H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) みなづきクラス
今回、私は2回目の感情のワークショップ・クラスで、一度目は2012年の3月でした。
3年と3ヶ月も前のことです。
その時よりは「自分の過去」が見れるようになった、と感じます。
それから、「いまの自分」が見れないという点は、変わっていないと感じました。
その3年前から外側の現実は変わっていなくて、年月が経っている分だけ悪化しているんだって横浜から帰ってきて、自分の周りや、自分の現状を改めて見回して、そう思いました。
変えていかなければいけないのに、「わたし」に向き合ったそこ、で思考停止しています。
「自己流」のやり方が手放せない、みたい…。
ただその自覚が具体的でないので、どこをどうしていいのか分からない、というのがいまの正直な気持ちです。
辛いし、誰にも会いたくない。
そう感じること事態、どこかがおかしいサインなはずなんだけど。
私、どうして、こんな状態になってるんだろう。
戻っちゃってるんだろう。
優月さんに指摘いただくまで、私はまったく(全くです)、「ありがたいと思う」ことが、自分にとって「やっかいなこと」だとは思っていませんでした。
私は、あたまで相手の労力を推測して、その労力に対して、私のほしいものでなかったかもしれないけれど、それは有り難いことだって判断して感じる「べき」ものが、「感謝」だと思ってました。
もしくは、まったく予期しないところから、私に「利」だと考えられることが発生した場合、これは滅多にない有り難いことだって判断して感じる「べき」ものが、「感謝」だと思ってました。
ワークショップ・クラスが終わってからの1週間、「やっぱり今の私は心からは感謝できない人なんだ…」って感じながら、仕事で「ありがとうございます」って反応で返しそうになるのを「これは言ってもいいのか、ダメなのか」と考えながら過ごすのは、本当によほど辛かったです。
(過去に、私の家には「ありがとう」というコミュニケーションが皆無だったので、私は家を出てから、人の優しさに応えられない自分の至らなさに後悔したり、傷ついたりしながら、見よう見まねで「感謝」というもの身につけてきたので…やっぱり私はカタチだけなんだな…ってすごく心が荒れて落ち込みました)
いまこうして書いていても、喉が焼けるように詰まって苦しいんですが、この感覚、わたしはよく知っていて、過去には家でしょっちゅう感じていたと思います。
(あなたみたいなうそつきに、そもそも感謝なんてできるわけなかったでしょ、どうせ全部うそなんだからって、私の中で、延々と再演されているとこうなるみたいです)
(信用できない、大したことない、私の感じていることは全部間違っている、それはもう私はいつも大混乱だったはずだったし、いまもすぐ大混乱です。がんばって! いつでも気がつこう!!)
そうとは限らないし、0か100か思考も入ってるし、論点はそこではないし、でもそこに引っかかって、そこでも私は怒ってました。
私にとって必要な指摘をしてもらったと頭ではハッキリと分かるのに、しかもそこからズレて怒りを感じるなんて、私の反応パターンがとても理不尽に感じます。
本当におかしい。
頭と身体がぜんぜん別モノです。
これって、ふつうで健康な状態なの?
違うんじゃない?
理性のコントロールが利かなくなったら、と思うと心底ゾっとします。
社会で生きるヒトとして、それは致命的です。
そういう点で、まずい、検査も必要だし、私ぜんぜん勉強不足だ、と焦りました。
私(娘)の人格形成に、母の影響が甚大なることを、私はあまりの嫌悪感に「もう大丈夫です」としたかったんだと思います。
ちっっっっッッッとも大丈夫ではないのだけど、自分の感じ方ひとつとって、いちいち母と同じ、そっくり私のパターンは鋳型なのだと思い知るような、それにいちいち向き合う嫌悪というか憎悪、エネルギーの消費具合、ただでさえ毎日虚しくてくたくたなのに、もう嫌、もう大丈夫、大丈夫? 違う…大丈夫じゃない…なにひとつ大丈夫ではない。
今の母を見て、過去の母を想起すれば、どれほど「私」が、社会的に「ヤバイ」か。
「もう大丈夫です」なんて、それは回復も後退してゆく、絶対に避けたい事態に、私はまってるじゃないか…と、あたまを抱えました。
吐き気がするけど、嫌悪感を認めつつ、現実の私の問題として解決していかなければ、私の未来は破滅的なものになりますよ、と学んでいるにも関わらず、そのことから、私は明らかに、目をそらしていました。
私から見ると、私の母は、人格障害の特徴をもっているようにみえます。
その情動を行動化するか、抑圧しているかという違いだけで、反応する感情のパターンは私も母も同じなんじゃないか、とこの1週間、苦しみつつも感じました。
「『できない』というセルフトークをやめる」って、何度も何度も何度も言っていただいて、たくさん「できないのに」って抵抗する感情も感じて出してきたと思うのに、私はやっぱり、からだのどこかで、そのことを、受け入れがたく感じています。
「とにかく、やればいい」ということだけを、理解して帰ってきた感じがします。
帰ってきてから、「とにかくやればいい」ということに、嫌だ、そんなロボットみたいには私はなれない…ものすごい抵抗を感じていました。
いちいちぐちゃぐちゃに混乱して、エネルギーを使うので、本当に私はものすごく疲れています。
じっさいに私のなかで「できない」という言葉が出てくることもあるのだけど、「でも」「だけど」「やりたくない」「もうやめたい」「もう無理かも」、ぜんぶ「できない」と思うからよね。
あ、「私なんかダメだ」も、そうなのかも…。
じゃあ、いま、わたし、まさに「できない」になっているのかも…。
いまは何度も気力こそ尽き果ててしまいそうな心地になっているのだけど、この孤独感に加えて、気力も尽きてしまったら、本当に仕事も未来も大きく失うんだろうなと想像します。
しかも、依存症者の私の場合、その気力を失っている状態も、結局のところは無意識かもしれなくてもどこか演技で、自分の人生を生きたくないからの逃避なんだろうな、という気もします。
母がそうだったから、そう感じます。
私の周りにはもう誰もいないのに、何をしているんだろう。
私以外、私を助けられるひとは、どこにもいないのに、何をいつまでも期待しているんだろう。
私はこんな風に人格に問題を抱えた状態で、周りに私に同情して優しい言葉をかけてくれるひとは居たりするけれど、こんな困った状態の人間に本当に関わろうとする他人なんて、ふつうに考えたら、いないし。
やっかいなものなら、ふつうは、距離をおきたい。
距離をおかないひとがいたら、同様にやっかいな人なんじゃないかしら。
訓練で、感じ方が変えていけるのなら、そうしたい。
コントロールして思いこむのと、そうでないこと、私は見分けていけるようになるのかな。
ならないと、やばいし、すごく自信なくて、吐きそうなくらい誰かに頼りたくて、答えもほしくて心細いけど、それは幻想で、どこにも無いものだから、とにかくやろう。
あーあ…って気分です。
落ち着いて読み返せるようになったら、私の歪みっぷりも明らかなんだろうなと思います。
スネていじけて、もう嫌だってして…。
でも、やめる気はないので、今後とも、お世話になります。
やめないし、諦めない。
泣きたいけど、何度でも立つ。
そうなのよ、私。
「みなづきクラス」のみなさまにも。
ぜひまた、いろんなところで、お会いできますように。
C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) みなづきクラス
ワークショップ・クラス当日から、あっという間に一週間経ちました。
ご一緒した皆さん、お互いにお疲れさまでした。
藤沢さん、スタッフの皆さん、今回もありがとうございます。
私は、「感情ワークショップ」は丁度1年前に参加していたので、今回は2回目の参加となりました。
今まで、「次はこれをやろう!」とすんなり決められていたのですが、今回は他へ進むか感情を復習するか、すごく悩みました。
でも、前回何となく未消化に終わったことと、「ONSA Web. WORKSHOP(2)コース2/STEP.1(2-1/後期日程)」の時感じた「もう一度感情を受けた方がいい」という直感を信じて参加しました。
迷いながらプレワークをし、ワークショップ・クラスに参加しましたが、今になってみて、私は感情の復習が出来て良かったと感じています。
プレワークとワークショップ・クラスを通して、いい意味で自分のしてきたこと、していることが客観的に見えた気がするし、「感情」について、又、「自分の感情=自分」を、前より分かることが出来たと感じています。
感情は頭で考えること(損得勘定・時々で変わる価値観)ではなくて、心で感じるもの。
自然に湧いてくるもの。
心=胸のあたりでなんだか動きを感じるもの(私に取っては、「なんとなくそう思う」「もやもやする」ことでした)なんですね。
又、感情=人に見せても OK なように調整したものではなく、自分の(出来れば隠さなければいけないと感じる)本音のことだった。
(この一週間、過去の出来事を想い出すことが多かったのですが、「決められなかったこと、選べなかったこと」は、感情を感じずに頭で考えて決めようとしていた時と気付きました。又、人からいいと言われた人でも踏み込めなかったのは、自分の感情がストップをかけたからだったと気付けました。「感情は羅針盤」って本当ですね)
感情を感じなければ何も決められないし、自分にとって害になる物の侵入を許してしまうから、ブロックして感じないのは怖いこと(感情=行動を安全に決めるおおもと)。
健全な人には当たり前のことかもしれませんが、こんな当たり前のことが分かっていないのが自分で、そういう成長の仕方をしてきたのが自分なんだと、実感しました。
それにしても、感情を感じる事は大変でした。
プレワークで感情をキャッチする練習をしましたが、「何も感じてない」と感じる時がとても多かった。
そして、「何となくもやもやするな。でも、大したことない?」と思ったことを念のため日記に書くと、実はすごくショックで怒っていた、悲しかった…ということが初めて分かるケースも多かった。
書かないと、感情は消化されずにどこかへ行ってしまう。
でも、解決していないから、いつまでもその出来事・感情に捉われるのだと感じました。
私は、その場で感情を感じ解決できるようになるには、意識的になって感情キャッチの練習を続ける必要があると感じました。
ワークショップ・クラスで「自分にとって嫌な言葉・やっかいな言葉」を言ってもらうワークの時、多分何度も言われていた言葉のはずなのに、ショックが大きくて心に深くささったのに驚きました。
(私に取って嫌な言葉は、「あんたは、いいね(あなただけずるい)」「あなたはしっかりしている(あなたはあなたじゃだめ)」でした。私は、幼い頃から自分の人格を否定される言葉を受け取るのが普通だったんだと、改めて感じました)
心を開いて感情で受け止めると、こんなに衝撃・痛みが大きい。
だから、幼かった私は感情を感じないようになったし、周りと同調するようになった。何より「又、同じ目に合わないようにする」ことを目的に行動するようになった。
「Web. WORKSHOP」や「インナーチャイルド・ワークショップ」でやった「子供の頃はその処世術で身を守れたけれど、大人になってからはそれが自分を苦しめている」ということを実感として分かった気がします。
(私の場合、「自分の感情で決めてこなかったから、全てに虚しさを感じている。感情が分からないから、自分の境界線を守らなくてはいけないシーンで、本当は怒っているのにニコニコしたりして自分の境界線を守れなかった。自分のことなのに、どうしたいのか分からなくなった」)
それに対して自分の気持ちを言うワークの時、チェアワークをしてから言うと心が穏やかなままいられたし、「私は」という主語を入れることで言葉が出てくるようになるのを感じました。
そして、自分の気持ちを言ってみて初めて、私は私の気持ちを分かって欲しかった、本当は私を認めて欲しかった、ということが分かりました。
又、去年は自分の気持ちを言うことにすごく抵抗感があった(子供の自分が「言うもんか!」と歯をくいしばっていました)けれど、今回は前より言葉が出て来たので、一歩進歩したかな? と思います。
(私が幼い頃、何かを主張したくても言葉がうまく出てこない時泣いていたのを、母と姉がからかったりばかにしていたことに傷ついて、泣かない為に言いたいことを言わなかった、ということを想い出せたのが大きいです)
お土産を渡してお礼を言うワークの時は、渡す時はまだいいけれど、お礼を言われた時と受け取る役の時は、なんだかぎこちなくて恥ずかしくて、無意識に心がブロックをかけているように感じました。なんだか、その場から逃げ出したいような気分になって…。
私は、自分ではこういうことは日常的にやっていて出来ていると思っていたので、軽くショックでした。
ネガティブな感情とポジティブな感情は連動していて、ネガティブな感情を感じ表現できるようになると、ポジティブな感情も感じ表現できるようになる、ということを実感出来ました。
ポジティブな感情をちゃんと受け止められるようになったら幸せだろうな、と思います。
感情を感じるワークは、本当に疲れました(午前中だけで疲労困ぱいでした)。
「感情は動くものだから疲れる」とのお言葉に納得したし、いかに自分が日頃感情を動かさないよう、省電力モードで過ごしているのか分かった気がします。
「人が感情的になるシーン」は、去年聞いて知っていたのですが、私はそれを解決に使うことが出来ていませんでした。知っていることと身についていることは別で、だから復習は必要だと感じました。
今回印象的だったのは、感情は育った家族で教えられたもの・受け継いだものだということでした。
そして、感情は「すり替えられる」ことがあること。
「感謝のパッケージ」の例えが分かり易かったです。
私にとっては、感謝=義務で、しないと悪いことが起こるという思い込みがありましたが、思い返すと母の口ぐせからきたものでした。
ネガティブな感情を悟っておらず低次元だから認めない、という人たちの話を聞いた時、私はちょっとあきれつつ笑ってしまったのですが、後で思い返してみたら、私の育った家庭もそういう風潮がありました。
(多分、私は中学生位の時、一番その影響を受けていて、今思うといやみな感じだったと思います)
怒ったり、悲しんだりしてはいけない、愚痴や悪口を言ってはいけない、嫌いな人にも親切にしなければならない…そんな空気感があったように思います。
(そのせいか、私は「嫌い」=「関わり合いになりたくない」が結びついていませんでした。「関わり合いになりたくない」ってことが、「嫌い」がということが、目からうろこでした。気付けてよかった)
私は、悲しい時も涙がかれるまで泣いた経験や、人と分かち合った経験はないかもしれない。
怒ったり苦しくても、言ってはいけなかった。
(怒り、不安、悲しみをうまく解消出来ないとうつになるって、ささりました。母がそうだったと思うし、私にもそうなる可能性がある。心底怖いです)
それから、いやな言葉を言ってもらうワークの時、「防衛」という言葉を教えていただいたのでネットで調べましたが、その中の「抑圧」で見かけた記事が気になりました。
「抑圧していると葛藤が生まれ、エネルギーが奪われる。過去の苦しい出来事、感情にふたをしていると、今、すごく不安になる」
私はいつも根拠のない不安を感じているけれど、私はまだ自分に隠していることがあって、それが原因で感じるのかもしれないと感じました。
その他の種類も思い当たりましたが、「同一視」「取り入れ」「合理化」「補償」が自分にとって要注意と感じました。
又、常にこんなことをしてきたら不健康だし、何も解決しない。空しくなるのも当たり前かもしれない、と感じました。
私が家族から受け継いだのは不健康な感情との付き合い方で、今までこんな装備(処世術)で人生渡ろうとしていたと思うと、ぞっとします。
「名づけることで、感情が形になる」という言葉が印象に残っています。
もやもやして何を感じているか分からないうちは解決できないけれど、感情が何か分かれば解決できるものに変わる。
私は、私の人生のかじ取りを自分で出来るようになりたいです。
今、大きな決断はできないけれど、その為に「今、目の前にある感情をキャッチし続ける」「本音を感じる」をこつこつ続けます。
(時には「怒りのワーク」もしながら。ためないのが一番ですね!)
色々書いてしまいましたが、「感情って大切」ということを感じ続けたワークショップでした。
仲間のみなさんにも、少しでも伝わればいいな、と願っています。
読んでいただいて、ありがとうございました。
R. G. さん(40代以上/東京都よりご参加) みなづきクラス
優月さん、みなづきクラスの皆さん
あれから、あっという間に1周間が経ちました。
いかがお過ごしですか?
私は、WORKSHOP 当日上手く自分の感情を感じることが出来ませんでした。
その事実を私なりに、ぼんやり考えて過ごした1週間。
ネガディブな感情に蓋をしていたら、自分の中にある全ての感情を自分で押さえつけていた。
我慢する事、嵐が過ぎるのをじっと待つといった事に慣れすぎていたんだろうなと思った。
自分を誤魔化す術ばかりが上手くなって、自分の感情を素直に認めたり、許して来なかったからなのだろうと思いました。
私にとって感情というのは、厄介なものコントロールが難しいもの。
ポジティブな感情は良いけど、ネガティブな感情は悪いもの。
そんな認識でいたのだなと改めて思いました、
思い返せば子供のころ、ネガティブな感情を出すと、わがままだと言われたり皆我慢しているんだからと押さえつけられたり、そこにある感情に寄り添ってもらえる事がなかった様に思います。
怖い悲しいなどの感情があったりしても、両親は子供の事どころではなかったからほって置かれる。
そういった時、自分でどうする事も出来ない感情に対しては、怖い・悲しい感情が過ぎていくのを、ただじっと待つ事しか出来なかった。
自分の事なのに、自分でよく分からないという原因はこういう事なんだなと改めて感じました。
その事実と、どう自分が向き合っていくのか。
人から必要とされたい、見捨てられたくないという思いが強すぎると、自分自身に嘘を付くことになったり、自分の感情を後回しにしまったりする。
自分を自分が大切にして、自分の面倒を自分で見れるようになることの大切さを痛感した。
いろいろ頭でわかる事は増えたけど、行動してみるのを怖いと感じたり難しいと思ったりするけれど、少しづつでも自分を大切にする事を考えながら前に進んでいける様にしていきたいと思いました。
今回の WORKSHOP で学んだこと、指摘された事を一度自分の中に落としこんでいきたいと思います。
自分の事を本当になんとか出来るのは、自分自身しかいないから。
A. Y. さん(30代/東京都よりご参加) みなづきクラス
「感情って、本当、大切なんだなぁ。」
わたしの凍ってた心が解凍されていくように、
じわ~っと、深~く、しみて感じるワークショップでした。
感情を感じることを麻痺させて生きてきた私が、それを「感じる」を体験した今、
一体どうやって、私は、感情を感じずに人生を選んできたんだ?!
それって、目をつぶって公道を歩っているようなもんじゃん!!
あぶなっ!!
っと思いました。
ワークショップ・クラスの中で私は、うまく感情を感じれたり、今までの習慣に瞬時に戻って頭で自分の感情を勝手に作ったり、を行き来してたように思います。
頭で感情を表現していると、優月さんが「ここ(頭)、じゃなくてここ(胸、ハート)」とジェスチャーを交えながら教えてくれました。
その、「頭」と「心」の「違い」が今回体験できて良かったと思いました。
そしてその、「ここ(ハート)で感じる」と体を示した場所。
私はワークショップ・クラスの中で、胸の下あたり、胃の右横あたりを押さえて、「ここ」で感じよう。
と取り組んでいました。
ワークショップ・クラス当日からもうすぐ一週間を迎える今。
なんとなく、ワークショップ・クラスで示されていた位置と自分が意識していた位置との少しの違いが気になり、
ワークショップ・クラスで教わった場所に手を当てて「ここ、で感じる。」
と目をつぶってその部分に集中してみました。
私は、なぜ自分がクラスで教わったところより少しずれた部分に手を当てていたか分かりました。
「ここ(ハート)」を意識すると、とても怖かったです。
わたしは、無意識にずらしていたんだと、理解しました。
胸にダイレクトに手を当てると、息が苦しくなるほど感情が勢い良く溢れ、涙が出てきました。
そこには「本物」があると感じました。
そして、
「助けが来た!」「私、になれる! 戻れる!」
そんなことを思いました。
私は、「ここ」に「わたし」がいるんだ、と感じました。
それは、わたしにとって、新しい体験でした。
また、「感情のすり替え」の話も、わたしにとってはとても大切なお話でした。
話を聞きながら、自分のこれまでの経験と重ね合わせ、わたしの思ってた「感情」ってこの「すり替え」ことだったんだ、と分かりました。わたしが親から習った「感情」は「すり替え」だったと自分の中で納得がいき、一つ心の整理ができた気がしました。
その気づきがあったからか、本来の「感情」と、「すり替えの」の感覚の違いを体感することができた気がします。
正しい感情の知識を学ぶことで、わたしの「感情」の印象はガラッと変わりました。
とっても「好印象」です(笑)。
しんどいものでも、重いこともでも、ねっとりでも、べったりしたものでもない。
そんなものだから、避けるべきものでもない。
そうではなく、友達になるべく、積極的にアプローチしたい存在だと思いました。
感情は、心の運動。
というのも、印象的な教えでした。
「運動」だけあって、本当にワークショップ・クラスに参加して、やってみないとわからないと思いました。
体で体験したことは、その後、現実の時間に戻った時の世界が変わって見えてしまうほどの威力でした。
今回のワークショップ・クラスはわたしにとって大事なトピックです。
この後のアフターワークも、ていねいに自分と向き合い、感情とさらに仲良くなっていこうと思います。
優月さん、スタッフの皆様、そして、みなづきワークショップ・クラスの皆様、
大変お世話になりました。
ありがとうございます。
またいつか、皆さんの一歩でも前進した姿とともにお会いしたいです。
Y. T. さん(30代/島根県よりご参加) みなづきクラス
私にとって感情とは、やっかいなもので、どう扱っていいのか分からないもの、振り回されるものでした。
また、感情を感じることは、怖いものでした。
しかし、ウェブ・ワークショップを受けていくうち、感情は人生の羅針盤であることを知りました。感情が私の人生を作っていくのに、とても大事だということを知りました。
感情をもっと学ばなければ、と思い参加しました。
感情にはポジティブな感情とネガティブな感情があって、ネガティブな感情は悪いもので、感じないようにコントロールしなければならないと思っていましたが、感情に「いい」とか「悪い」はなくて、サインなんだということがはっきり分かりました。
ネガティブな感情は悪いものどころか、境界線に侵入されていることに気付くとっても大事な感情でした。
また、ネガティブな感情だけを抑えて、ポジティブな感情だけを感じるようにすることは無理なことで、ネガティブなを抑えると、ポジティブな感情も抑えられることも目からウロコでした。
怒りや不安を感じることも怖いけど、楽しさや喜びも感じることが怖くなっていることに気付きました。
ポジティブもネガティブも、両方ともつながっていて、どちらかを切り捨てることはできないことは、何だか安心でもあります。何を感じてもいいんだってホッとしています。
それと、感情を感じることが怖いと思うことのひとつには、エネルギーを使って疲れるからという理由もあることに気付きました。
でも、エネルギーを使うのは当たり前のことでした。
感情は動くもので、動くものだからエネルギーを使うのだと実感できました。
そんな、ごく当たり前のことも知りませんでした。
改めて知識を学ぶことの大切さが分かりました。
もうひとつ、ワークショップ・クラスの中での「やっかいな言葉」に対して、自分がどれほどの衝撃を受け、ダメージを負っているかということに改めて驚きました。
どこにいても何となくビクビクしている理由が分かりました。いつ境界線に侵入されるか分からなくてビクビクしているのだと分かりました。
優月さんから言われた「脱出」を本気でしなければならないと強く思いました。
これからも歩き続けます。
「みなづきクラス」のみなさま、お疲れさまでした。
遅刻してしまって、ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
あたたかく受け入れてくださって、ありがとうございました。帰りの飛行機は何事もなく飛び、無事に帰宅できました。
優月さん、スタッフのみなさま、本当にお世話になりました。遅刻の件、ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
本当にありがとうございました。
T. A. さん(30代/東京都よりご参加) みなづきクラス
私は自分の感情と向き合えていると思っていたけれど、どうやら違ったみたいです。
無意識に厄介な感情(ネガティブ)を感じないようにする代わりに、過去の役に立たないデータの中から必死に解決策を探し状況に対処するという方法で、いつまでも同じ穴に落ちるという悪循環に陥っていました。
何度も失敗したデータの中から答えを探したって問題解決にはたどり着けないわけです。
WORKSHOP が終わって日々の生活に戻ってみると、私の中で頻繁に感じる感情は「不安」でした。
そして、それは「過去」のデータの中でグルグルしている証拠だと優月さんに教えていただいてことが、実生活で大きな助けになっています。
嘘をつかず、ごまかさず、感情を感じて、自分のことをもっと知りたいと思いました。
そしてその先の決断を失敗しながら決めてゆくこと。これまた私にとって非常に怖いことですが自分を励ましながら無理せずやっていきたいです。
さっき、約1年半前に参加した「インナーチャイルド・ワークショップ(前期日程)」の「じかんのきろく」を読み返していました。
(私にとって ONSA で初参加した WORKSHOP です)
その頃の私は、自分のことよりも子供のことばかり心配していました。
「私が子供を不幸にしてしまう」という恐怖に常に支配されパニック状態に陥り自分のことなど考えられる余裕はなかったし、回復を初めたのも自分のためというよりは子供のためでした。
あれから1年半。
もちろん今も子育ての悩みはつきませんが、ずっとつきまとっていた恐怖は薄れてきています。
やっと自分のことを考えられる余裕がでてきたんだなぁ…と改めて実感。たった1年半ですが自分の成長を感じられました。
遅いは早い。
本当だと思います。
今日からがまたスタートです。これまで何度もスタートに立ってきました。これからあと何回スタート地点に立つのでしょうか。またスタート地点に立っています。
本物のスタート地点…いったいどこにあるのでしょう。それでも感じている自分の成長…不思議です。
自分の人生の土台を作るとても大切な作業の最中なのかなと思っています。
さあ、今日も一歩一歩、粘っていきます。
優月さん、「みなづきクラス」のみなさん、
本当にありがとうございました。
そしてこれからもよろしくお願いします。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。