Y. T. さん(30代/島根県よりご参加) しらんクラス
とても濃い3ヶ月が終わりました。
「コース2/STEP.1(2-1/前期日程) 」の時よりもずっと、共依存にどっぷりとつかっていることが分かりました。
本当に、本当に手強い。
- 外側を変えようとしている。外側の誰かやモノで自分の価値を認めてもらおうとしている。他人重心。
- 言ってることと、行動していることに大きな差がある。
- 自分が子どもっぽいのがずっと気になっていたけど、それは子どものままで心がフリーズしてしまっていること。だから、「子どもの魔法の解決法」しか知らないこと。
年齢を重ねるごとに自分の生き方や仕事、人間関係に行き詰まりを感じていたけど、何度も繰り返してパターンを強化した方法を取り続けてきたのが原因だったと分かりました。
共依存が習慣の問題でもあるということは、目からウロコでした。生まれつきだと思っていました。
そして、そんな習慣を身につけた原因は、子どもの頃に感じた「自分はいらない存在なのではないか」という痛みでした。
これがずっと私を苦しめていて、今も痛みを感じています。
この痛みを本気で癒すことが必要だと感じています。
これに気づけたのが本当に大きいです。
スタートラインにやっと立ったなと思います。
その他にも、
- 自分で思っている以上に他人重心になっていること。
- やりたいと思ったことを保留にしていることも多いけど、これも「後で、後で」っていう共依存の症状が出ていること。同様に、ある程度のところで思考停止になっているのもこの「後で、後で」をやっていることとつながっている気がすること。
- 限界があることは悪いことではないということが分かった。人間であれば当たり前のこと。限界があると認められるようになったこと。
- 不毛なネットサーフィンの時間がぐっと減ってきたこと。
- 規則正しい生活が私の体に合っていることが分かったこと。
- 食べたいものが変わってきたこと。自然と体にやさしいものを選ぶようになった。以前はパンしか食べない日があったり、スナック菓子をドカ食いしたり、どこか投げやりになっていた。
- いっぺんにガラッと変える方法よりも、コツコツと小さいながらも変えていく方法の方が心地よく感じられるようになった。
自分の合っているもの、方法が少しずつ分かり始めてきました。
少しずつ、少しずつの歩みだけど、変わってきたなと思うと同時に、まだまだ健やかに生きるためのスキルが身に付いていないと感じています。
まだまだ訓練が必要。
気づいて終わり、ではなく、これからも歩き続けます。
最後に優月さん、ONSAスタッフの皆さま、今回も安全で安心できる場所をつくっていただき、ありがとうございました。
また、お世話になりますので、よろしくお願いします。
しらんクラスの皆さま、お疲れさまでした&ありがとうございました。
この3ヶ月、しんどいことも多かったけど、クラスの皆さまに支えられました。一緒に歩くことができて、嬉しかったです。
またどこかでお会いできたら、嬉しいです。
本当にありがとうございました。
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) しらんクラス
これまでずっと気付かなかったこと、無意識の内に無かったことにしてきたこと、見て見ぬ振りをしてきたこと。
そんな数々のフタを開けて、開けようとしても内側から引っ張る私がいて中々開かなかったり、開けてもすぐに閉めたくなったり、恐る恐る中を覗いてみたり、そこから引張り出して観察したり。
そんなことを繰り返してきた3ヶ月でした。
今まで目を逸らしてたことに向き合うのは簡単ではないけれど、でも先に進むにはもう逸らせないと分かったし、それを意識することが自分を癒すことに繋がっていくから、だから少しずつで十分。
悼むという作業はまだ道半ば。今も時々、もう取り返せない何かに気付き続けています。
あー、これももう取り返せないんだ。ふとそう思うと悲しくて涙が滲んでくる。
それでも、以前の私なら、取り返せないものだらけの自分が惨めで哀れでどんどん落ちていったけど、今は未来もあるって知ってるから、その中で選んでいこうと考えることも出来る。
「私なんて居なくてもいい」
幼い頃からずっと感じてたことを、ここにきて漸く思い出した。だから、私は存在してもいい理由を自分で証明しようとしてきた。
可哀想な生き方だなと思う。
そして、世の中にどれだけ共依存が溢れているか、そうじゃないことが見付からないほど、共依存が蔓延した中で生きてることに気が付いた。
だから、周りの人の共依存にも敏感になってきたし、境界線の必要性をますます実感するようにもなった。
今はその練習中。
誰かの話を言葉通り額面通りに受け取るところがあって、相手の非言語メッセージを考えたことは今までなかったけれど、そこを観察すると、自分のもやもやの原因が見えてきた。
そして、一貫性のなさが如何に私を混乱させるかが良く分かった。
一貫性のない人や態度が本当にイヤ。
それは自分もそう。自分にとって一貫性のある態度で接してあげること。それもとても大事。
自分が揺らぐようなことがあった時も、その考えは本当に正しいのか? と立ち止まれるようになってきた。
暴走してそのままバラバラになることなく、その手前でストップできる。
すぐにとはいかなくても、自分を立て直すまでの時間が短くなってきたように思う。
仕事の繁忙度も増す中で、WORKSHOP に十分な時間を割くことは出来なかったけど、それでも自分に出来る範囲で出来ることに取組んできた。
それで十分と思える。
そして、そんな中でも WORKSHOP に参加していることで、忙殺される日常に壊れずに済んでいるように思う。
だから、これからも練習を続けます。私のために、私を大切にするために、私は人生を選択したいから。
そんな自分を誇りに思います。
一緒に取り組んできた皆さんとは、いろんなことをシェアし合い、沢山の気付きや勇気をもらいました。
遠く離れたそれぞれの場所で、健気に頑張る仲間がいると思えることがとても嬉しく心強かったです。
ありがとうございました。
優月さん、スタッフの皆さん、いつもながらありがとうございました。
こういう場所があって、心置きなく練習が出来て、回復に向かっていける。
ひとりでも多くの人がここに辿り着くことを心から願っています。
N. Y. さん(30代/千葉県よりご参加) しらんクラス
優月さん、クラスのみなさま。たいへんお久しぶりです。
まずはお礼をお伝えしたいです。
安全に転ばせていただいて(後半半分お休みさせていただいて)それでもこのクラスに居させていただき、ありがとうございました。
8月の初めに試験を終え、終わった直後から今までずっと放心状態で、正直今も、魂がどこかに行ってしまって戻ってこない感じです。
お盆もあったから、11週目は実質2週間あったので、試験前までは「お盆はお休みした分の課題にできるだけ取り組んで、Communication Room に投稿しよう」と思っていました。
そして終わってみれば、そう思っていたことも、遠い昔のことのように感じています。
なかなか心が戻ってこなくて、いまよろよろとキーボードに向かっています。
私は今回のクラスに参加するまでに、私のそもそもの主訴を見失っていました。
ONSA WORKSHOP に参加するまでに、自己流で本を読んでみたり調べてみたり、実際にワークショップに参加して具体的に知識をつけていく中でもたくさんの発見があり、「機能不全家族」「共依存」という「情報」にまみれ(必要な学びであり、とても大切な知識なのですが)、そもそも私は何をどうしたくてここにいるのか分からなくなっていました。
そもそも、なぜ ONSA WORKSHOP に参加しようと思ったのだろう?
やっと見つけた目標に取り組みはじめた途端に、どういうわけか周囲に問題が起きはじめたこと。
それも次から次へと降ってきて途切れることがないこと。
私は私のすべきことに集中したいのに、それ以外の問題で頭がいっぱいで、集中どころか手もつけられないこと。
自分の意思ではなく、周囲に振り回されて、道を切りひらくどころか閉ざされてゆく感じ。
なんでこんなに運命に裏切られるんだろう。
・・・これがはじまりでした。
「自分重心ではなく他人重心に歯車が逆回転しているから、がんばればがんばるほど、結果とエネルギーは他人に行く」
「私が『がんばれ』ば『がんばる』ほど、物事は加速して、悪くなる」
これは、かつて「運命」らしきものに振り回されていると感じていた私の姿そのものです。
そして「即返しない」というテーマに、これはもう得意ですって即返している私。
実際に、現実の世界で即返しないけど、今ここで超速で投稿している私。
かつてそうでしたって、ゆっくり振り返って丁寧に投稿することもできたのに(「悼む」って、きっとそうやってやるのだと思います)、あーもういいです私はこれは終わったからって、言葉どおり「ぐしゃぐしゃ、ぽい」と投稿した私に、違和感を覚えました。
そして「共依存者はどこからでも問題を持ってくる」というテキストを読んで。
ワークに取り組んでいると、自分を取り巻く世界の「いかに」に目を光らせ、とても注意深くなってしまうけれど、皮肉にも私は、受験を数週間後に控えたこの時期に、周囲に注意をむけワークに取り組んでいること自体が「どこからでも問題を持ってくる共依存者」のパターンのように思えました。
こうして私は「勉強に集中できない理由」をどこからでも探し出してくるのか、と。
そう気付いたとき、私は思ったのです。
いま私は、マーケットで煽る世界にも、荷物を押しつけてくる他人にも、構っている暇はない。
(ワークの趣旨とは離れた、私の個人的な立場からですが)今の私にとって、観察したものを拾い上げて記していくことは、直接対象には伝わらなくてもストロークを与えていることと同じこと。
それよりも、私は、私の行動を変えたい。
私は、私に集中したかったんでしょう?
だったらいますぐ、そうすればいいじゃない。
強烈にそう思いました。
そして思い切って、後半半分はお休みをさせていただきました。
本試験が終わり、私は受験に費やした年月を振り返らざるを得なく、お盆の間はワークではなく、そちらの振り返りをしていました。
その中で、「あなたのせいで勉強がすすまないんだけど。お願いだからこれ以上邪魔しないで」と、僅かでも思ったことのある人たちを、ひとりひとり名前をあげていきました。
その人数は、数字を書くのも恥ずかしいほどたくさんいました。
つまり、それだけの人達に、私は私の境界線を明け渡していたということ。
そして、いまその面々は、私の境界線の中に居ません。
気づけば、私の境界線から片付いていました。
手放すときは恐ろしかったけど、手放した今のほうが、はるかに私の時間は穏やかで、あぁ、私はここまでくることが出来たんだって思いました。
私は(課題は半分できなかったことはさておき)幾つかの望みを叶えたのだと思いました。
不毛で不要な人間関係を手放す、ということ。
誰かの意見ではなく、私の望むことに集中するという選択ができる、ということ。
そしてそれが出来なかった今までの私は、「夢を叶える」過程の基礎の基礎で、向き不向き以前の土台すら無かったのだと気付きました。
私にとっては、ONSA WORKSHOP に参加しはじめて以来、とても特別な3ヶ月でした。
このような場を作っていただいた優月さん、スタッフさん、仲間の皆さんに、参加出来ず本当にごめんなさいと、私の選択をさせていただいたことに、心から感謝をお伝えしたいです。
ありがとうございました。
S. H. さん(30代/アメリカ地域よりご参加) しらんクラス
今回の3ヶ月の間に、私は会社を退職し、海外での生活を始めました。
今まで仕事に当てていた時間が丸ごと自由になって、最初は時間を上手く使えず、生活リズムが狂ってしまいました。
その時、心の中も浮き沈みが激しく不安定でした。
1日の中で睡眠時間が多いと、自己嫌悪することが多かったのですが、それは理想の自分とのギャップに腹が立ってるんだと分かりました。
私は自分を大切にする為に、高すぎる理想の自分を捨てました。
等身大の自分をそのまま認めようとしたことが大きな変化の一つだったと思います。
ちょうどコースの中で「悼む」ということに取り組んでいて、自分の現実を直視することに(初)挑戦しました。
失ったものを認めることは、辛く、心に大きな負担がかかる作業でしたが、まず現状をまっすぐに把握してなければ正しい対策も立てられないし、またぐちゃぐちゃな土台を積み重ねることになってしまうと思いました。
ちゃんと悼むことができたのかはまだ分かりません。
でも自分にとっての課題や、人生でやりたいことがだいぶ整理されてきたように思います。
また、「よい子を辞める」とも宣言しました。
進路などを決める時に、心の中でつい人に対しての弁解というか誰もが納得する理由を考えてしまう癖があることを発見しました。
まだ心の中に他人がいるのです。
他人ではなく、内側の私と会話するのが当たり前の状態になりたいです。
人の承認を必要としない自分になりたい。人に否定されたからといって、いちいち傷つくのももう嫌。
自分に自分の関心やパワーを全て注ぎ込んでいきたいです。
「頑張る」とか「~べき」という言葉も意識して使わないようになりました。
今までのパターンの繰り返しは、もう本当にこりごりです。
心にひっかかったことは無視せず、立ち止まって、よく見て、ほどいていこうと思います。
海外に渡ってからは、次第に心も落ち着き、地に足のついた生活になりました。
毎日お弁当を作ったり、たくさん歩いたり、寝る前にストレッチしたりと健康的な習慣が身に付きつつあります。
地味だけど、今までの私はできなかったことです。
仕事や様々な「べき」にパワーを吸い取られて、こういう生活の基本的なことが疎かになっていました。
義務感からではなく、自分の気持ちに合わせて無理なくやってて、美味しさや楽しさも感じられるようになってきたのが嬉しいです。
第1週目に目標として掲げた「自律」を第12週目には概ね実現できたと感じています。
最後に振り返って、私は愛情が不足しているんだと気付けたのも大きな発見でした。
また、ワークショップ内での自分の口調に違和感があって、自分の気持ちをぴったり表現できる語彙力がないというか、本当の自分の言葉で語ってないんじゃないかと思いました。
これから丁寧に補っていきたいと思います。
しらんクラスの皆様、12週間様々なことを共有してくださり、本当にありがとうございました。
心より幸せを願っております。
H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) しらんクラス
しらんクラスの皆さま。
5月末からの約3ヵ月、同じスペースの中、それぞれのペースで、ご一緒させていただいて、本当にありがとうございました。
私は、うるさくなかったでしょうか。
私がおしゃべりすぎて、みんなのワークのお邪魔になっていなかったか、いつも少し心配をしていました。
これは「いつも」私がハマる、自意識過剰と推測している、グルグルのパターンのひとつです。
心配になるたびに、「ううん心配は無用だった」と戻ってこられる、私がのびのびとそこに居ることを許してもらえていると感じられる場を、四方の皆さまそれぞれに、本当にありがとうございました。
私は、そうすること(=のびのびとそこに居ること)が今まで、できなかったのです。
そして、それがこの3ヶ月、私はこうして振り返りながら、「だいぶできたなぁ」と感じているのです。
ひとりでは取り組めないことでした。
とても感謝しています、どうかみんなに伝わりますように。
そして、私のこの「だいぶできたなぁ」という小さな一歩の感覚を、私はしっかり認めてあげたいと思います。
私が、私なりのペースで「続けてきた」から、だからできた一歩です。
「続ける」って、誰にでもできることだけれど、だけどとても本気の本気が必要で、「尊い」ことだってふと思いました。
課題の中でも、「こうやって私にまっすぐまっすぐ向き合って生きていくことが、まずそもそも、私の夢だった。」と書いている私。
夢をかなえ続けている私の時間が、私は尊くて、愛しいと感じます。
同時に、今もちょうど私は苦しい。
それに相変わらず、慢性的に寂しさがあるなぁって気がつく。
「機能不全家族」で育ったひとの特徴、「孤立」っていう症状(?)。
身に染み付いている「すっかり習慣と化した状態」は、しかもそうなるにはそれなりの理由があってのことで、一気には、さらに私ひとりの力で、自己流で足掻いたところで、何ともできない。
それに今の私は、孤立から逃れようとすれば、したで、今度は自分の周りの人に嗜癖する。
(共依存!)
相変わらず、そうじゃない関わり方が「分からない」し、どうしようも「できない」私。
そうなのだ、私はできないのだ。
外側に向かっていては、いちるの解決の糸口すらないのだと、ヨガの先生が大好きで、そのことで私は懲りずに思い知りました。
好意がほしくて、特別がよくて、関心がほしくて、私は、私からうんと遠くなるのです。
もう寂しいし、悲しいです。
だけど多分いま私は、ここに居なければいけない。
「寂しい」、「構って」、「好きになって」、「特別にして」、というところに居て、そういう私の感情を取り戻す必要がある。
キレそうになるくらい、居心地はよくなくて、最悪な気分によくなります。
(ここんとこ、それで、狭いところに押し込められたジェットコースターみたいです。)
「もう嫌だ」、「ここに居たくない」、「耐えかねる」、「考えたくない」、「見たくない」、「逃げたい」と思う。
お願い、嫌、どうして、もう勘弁してよ、どうして私がこんなことしなきゃいけないのって、思っていることに気がつきます。
「どうして?」って。
私は、この「どうして私がこんなことしなきゃいけないの」って言う私に寄り添いたい。
そう言う私の気持ちや、その下にある声を、私は知って、ひとつずつ何とかしていきたい。
はっきりと、いまだ深く私の中にある「私は満たされていない」っていう感覚。
愛されたい。
構ってほしい。
私のこと見てほしい。
認めてほしい。
褒めてほしい。
可愛がってほしい。
手をかけてほしい。
大切だって言ってほしい。
やさしくされたい。
甘やかされたい。
そういう私を、無理して全部完ぺきに満たそうなんて取り組む必要はどこにもなくて。
私が、私を大切にする、ひたすら、その練習をひとつずつ、地道に、地道でいいのです、あきらめずに重ねてゆけますように。
本当に、続けること。
当たり前のことを、基本のことを、ひとつずつ、ひとつずつ、続けること。
はいつくばってでも、しがみついてでも、とにかく続けること。
無理をせずに、辛いところに居ることを理解して、私を待ってみること。
どちらも「続ける」に入るかな、って考えています。
しんどいことは、全くしたくないけれど、嫌だけど、それでも必要があるのだと思います。
それに待つときは、静かに循環する気持ちと、やわらかくてあたたかい視点を思い出してね。
それも私には練習です。
否認にも、引き延ばしたい合理化にも、できたらひっかかり続けていたくないのです。
自分にうそをついているって気がつけたら、勇気を出して、きっぱりと決断すること。(本当にその都度、勇気がいる。そうしていけますように。)
同時に、決断には時間をかけてもいいよと、これからも許してあげられますように。
過程で分からなくなることもしょっちゅうで、何度も決めて、そこから一気に変えるのではなく、また、ひとつずつ取り組んでいくことも、引き続き、許してあげられますように。
いつも私に忘れないでいてほしいので、書いておきます。
「どうせ~なんでしょ」ってエコーする痛みに気がつけて、少しずつ向き合えたこと。
これはできたことよね。
ありがとう。
いつもだけれど、あの時の私も、勇気があって、素晴らしかったと思います。
インストラクションの実習に、チャレンジできたこと。
思い返しても、すごい。
小さな、私の大チャレンジだったよね。
誕生日にスタバで、カップに HAPPY BIRTHDAY って書いてください! ってお願いする前のドキドキ、あれも小さい私のチャレンジ。
いいお誕生日、最高! って気持ちだった。
私ががんばったから(行為)、いいお誕生日って思えたのよ(結果?)。
がんばるって甲斐のあることだって、少し実感があったよね。
それが、いちばんよかったと思う。
これも、どれも書かないと忘れるし、書いておく。
私は、私の存在を「人に好かれることで確認している」ってことを、改めて確認できたことも、私にとっては素晴らしかった。
何度も、何度も、自分に言い聞かせるように唱えていた。
私は、あなたのことを信じます。
あなたのことが、大好きです。
だから、私のことを好きになってね。
私は、これを、やめる。
代わりに、
私は、私でいい。
私は、私が大好き。
私のことは、私が満たしてあげる。
私は、私自身で満たす。
私は、そう決める。
唱えていたら、人の好意で「私」を確認していた「私」がますます明らかで、足元からぐらんぐらんの不安で不安定な私に会えました。
このままでは、どこまでも外側に求めてしまうと気がつけて、私はパートナーがほしい、あたたかい家族がほしいっていう私の夢を、一度手放そうと思いました。
その夢をもったままじゃ、今の私は共依存の輪から抜けられないって思ったのです。
だけど夢だったから、神さまから、砂漠で咲きなさいって言われて生かされているような気持ちになりました。
その砂漠で、今この一瞬、一瞬を「感じて」、ここでしあわせや楽しみを見つけて生きない限り、ずっと辛いままなんて最悪です。
だけど、不当に禁止されなければ、ものすごく辛い状況でなければ、私は楽しいことを見つけるのは得意だと思う。
じゃあ見つけてやろうじゃない、楽しんでやろうじゃない、きっとできるって思うのです。
でも同時に、楽しみをまったく無視して何の価値も無いことにして潰すのも、私は得意(?)です。
だからそういう時は、辛い状況なのかもしれないね。
どうも私は全く楽しくないのに、「楽しむべきでしょ」、「楽しみなさいよ」っていう乱暴な押し付けのなかで生きてきたのではないかと思います。
それで、全力で私はそのことに抵抗して、「無茶ゆーな!!!」 と抗ってきたんじゃないのかしら。
楽しくないときに、無理をして、楽しむ必要はどこにもないのです。
私にとっては、とても大切なことだと思います。
うつな気持ちになっていいし、やる気がなくなっても、どうでもよくなっても、もちろんいいのです。
そういうときも、さすがにもう周りにぶちまけたりしないし、ただ「これもまた過ぎるもの」と知っている。
そういう私を、私は恥じなくていいのです。
むしろ、今も成長過程にある私を自覚して、何とか周りに迷惑をかけずに居たいと努めていることを、立派だと褒めてあげていい。
褒めて認めてあげよう。
そういうことも、私は知って、覚えておきたいです。
盲信することにも、少しずつ気がついて、手を放していけるようになったんじゃないかな。
それも大人への一歩だと思います。
自然に抗わず、素直に歩いている私のことも、褒めて認めてあげよう。
こうして歩けるようになって、本当に本当によかったよね。
そして確かに、私は前よりうんと歩けるようになったし、外側から目に見える私の身体は元々とても元気です。
それってすごく恵まれていることです。
でも同時に、私のこころは、まだけっこう傷いっぱいでボロボロです。
与えられた身体は丈夫だし、それで長いこと知らぬ振りができてしまったけれど、こうして気がついてみれば、けっこうボロボロなのです。
甘やかしてはいけないけれど、ボロボロなところに、無理をさせないであげてね。
からだに傷があれば休むでしょう、という例えをよく聞くけれど、本当にそうです。
順番は、こう。
まず癒やすのです。
癒やしてから、ゆっくり、私にできる分ずつ、鍛えていくのです。
まだ、私は最初の段階にいるのです。
何でだかよく忘れてしまう。
だからか私は、どこか「みんなより、できる」ような気になっていたような気がします。
まだまだ階段を降りて、ハードルを下げて、なぜか優劣を比較する場所から私は抜けたいです。
私は私にできることしかできない、私は何も知らない(だからいつも学んでいく必要がある)っていうことを、これからも、ひとつずつ現実として受け入れていけますように。
それから、どんなに正しくても、立派そうな外側からの情報も、その最初の段階にいる私の容量を超えては、それは苦しいことだって身を以って知ったよね。
せっかく学んだことだから、そのことも、しっかり覚えておこう。
誰に何と言われても、私が私のサイズに合っていないと思えば、それはそうなのです。
いい経験ができたよね。
(優月さんのおかげで、いい経験にできた、かな。)
相変わらず、あぶなかしいところのある私。
でもコースのおかげで、正しいフォームに何とかしがみつきながら、数ミリしか上がらない腹筋運動(!)を続けていたような3ヶ月だったかもしれないです。
今は見えないけれど、きっとこの3ヶ月の成長をあとから感じることができるんじゃないかな。
仲間のみんなが私の鏡なら、それはそうに違いないって信じられることです。
(だから、実は、私もみんなの鏡なんだよね、それってすごく嬉しいことです。上手に反射できていたらいいな。)
回復(Healing)って、なんてなんて根気がいるのだろう、忍耐を要するのだろうと、私も私なりに思います。
「ひとりじゃない」場所が、いつもあることが、本当に心強くて、ありがたいです。
何度も、この場にいられることにも、その幸運さを思い出すたびに感謝します。
しなやかでやさしくてとても憧れる優月さん。
課題を読みながら、「ようこそ」って言う優月さんの声とか雰囲気がいつも聞こえます。
それぞれに熱意ややりがいを以って、それから助け合いながらお仕事をしているんだろうなぁって勝手に想像して(妄想して・・・)、私もそんな気持ちでお仕事に臨めるようにになりたいなぁと勝手に目標にしている ONSA のスタッフさん。
それから、改めて、しらんクラスの仲間の皆さま。
今の私の気持ちを言葉にするならこんな感じです。
3ヶ月の時間、私のことを知ってくださっていて、本当にありがとうございました。
少しずつ、外側からの確認を感じなくても生きていられるようになりたいけれど、それはまだ想像もできないほど難しくて。
本当におかげさまで、何とかこの日々を、回復から離れず無事に生きているなぁって思います。
感謝します。
これからの私の日々も、みんなの日々も、それぞれ、あたたかく守られている道ですように。
そうだと信じているけれど、やっぱり祈ってしまいます。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。