2019.09月開催 「時間のためのちいさなワークショップ」たいむクラス

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H. S. さん(30代/大阪府よりご参加) たいむクラス



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私は、昨年に引き続き、2回目の「時間のためのちいさなワークショップ」への参加だった。
昨年のワークで手帳に書き込んでから、日常に戻ると、だんだん「現実」の時間から「理想」の時間へと手帳の内容が変わってきていたことに気づいて、苦笑いだった。
でも、今回、そのことに気づけて、見直せてよかった。


また、当たり前のことである「手帳は『予定』を書くためにあること」を忘れていた、私自身がおもしろかった。

予定が確定して、「実際に絶対にすること」のみを書いていて、予定やバイトのシフトが決まっていない週は、手帳が真っ白だった。でも、「予定」を書きこむためにあるのだから、「私自身のため」に「灯台の時間」やカウンセリング、ワークショップをする時間、映画を観る時間などを予定して、書き込んでもいいんだ、と思った。

そして、今の私は「手帳に書き込んだ通りにできないとイヤだ!」と思ってしまうけど、「予定」を書き込むのだから「変更」があって当たり前。予定通りできなかったら、何がうまくいかなかったのか、「思考錯誤して工夫」したらいいだけだと気づけたことも、心がとてもラクになった。
もっと気軽に予定を手帳に書き込んでいこうと、思った。


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そして、優月さんが言ってらっしゃった「夢はふわふわしたものでない。」という言葉が今回は強く心に残った。

チェアワークして、私のなかからポッと出てきた「ストレッチして、身体のケアをしたい」という想い。「やってみたいと思っていたことに、自分の力を信じて、思いきって挑戦してみる。そのために、それを調べてみる。」といった願い。
これらは、私の日常や現実に根をおろした「夢」だった。

名声を手に入れるとか、お金持ちになるとか、大げさで派手な夢ではなく、地道で地味な夢だ。
現実に根をおろす夢だからこそ重みがあり、またその夢に本気になるからこそ、不安や恐怖といった重み、しんどさもあるんだなと思った。

その重みとしんどさから逃げたくもなるし、目も背けたくなる。
夢って悩ましい。


最後になりましたが、優月さん、「たいむクラス」で時間をご一緒したお仲間さん、ありがとうございました。




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A. M. さん(30代/愛知県よりご参加) たいむクラス



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私は以前、この「時間のためのちいさなワークショップ」を受講していました。
それから時間も経ち未だに時間と上手く付き合えない事と、基礎を積み上げる為に今回申し込みました。

手帳を使って自分の持ち時間や夢について同じテーマを受けたはずなのに、随分と私は自己流になっていました。
今を生きる為のツールでなくて、理想的な・いつか未来の事を書いていました。


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クラス内で特に印象的だったのが、夢と手帳の関係です。

・夢をかなえる為には時間とお金が必要
・だから手帳を使って、資源である時間を確保する

ここを見失うから上手くいかない。
手帳を上手く使うとか、理想的にするというすり替えが自分の中で起きていました。
今の持ち時間を把握して戦略を立てる、極めて現実的な作業が必要なのがよくわかりました。


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後半のワークで自分の夢を出すというのが苦しかったです。
何度も問いかけて出てきた自分の夢は、諦めてないのが辛かったです。

もう忘れて、真剣に考えないようにしていたのに、私は全然忘れていませんでした。
口にするのが怖くて、不安になりました。

優月さんが「夢から逃れられない」と言ったのが、まさに私に起きてる事でした。
口にするだけで不安な私の夢、けして砂糖菓子ではないのを感じられました。


日常に戻ってみると、ワークショップ・クラスで自分の夢をクリアに感じてたのが嘘のようになっています。
1週間でこんな状態なのが恐ろしいです。
しばらくはアフターワークに取り組みながら忘れないようにしていこうとおもいます。

ありがとうございました。




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S. Y. さん(40代以上/長野県よりご参加) たいむクラス



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夢を実現させるために行動を起こすきっかけを得ることができました。
ありがとうございました。




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A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) たいむクラス



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わたしは時間も自分自身もどう管理して良いのかわからないような、途方にくれた状態で参加しました。

(自分のことなのに自分ではどうすることもできない感覚がある。)
という現状を目の当たりにして心底がっかりしている。

だから、黒く塗りつぶした後に残った白い部分を見たとき、希望の光のように感じました。
(こうすれば、何が大切なのかがわかる。)そう感じました。
それは暗闇の中で光を見つけたときの希望の感覚でした。
道に迷って森の中で途方にくれているときに人家の灯りを見つけたときのような。
一筋の明かりの道を見つけたような。
まるでこの光の中を頼りに進め。と言われているように感じました。


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自分にとっての時間というものの感覚は茫漠でつかみどころがない。
(切り分けたりして、使いこなす)対象ではなかった。
時間はとにかくどんどんやってきてすぎてゆくもの。
襲いかかる大きな波のようで、正直太刀打ちできない。

わたしは能動的なところが全くなくて、固まってしまっている。
怯えきって固まってこわばっている。
それがそうとは見えないように必死で取り繕っている。
自分に対しても人に対しても。
みんなのやりようをどうにか真似して、見た目違和感ないように必死で取り繕っている。
だからすごく疲れる。


黒く塗りつぶしたことでのっぺりしていた手帳に立体感が生まれた。
そうすることでやっと自分のものとして手に取れる感覚が芽生えた。
初めてとっかかりのようなものに手が触れたように感じた。


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それから社会全体のこと。
世の中の仕組みの話が出てわたしはあっと思いました。
それまで理解できなかった世の中の理不尽さの構造が現実的に理解できた気がした。

生物としての人間とそれを維持し守ってゆく工夫の在り方。
長い歴史を経て人類が作ってきた仕組み。
そして今現在の自分自身の立ち位置。
前よりもずっと冷静に受け止められると感じました。

わたしの子ども時代は過酷な面があったかもしれないけれど、これはくじ引きのようなものだから仕方ない。
これは言うなれば運命です。
選んだとも言えるかも知れないけど選べないもの。

自分ではどうすることもできないもの。
自分にはどうすることもできないことがはっきりすれば切り分けて残る、「ではなになら自分の手に負えるのか?」ということが見えてくるのではないだろうか。
そうすれば乗り越える道が見えるのかもしれない。

苦しかった気持ちをちゃんと吐き出して、閉じこもらず安全な人と繋がり続けることや、現状、現実から目を逸らさないこと。誤魔化さないこと。
現実的、合理的に捉えるようにすること。
できるサイズの最小限の変化から着手すること。
地道な作業が見えてくるのではないだろうか。


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手帳の中だけでなく、わたしはいろんなエリアで線を引いてゆかなければならない。
それは正直とても困難なことに思える。
きついリハビリみたいで、正直叫び出しそうな気持ちになる。

『アルケミスト』の中に書かれている言葉。
夢は戦って勝ち取るもの。
戦う勇気がみんなにありますように。

正確には覚えていないけれどとても心に響いた。
そして何よりも響いたことは、私たちは回復するために回復しているのではなくて、夢を叶えたいから回復もするのだということ。


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まだ半信半疑な自分がいる。
夢なんてわたしには無理だし関係ないと思ってしまう。
そう思ってしまうこと自体が被害なのだということはうっすらわかってきた。

それにこれからもずっと足を引っ張られたままでいたら人生を呪うことになりかねない。
そんな風に生きたいのか。自分は本当にそれでいいのか。
どうにかしたくてここまできたのではないのか。
正直今くじけそうで、苦しい。


わたし自身が生まれた場所は確かに難しいところだったし、自制や満足の遅延という課題や乗り越えることや他者との間に境界線を引く、という課題がありもどかしい。
もどかしいのは理解に苦しむから。よくわからないから。

こういう訓練にイライラするということそれ自体が、環境の置き土産だとしても、それでもそれを退けるのはわたしの仕事なんだということ。
正直どんだけ不公平なんだと思ってしまうけれども、そんなことを呪っているだけでは歩けるようにはならない。

本気で望まなければ、変化を起こすことはできないだろう。
わたしはどうしたいのか。本気でどうしたいと思っているのか。


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今自分はとてもショックを受けている。
夏のワークショップからショックの連続で、そのあとこれと思って行動して見たときの自分の有様にものすごいショックを受けた。

自分が今まで「これがラの音だ」と思って調律に使ってきた音がまるで信用ならないという気持ちになってきた。
なんどやっても同じ穴に落ちる。繰り返す理由の見えない失敗。

自分のことが信用ならないというショック。
2週間の ONSA WORKSHOP(対面式)に来ていなかったらと想像するとゾッとする。

今のわたしの正気は正気ではない。
頼りにならない。そのことの大きさ。


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ワークショップ・クラスの後すぐは大きな黒いシェードが効いていた。
くっきりと引く境界線がある。わたしはここまで。これ以上は譲らない。
わたしの時間。わたしが主役。

久しぶりに自分で料理を作っている感覚を取り戻すことができた。
自分の時間と空間の広がり。それは静けさ。


手帳に書いた予定も順調に消化できた。
これをするんだ、と決めて、それを完了させる。
という新たに知る楽しみ。
一個完了したら、またチェアワークをして次の予定を見つける。
そして書き込む。


それは一回では終わらないことなのだけれど、それでもよかったんだということがやって見てわかった。
今までのわたしは一回で全てを終わらせなくていはいけないというような到底無理なことをしなければならないという強迫観念に取り憑かれて行動していた。
小さく切り分けて、小さな一個を完了させるということを初めて知った。


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黒く塗りつぶすことで、わたしは休憩の時間も確保することができた。
今まではそれを自分にちゃんとは与えられていなかった。

メリとハリの明確な違いがわからなかった。
休憩の時間にはなっていなかったんだと感じた。
リラックスする。リセットする。

その感覚はとても大事なはずなのに、きっちり扉が閉まっていないから、過去も未来もじゃじゃ漏れに入ってくる空間。
そんな時空では安心して休むことはできない。

わたしのスケジュールにはホッとする時間は入ってなかった。
時間が全部繋がっていたから。
それでも自分では入れているつもりだった。
自分にとってはそれは休息などになってはいなかった。
切れ目のない繋がった時間に喘ぐように泳いでいた。


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楽しむことに対しても現状では違和感がある。
自分はこれが楽しい、と思っていたことは苦しいことと表裏一体だった。
楽しいことってなんだろうか。自分はそれさえもわかっていないのではないか。

今の自分にはゆっくりすることだけが本当にリラックスできることな気がする。
どんな刺激も強すぎてとても疲れてしまう。
本当に楽しいことって一体なんなんだろうか。

一連の作業を通して(自分の方向性を守る指針となるスケジュール帳)というもののイメージがうっすらとなら掴めたように感じる。
わたしはどの方向へゆきたいのか?
その方向性の溝がきっちりと彫り込まれている。
それがスケジュール帳。わたしの守りの指針。


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正直に告白すると ONSA を始めた頃のわたしはスケジュール帳の管理の優先順位は低いと思っていた。
なんとなくできるし、何と無くでなければできない。そう思っていた。
きっちり決めるなんて堅苦しくて窮屈でわたしには合わない。無理。
それが正直な気持ち。

でも行動した自分の現状、全く制御できないことを知った直後、こうして技術を見てみると全く認識違いだったことがわかりました。
「なんとなく」ではとてもできない。「なんとなく」なんかでできることではない。
もっと真剣でもっと戦闘モードなこと。

戦うって言っても、それは攻撃モードではなくって主体的であるということ。
プロアクティブだということ。

なんとなく主体的であることなんか少なくとも今のわたしにはできない。
かなり戦って掘り起こして必死でしがみついてやっとぐらいなんじゃないか。
自分からスタートしてるってこと。それが今の自分には戦いに見える。

それは今までのわたしの苦しくて仕方のない追われるモードとはまるで違うモード。
誰かにに勝つための戦いではなくて、自分を守るための戦い。まだ戦ったことのない戦い。
戦いって言っても向かってゆくんじゃなくて自分から動くってこと。内側から湧いてくるってこと。
それがとってもとっても難しい。今の自分にとっては。


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今までの状態だと、閃くこと、気にかかったことを頼りにただ闇雲に片っ端からトライして見てきていた。
それはただ条件に反射して無意識に反応して踊らされているというか、逃げるように追われるように焦燥感でいっぱいの頑張りだった。

挑戦している間中孤独感が抜けなくて、不安で、だからとても苦しかった。
命が干上がるような感じがしてヒリヒリしてた。
陽に焼かれて焦げそうなのに逃げることも隠れることもできないようだった。
外からの刺激への反応では翻弄されてしまうんだ。

自分がそれほどまでに自分を追い込んでしまっているということでもあった。
なにがどこまでなのかをはっきりと黒く塗りつぶすこと(切り分けること)でわたしはそれを食い止められるような気がします。
生きているわたしをいたわりながら、前に進みたいわたしを空回りでない本当の意味で進めることができるような気がします。


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でも苦しい。難しい。できない気がする。くじけそう。泣きそう。
悔しい。悲しい。
だから一体本当に自分はやる気あんのか? って思う。
わたしほんとはもう逃げたい。終わりになったらいいのにって思っている。
神様にごめんなさいと言って、途中でやめさせてもらいたいと思っている。
わたしにはもう無理です。ごめんなさい。許してください。
そういって終わりにしてしまいたいと思っている、泣きそうな自分がいる。

それはきっと今までのやり方にたいしてのわたしの正直な気持ちなんだと思う。
もうそんな生き方をやめよう。やめたいよ。そう言っているのだと思う。

正直まだこれであってるのかわからない。不安。
だけど聞こえてくる批判の「声」は自分の声じゃない。
「わたし」の魂の声じゃない。
昔聞いた他の人の声だ。


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次の新月までに、ガチャガチャとしてしまった身辺をまた一歩スッキリとさせたい。
集中したいものと要らないものとにちゃんと分けて、要らないものをまた少し手放そうと思います。
そうやってちょっとずつ進んでゆく。それしか今はできないから。

闇雲に手を広げるのではなくて、今はじっくりと戦況を見据える時間なのかも知れない。
急な動きは禁物。慎重さが求められる時間なのかも知れない。
身体を休め、体力を温存し、来るべき戦う時間に向けてしっかりと入念な準備の時間なのかも知れないです。

影をつけること、シェーディング、それをすることで立体感が出る。
シェードをつけると、今がなんの時間なのかがはっきりする。
今は何が大切で何に集中したら良いのかがはっきりする。
シェードはかなりの助けになります。


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わたしはいつもいつも矢面に立つ必要はなくて、日差しが強すぎるのならば日傘を差したり、日陰に避難すれば良い。
何も危険に身を晒しっぱなしにする必要はない。

今まではそうとしかあれなかった。
そうでしかあれなかった。
晒された状態で心が固まってしまっていて動けないでいた。
踊り続けろと言い渡されて踊りをやめられない奴隷みたいになっていた。
わたしはいつでもやめていいとも避難していいとも思っていなかった。

他の方法を知らなかったし許されていると感じたことがない。
わたしは本当に怖いところで固まったまま生きてきたんだと思います。


自分の限界を超えてまで頑張る必要なんか最初からなかった。
まして人のためにつくす必要なんか一切ない。
相手を気遣って相手に合わせたり相手の都合にばかり気を使う必要もない。
自分本位でいいということの感覚をちゃんと取り戻したい。
苦しいから。
このままではこれ以上生きられないから。


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この手帳を塗りつぶすという体験が、出来事や忠告や他人の声などに対しても効いてくるように、祈るような気持ちがある。
限度を設定して作った自分の時間の中には静けさがあった。

押し寄せてくるものをきっちり遮断しているからこそ得られる。
内なる静けさ。
取り込みっぱなしで笑顔を振りまいていては到底作り出すことのできない音。
真剣さと迫力が必要な時がある。わたしにもそれができる。できるようになる。


ちゃんと自分本位がわかっているならば、相手のことは自然に尊重することができる。
相手の真空、相手の静けさを尊重する心が自然と育まれるはずだと思う。

明確な自分を持たずに相手だけを尊重しっぱなしでいるのは非常に辛く厳しく、それではとてもじゃないが生きていかれない。
生きづらさの根っこにあるものが理解できつつあります。

これは深いのかもしれない。
だけどそんな状態の今のわたしでも決してまずいものでも不出来なものでもなく、尊い一人の人間であることに変わりはない。
だから堂々としていても良い。
きっとそうだと思います。
心からそう知れたらと願います。


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わたしは本来の姿ではない姿であらねばならないという、自分が感じた圧力を取り込んでそれがドライバーになって突き動かされるように、自分自身で自分を追い込んで生きてきたんだと思う。
自分に対して申し訳ないのと同時にとても悲しく悔しく感じる。
それしかできないと信じて生きてきたのだからとても悔しい。

そうではない自分にならなければならないという、ありえないことを望むことほど辛いことはない。
そんな苦しいことを続ける理由は1mg もないと思う。
なんて辛いところにいたのだろうか。

もうやめてもいい。それが、なかなかわからない。
だからじりじり進んでゆくんだ。


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結局戻ってくるところは
「わたしは一体誰なんだ?」
というところ。
それを試すのが怖い。

だからじりじりと進めてゆくんだ。
自分を出すことにひるむ自分を労って励ましながら。
死の危険を感じてそうなったんだから無理もない。
無理をする必要もない。
ゆっくりでいい。

安心することが一番大事。
だから早く寝ることと規則正しい生活が最優先だ。
身体を取り戻そう。二つの意味で。


塗りつぶした手帳の白い部分を歩き続けることで、わたしは自分の問いをこれから少しずつ積み上げてゆく。
少しずつ自分で自分を作ってゆく。
答えを出すことよりもきっと問うことの方が大事。
たくさん自分に質問してゆこう。
聞きたいことをたくさんおもいつこう。

自分に対して知りたいことはなんだろうか。
そのことをもっともっとわたしは考えていい。
そのことにもっともっと時間とエネルギーを捧げていい。


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週の最後に、境界線に守られた状態とそう出ない状態との違いを体感できる場面があった。
わたしの今のデフォルトは境界線のない状態なのだけれど、そこにいる間エネルギーは流れ出してゆく一方でわたしは生命の危機に瀕してしまうように感じた。

境界線に守られている間は安全を感じ。
急ぐ必要を感じず、追い立てられる感覚もなく、静かで落ち着いていられた。

手帳の中で時間の区切りというところからやってみて、少しずつその感覚を他者との関係性の中でも感覚として感じてゆきたい。


文節区切りの線

限界を超えることが常態化してしまう現状。
危機に晒されている状態が普通という現状。
固まって怯えて動けない自分。

その中でふりをして生きてきた部分がもうはちきれそうで、だからもうこれ以上歩けないと思う。
そっちじゃない。
そっちじゃないんならじゃあどっちなんだ。
わかるはずだ。
自分のことなのだから。
自分がちゃんと知っているはずだ。

わたしの命を守りたい。
今は神様に祈るような気持ちでいる。
わたしにはどうにもできない気がしている。
手に負えない気がしている。

だからきっかけが欲しい。
いくつもいくつも欲しい。
あそっか、って思いたい。思い続けたい。
繰り返しあそっかって思って気付いてゆきたい。
気づき続けたい。


もう疲れてしまってこれ以上は歩けないと思う、無理をしない自分になりたい。
追われない居場所を作り出したい。

わたしの安全をわたしが守れるようになりたい。
一人で頑張るのではなく、助けをたよりながら。




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N. G. さん(30代/群馬県よりご参加) たいむクラス



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時間。
それは扱うのが難しくて気付くとすぐ過ぎ去ってしまうもの。


お疲れ様です。
あれから一週間経ったなんて。
夢とか希望とか、そういうものが吹っ飛んでしまうくらいの衝撃をワークショップで体感してきました。

あれは夢だったのかな、なんて思うくらい。
いつのまにか回復が目的になっていて、幸せになることが目的だったの、忘れていました。


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私は2週間以内に学校の HP を見ることを目標にしました。
夜間や短期コースがあり、思っていたよりも受け入れの幅が広いことに気付きました。

私がしたいことは、作ること、表現することなんだろうな。きっと。
なければ作る。ただそれだけ。
表現の基礎を身につけるため、きっと学校に行きたいと思ったんだろうな。

家族から怒られながら服を作ったこと。
ヨレヨレの服が出来たこと。
今でもきっと引きずっている。

10年以上前からずっとずっと気になっていたこと。
今、向き合う時なのかな。
一気に変えることは難しいから、少しずつ。


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そして、やりたいことにもあがっていた、服にレースをつける。
実際にやってみたら一日があっという間に終わってしまいました。

時間は、本当にないんだ。
もしかして、やりたいことをやる時間もないくらいなのかもしれない。
それぐらいあっという間に時間は過ぎていく。

何もできないのは、本当に時間がないからだったんだ。
グレーな時間を削って、もっともっと自覚的になって時間を使っていきたいと思いました。


今回は私の中で一番心を開いてリラックスして受けれた気がします。
参加したお仲間さん、藤沢さん、スタッフの皆様、どうもありがとうございました。




タイトルはじまり目印

C. W. さん(40代以上/埼玉県よりご参加) たいむクラス



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私へ

今回もお疲れさまでした。

前回の「時間のためのちいさなワークショップ」に参加したのは2016年10月だったから、もう3年経っていたんだね。
今さらながら、時間が経つのはなんて早い。


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今回は「自分にとっての夢をはっきりさせる!」と意気込んで参加したけれど、気持ちの方が空回りしてしまって、当日は自分でもかわいそうな位、内心緊張してしまった。
うまく自分自身とつながれなかった感覚があった。
今の自分に取って自立が一番大事なテーマだから、そっちに考えが偏り過ぎていたし、頭で考えすぎてしまっていたのもあったかもね?

自分の思いにつぶされず力に変えていくこと、出来るようになりたいね。


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でも、決して今回やったことが無駄だった訳ではなく、やってみたから分かったこともあった。

前回のプレワークを振り返ってみると、私の夢の中には一発逆転の香りがするものも混じっていた。
でも、今回のワークを見ると、本当に小さくてささやかなことを望んでいた。
地に足がついていて、「そんなの(砂糖菓子のような)夢だよ」というものではなく、実際やれば手に取れそうなもの。

エッセンスの中には、「安心して心穏やかに、自分のペースで生活を楽しみたい」「もっと自由に、自分を試す活動をしたい」「ゆっくりしたい」という私のニーズが見えた。

それから、前回のプレワークの片隅に小さく「安心出来る環境で心身ゆっくり休ませて、しっかり心の整理をしたい」と書いてあるのを見つけた。
「安心出来る環境」私が望みつつ、目をそらしてきてしまったものだと思う。


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今回手帳の使い方をおさらいしてみて。
1回参加していたし、手帳は毎日つける習慣がついているし、時間の使い方はもう少し身に付いているかと思っていたけれど、学びきれていなかった所や薄れてしまっていたところもあって、ぽろぽろ取りこぼしがあったね。

私は、時間も夢も、自分が思う「理想」に自分の方を合わせようとしてきたのかもしれない。
そうではなくて、「私はこういう人だから。こうしたいから」が出発点だよね。

でも、その取りこぼしていたところに気付けて良かった。
そこに、今改善したい自分の弱い面を見つけられたから。

私は、特に最近「行動することが弱い」って思っていた。
私の手帳(時間)の上には、「思いやアイディアがあっても、自由な時間に入りきらなくて繰越すうちに、いつの間にかうやむやになる」=「行動出来ない」パターンがあった。
そして、自分を知るための活動=行動に、時間が与えられていなかった。

その原因は、ここ(今の手帳(時間)の使い方)だったかもしれない。


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こういう小さな時間の積み重ねで(そして、その時間に行動することで)「私は、こうありたい。やりたい」が見えてくるのなら、私にはまだ、私にやってあげられることがある。
基礎って、本当に大事だ。


気付けたのは、「見える化」して直面出来たおかげです。
今回も、本当にありがとうございました。



| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ


ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。


「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。