか」「これで、許されるだろうか」「正解は何だろう…」といったことが浮かんでいたのを覚えている。
いま思えば最初の答えは、私の心と身体から出てきたものではなく、頭の中でぐるぐると動いていたもの、だったような気がする。
チェアワークを経て感じた自分の答えは、私が満たされることにつながっていた。
私のなかから、身体が温まることや、おいしいという気持ちやそれを人と分かち合う喜びのような方向が、自然と湧いてきた。
ビジョンはこっち、という説明を受けたとき、私はそれを、頭ではなく全身で納得できたような気がした。
私は、「人間関係の棚卸」で、自分の人との関わりがいかに受身であるか、ということを感じた。
自分の周りにどんな人がいるか、そしてそれぞれどのような関係なのか、と意識することに、とても不慣れであるとも感じた。
私がいま身近に持っている関係性は、自分が「救済者」となりやすい関係に多く偏っているように思う。
たまたま近くにいるから、長く関わっているから…ということと、本当に自分が関わりたいのか、ということは、大きく異なるのだと、私は初めて意識した。
私はこの先、どんな人と積極的に関わっていきたいか、そのために自分がどう行動するか、ということに、もっと目を向けていきたい。
私はこれから、「救済者」であることで埋めている自分の時間を、変えていかなくてはいけない。
そのためには、私にとっての「ビジョン」や「1年後になっていたい自分」を描いて、そこへ向かう行動を起こすことが必要になってくると思う。
ワークショップ・クラス当日の自分のメモに、私はとても勇気づけられている。
「ビジョン」を見返してみると、「それ、いいね!」「たのしそう!」と、いまの私がまた、改めてワクワクするのを感じる。
「1年後の今」のイメージには思いのほか力強い言葉も並び、いまの私にはそのためにやるべきことがはっきりと存在するのを感じている。
私はこうして、学んで練習することを続け、自分にとっての決定や選択を増やしていきたい。
私は、自分自身との関係を、もっと深めていきたい。
優月さん、ご一緒した皆さま、今回も本当にありがとうございました。
A. S. さん(30代/新潟県よりご参加) くりすてぃーぬクラス
「救済者」とは…根本を辿ると、やっぱり基礎の「境界線がない」ということになるようだ。
「終わりのない、“これが終わったら”」に、永久に埋もれるところだったなと、自分の過去を振り返って思う。
この先のビジョン、とは、感覚的なことでいいのだと知ってよかった。
このほかほかとした感じを目指せばいいのだ。それは身体も心も冷え切るような選択をしない、ということにつながっていく。
「接触回数=親密度」には納得できたが、“私が” 親密になりたい人に対して自ら接触回数を増やすということをやってきていなかった。どこまでも受け身で、だから気持ちよくない人間関係の中で親密度を増してきてしまっていたんだな。
人間関係は、自分自身の写し鏡。
自分が変わると、新しい人間関係が始まっているはず。
親密度の話も含めて、少し気になる人間関係にはトライしたい。そんな2023年にしたい。
自分の共依存についても、少しずつ目標を立てたい。
今まではやみくもだったけど、1年で何にトライする? と私の中で明確にしたい。
そういえば『夢かな手帳2023』にも、1年の目標を立てるページが増えてた。
ここに書いて毎月振り返るとよさそうだな。
自分の人間関係の変化を客観的に振り返って、自分が好んでいない古い人間関係に対して(具体的には年賀状をどうするかということで)、グダグダ悩んでいるのはもったいないなと思う。
そこはまだまだ変化が必要な部分だと思う。
ただ、急に絶縁、という形ではなく、丁寧にフェードアウトしたい、とも思う。
少なくとも来年の今頃にはこのことで頭を煩わせることがなくなるように、今年準備するという時間を作ってもいいかなと考えている。
その一方で、スッと決められるようになった人間関係もある。
例えば今週誘われた高校の部活仲間の飲み会。年末にやるという。
私は会いたいと思ってないな、とスッと思った。そしてあまり悩むことに時間をかけすぎずに、丁寧に断った。
「冬の大勉強 & 大準備会」でワークしたことで、それが共依存的関係なのか、健康な関係なのか、と問う目が少し養われたように思う。
年末に集まるそのメンバーは、私から見てべったりと重い感じがした。
今週は、予告を受けていた通り、かなりイライラする日があった。
「冬の大勉強 & 大準備会」の2日間は、また夫が子どもたちを連れ出してくれていた。
そして日常に戻ると、私は普段からかなり気を張っていたのだと気づく。
家族と過ごしていて、もっとリラックスしていると自分では思っていた。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。