M. M. さん(40代以上/神奈川県よりご参加) すいーとばいおれっとクラス
大切な私へ
PAY FORWARD へはこの書き出しで書くぞ! と思った。
今まで、どんなに自分を大事にしないできたか、更に自覚することができた。
「無自覚」だった一年前から、「自覚」できるようになったと褒めてきた自分。
今回、もっともっときちんと「自覚」することができた。
その根深さに、「あぁ」とうなだれながらも、頭をあげ、歩くしかないよ! と、励まし続けることをしよう。
何度でも。何度でも。
「自分」がない、ということ、このことに慣れきっている自分、「これはイヤ」はあっても、「これがいい」がない。
確かにそうなのだ。
でも、どうすれば? どうすれば、よいのか?
出口は「これがいい」を探すこと。
でも、これがなかなかうまくいかないのだから…。
ワークショップ・クラス当日は、普段と違い、家族の食事は考えなくていい。
自分の食べたいものを食べればよいのだ。
なのに、私の中に、私以外の人が意見を言っている。
「健康によいのはどっち」とか「お徳なのはどっち」とか言う世間? の声とか、「これ食べたら太るんじゃない?」とか、(家族には節約させといて)「自分はそんな贅沢するのっ!」と叱ってる自分とか。
このプレワークからのワークショップ期間中だけでも、もっと、ちゃんと自分に問いかける訓練が出来てきたように思うのです。
「今」
「自分」は「何がいい?」
例えば、世の中の人のいう「健康」ではなく、今の自分のお腹が正直に食べたいと言うものを。
もちろん、自分の体も大事にする声でした。
今、お腹ペコペコだから、サンドイッチじゃなくて、ご飯ものが食べたい!
ありきたりのお弁当がなんと美味しかったことだろう。
自分の心からの声に耳を傾けたら、現実の選択肢の中で、こんなに嬉しい気持ちになれるんだ!
「私」はフードロスはしたくないから、「買ってしまったサンドイッチは朝食にしたら?」
パンは少しパサついていたかもしれないけど、やっぱり、満足なんです。
ロスせずに美味しく食べれていることが嬉しいんです。
こうして自分で自分を褒められていることが、とても嬉しい。
「自分」に近づいてるということかもしれない。
私は、ささやかな「自分」の日常を求めているということかもしれない。
自分の中にまだまだある他人の声、自分だと勘違いしてる他人の声にも、もっともっと気づいていこう。
もっともっと「自分」にフォーカスして、「自分を大切にする」を意識していこう。
それを、軸にしていこう。
優月さん、ご一緒頂いたお仲間さん、先を行っている姿に希望を頂いています。
「無駄なんじゃないか?」という囁きを払いのけています。
歩き続けられています。
ありがとうございました。
M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) すいーとばいおれっとクラス
わたしへ
本当におつかれさま。
今回のワークショップは本当に無意識にしていることに気づかされることが多かったね。
正直、ショックだけど、ひとっとびにはいかないから、ひとつひとつ行こう。
このワークショップは2回目でした。
感想をひと言でいえば
「沁みた…」
という感じです。
「前回は何をしていたんだ?」と思うほど、大切なことに気づいたワークショップとなりました。
とはいえ、「前回は何をしていたんだ?」ということではなく、その時はそれが精いっぱいだったのだと後から気づきました。
今だから、気づくことができることがたくさんある、そういうことなのだと思います。
気づいたことはショックだったけれど、それだけ自分が成長したんだなあ…とも思って自分を励ましています。
今回のワークショップで改めて気づいたことは「相変わらず、自分を大切にしていない」ということでした。
私は自分を本気で大切にしたいと思っているのに、「大切にする」がわからない。
本当に、見よう見まねで「こんな感じ?」を続けていたように思う。
「自分にとっての『快』」も探していたけど、いまいちわからなくて。
最近になって、ようやく少しずつわかりかけてきて。
「時間のためのちいさなワークショップ」でやっと自分のしてみたいことに挑戦できたくらいのヨロヨロさで。
「自分を大切にする」が趣味を見つけるとか、充実とか、そういうことだと思って一生懸命していた。その中で「快」を探そうとしていた。
でも、私の場合はそうではなかった。
もっともっと、根の部分。
「基本的な部分」で自分を大事にできていなかった。
それは「衣食住」。
中でも私は「食」に全く興味がなくて。
生きるために、身体を動かすために食べるくらいで。
正直「どうでもいい」と思うくらい興味がなかった。
夏のワークショップでそのことに気づいたけれど、どうしても興味が持てなかった。
むしろ、義務のようになってさらに苦痛を感じているくらいだった。
でも、それはひるがえって「自分に興味がない」ということで。
そして、それは原家族から受けた扱いが影響していて。
ワークでお金の使い方を見ていくと、それが顕著に出ていた。
私には「自分が欲しいと思って買ったもの」がほとんどなかった。
「ただ買っているだけ」のものがほとんどで。
自分の好きなものがわからないのだから、そうなることは当たり前で。
そして、買う時もなぜかすごく急いでいるということに気が付いた。
「急げ」のドライバーがものすごく働いているのかな…と思った。
原家族にも急かされていたので、その影響も強く出ているのかなと思った。
自分は今までお金を楽しく使ったことがあっただろうか?
ワクワクして「これが欲しい」って、楽しみにして買うことがあっただろうか?
「買う楽しみ」「手に入れる喜び」なんてこと自体、考えたことがあっただろうか?
と、思った。
なんとなくとか、無理やりとかがほとんどだったように思う。
そして、今回のワークショップで私の中で衝撃だったのは「買いたいところで買っているか?」と言われたこと。
ハッとした。
確かに言われてみれば、私は「食」に興味がないといっていたけれど、そもそも買い物する場所に「食べたい」と思うものがないだけだったのでは?
惰性が惰性を呼ぶ…というか。
「いたたたた…」
欲しいものがない場所で、「欲しいものを買っていいよ」って、「ない…。まあ、いいかこれで…」になるのは当たり前だ。
そんな基本的なことすら気づいていなかった、わかっていなかった。
本当に「え~…。そこから? 自分…。」という感じだった。
そして、帰ってきてから「これ食べてみたいな」とほんのり思っていたものを店を調べて買いに出かけました。
ウキウキして帰ってきました。
不思議なことに、そうすると「これだったら、あれも食べたいな。これも合うかな。」と、また食べたいものが浮かんできました。
そして、それを食べてとても満足しました。
それは豪華な食事とかではなく、本当にシンプルなものでした。
驚いたのは、今まで食べていたものを「食べたい」と思わなくなったことです。
本当に不思議な感覚です。
こういうお金の使い方を練習していこうと思いました。
私は、どうも「大きな」「立派な」「わかりやすい」ものを「快」だと思ってそこを探しているような気がします。
でも、実際の私にとっての「快」は本当に「ささいな」「ちいさな」もので、わずかなサインを発しているものなのかな、と思いました。
そして、思い返せばその「ささいで、ちいさなものたち」は折を見て何度も自分に「ここだよ」と発信していた気がします。
これが「すでに持っているもの」なのかもしれない。
今回もやっぱり「すべて、つながっている」を実感しました。
2年後、また参加したいと思っています。
クラスでご一緒したみなさん、それぞれに衝撃を受けつつ真剣に向き合えたこと、今は楽しかったと思えます。
ひとりだったらショックすぎて大変でした(ショックはショックですけど)。
あたたかい空間をありがとうございました。
藤沢さん、わかりやすく具体的に教えていただきありがとうございます。
先を行く先輩としての藤沢さんの姿は、私にとって頼もしく、励みにもなります。
スタッフのみなさんも、今回もオンラインでのワークショップでトラブルもなく無事に終われたこと、感謝しています。
ありがとうございました。
H. S. さん(30代/大阪府よりご参加) すいーとばいおれっとクラス
「お金と自立のワークショップ」お疲れさまでした。
まさか、泣くとは思っていなかったので、かなり疲れました。
私は今回、昨年から引き続き、2回目の参加でした。
前回のワークショップで、頭上から金だらいが何個も落ちてきたぐらいの衝撃を受けました。
私が、私とは関係ないよく分からないものに、大金を使いまくって、本当に欲しいと思うものは「お金がないから」と我慢していた事実に、驚きでした。
それから、1年。
今回ワークをしてみて、使っている金額は1年前とそれほど変わらないことに気づいた。
でも、バイトのときのランチをコーヒーもパンも美味しいパン屋さんに変えたり、心ときめくブックカバーを買ったりして、私がワクワクすることにお金を使えるようになってきていることにも気づけた。
まだ、当然ながら使途不明の出費もある。
CM のうたい文句に流されて買ったものや、親の目を気にして買ったものなど、私のお金を「私らしくない」他人重心のものに使っていた。
今回のワークに参加していなければ、これら使途不明金に気づかなかったと思う。
立ち止まって、記録を振り返ることも大事だと気づいた。
2回目の「お金と自立のワークショップ」に今回参加したことで、私はこの1年、前回のワークでの課題に取り組み続け、体験して、「楽しい」と実感できている自分に気づくことができました。
そして、私は「自立」を「まったく知らない真っ暗な世界で、ひとりで何からなにまで完ぺきにこなして、生きていかなければならない。しかも、世間様から笑われないように立派にしなければならない。」と考えていたから、「自立する」ということが想像できなくて、すごく恐くて、不安で、「自分にはできるわけない。」と感じていたのだ、と気づいた。
これは我が家に「自立」という考えがなかった、「自立している人」がいなかったことも、私の「自立」に対するイメージに影響を与えていたと思う。
しかし、今回のワークショップで、「自立」とは「食事や睡眠のように、生きものが命を維持するために必要かつ、自然なことであり、生きるか死ぬかの人生最大のイベント・人生の危機ではない。」と知ることができた。
「自立」は「私が生きる」うえでの自然な流れの一部であると知ることで、私のなかの「自立」に対する恐怖が少し和らぎ始めています。
お金も自立も、「私が」どう生きたいか、「私が」何をしたらワクワクするのか、満足するのか、という「自分重心」の考え方が大事なのだ、そしてそれらを手帳に計画して、体験することも大事なのだ、2回目の「お金と自立のワークショップ」を受けて、改めて確認することができました。
最後になりましたが、藤沢さん、「すいーとばいおれっとクラス」のお仲間さん、ご一緒にお金と自立に向き合うことができて、心強かったです。
ありがとうございました。
S. M. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) すいーとばいおれっとクラス
今はとても落ち込んでます。
人にも会いたくないし、なるべくなら、たわいのない話だってしたくない。2週間前も同じようなことを言ってた気がするけれど。
「ひとりじゃないよ」スペースに、ワークショップ・クラスの帰り道は違う世界のように見えたことを書いたと思う。
それは、わたしの見え方が変わり(そこは確かに変わったのだけど)、ああ世界は実は素敵だったんだ。というような素晴らしい感じではなくて、あの変な感じは何だったんだろうなとずっと想い続けていたら、浦島太郎に辿り着いた。
世界はとっくに、実はずっと以前からそう(教えて頂いたお金と自立の定義で)周っていたのに、わたしだけが、そこに則って生きてなかった、ということ。
「お金って、自立って、そういうものだったんだって」って、通りすがりの人に聞いたとしたら、「うん? ずっと前からそうだったよ。今までどこにいたの?」と言われそうな、わたしのほうが、時間が止まっていたんだ。っていう、この大ショック。
ダメだ、これはヤバい。
怖い。
そのせいかやっぱり夜中に目が覚める日も出てきた。
怖さ、にも種類があることを初めて知った。
どの怖さが一番か、なんて測れないだろうけど、わたしにとったらこれが一番怖いって、今感じる。
怖い、両手広げて背中から押してくる時間をせき止めたいけれど、時間はそういう風にできてなくて、いつもの顔して過ぎていく、のも怖くなってきて。
ふて寝か、何寝か、なんでもいいから、もう包まってたいとも思った(あきらめ、もう遅い、今まで何してたの? の責め)。
この責めがとても辛いのも知ってるし、だからこそ置いておかないといけないのもわかってる、けれど、辛い。
何だか今は全否定、真っ暗。
背景や仕組みや学んだことというのは、とても納得できる、繋がりも持てる。
親と同じところで止まっていては、この先怖いことになる、わたしは親と同じ方法をとれないから。
同じところで止まっている時間はないと強く感じた。
そして、この強い責任感自体も、まさしく罠なんだと思った。
わたしは、自分が日常でどの部分を使っているのか、それにも無自覚だった、その無自覚さが今はほんとに怖いことだと感じている。
わたしから、そのしっかり感や責任感や気丈さや義務感を抜いたとしたら、なにが残るんだろう、それ以外でなにで物事をやっていけるんだろう、って想ったら、もう、そこ見れないって、でものぞいてみたら、そこがないから、そうなんだよ。って、聞こえて。
もう今までのその使ってきたものは、もう容量いっぱいなの、もうそこから力は出てこないから、だから苦しいんだよ、そして、そのない部分を今度は力としてつけていかなきゃいけないんだ。
そして、それは小さい頃から人が自然に身につけるもので、それを奪われてきたということ。
苦しい、にも種類があることを知った。
わたしが「自立」というものでウロウロしてたのも納得。
積み重ねるものがまず逆だったし(子どもに本来の責任や義務なんてわかるわけがなく、だから見様見真似の必死であったこともわかるし、それで、そのままの責任感とかで来ちゃってたんだし、責任の範囲も習わなかった、ああ、「インナーチャイルド・ワークショップ」のことも繋がる)、親の域の辺りでどうしていいかわたしがわからなかったのも納得だし、それに、ほんとうに親はそこまでの域しかわからないのだ、ということが心底納得できた。
わたしは、ほんとに迷子だったんだなあって。
あるいは、「わたしらしさ」を持ってるけど、それをどう活かすとか積むとか、それも知らなかったから。
それを埋めていく方法も、教えてもらったことでやっていこう。
もちろん、失敗したーもあるし、違うかったーなんてたくさん出てくるだろう、けれど、その新しい方法は、「わたし」と共にある方法。
いや、わたし抜きでは成り立たないようになってる方法。
ああ、わたしは、これが欲しかったんだ、って今心底思った。
これを知りたかったんだって。
親のものは、わたしには合わない、とうてい合わないんだ。
生物学上合わないぐらい、生物学なんて知らないけれど、それぐらいという意味で。
逆にわたしはそこでは生きてけない、生きてけないようになってる、って、ほんとうに感じた。
お金というものが目に見えるものでよかった。
数字で出てくるものでよかった、この意味がほんとによくわかりました。
お金を使うこと、というのは、そういうことだったのか! とびっくり開けた感じもありました。
これからは、わたしの宣言のほうにに注力したい。
それと、気力(勢い? 体力? とにかく「やるのならやるのだー」っていうものがわたしにはあり)で全力投入したプレワークがあってこそ、ここまでわかったのだと思います。
足踏みになってたもの(ならざるをえなかったもの)、その理由、わたしの引き受けないといけないもの、引き受けなくてよかったもの、足りなかったもの、足りすぎて歪んでいたものパンパンだったもの、いろんなものが繋がりと理解を持ってやってきています。
これも毎日ちまちまと書いているので、最初の文章の辺りのときは、もうそれこそどん底だったのだけど。
そういうとき人に会いたくないのも納得、どう自分を置いていいか、心底わかんないときだから。
そして、Web. WORKSHOP にも大変助けられました。
この秋はとても大きな一歩? 変革? になる、とこの秋のワークショップが始まる前に優月さんに言われたことも、今その言葉通りを経験しています。
大きすぎて、驚きもしてる。
まだまだこの秋のものが、余波となって言葉として出てくると思う、それもまた書いていこうと思う。
ご一緒だったみなさん、あの場と時間を共有することができてほんとによかったです、ありがとうございました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。