Y. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) あいりすクラス
ワークショップ・クラス当日は、雪のため遅れることを覚悟で出発したのですが、ほぼ予定通りに到着できてホッとしました。しかし、ホッとしたのもつかの間、予想通りワークショップ・クラスでは、自分の現実に大きい衝撃を受けました。
それは、私にとってはいい意味での衝撃で、ショックを受けて愕然とするんだけれど、いろんなことの辻褄が合う感じであーそうなんだとまたひとつ自分のことを理解できたように思います。
そして、私の新たなる問題とご対面です。それは、私にとって大きくて、今までたぶん避けて避けてきたんだけれど、やっぱりここかぁと舞い戻される感じで、やっぱりこの道は避けられないんだなという、この道を進んでいくんだという覚悟が出来たように思います。
対面式のワークショップに参加して、心で感じるという感覚は徐々に戻ってきたと思います。でもそれを言葉にするのがやはり下手です。
TEG の結果で分かった、私が我慢すればいいというパターン、私の気持ちや考えを言葉にすることなく、親の言うとおりにしてきた昔のパターンを今でも引きずっていると思いました。
心で感じていることを表現するのがとても苦手だということが分かりました。自分を表現することを少しずつ始めていきたいです。
また、チェアーワークは劇変でした。家でもやってみてはいたのですが、力が抜け切れてなかったようで、藤沢さんの例を見てやってみると、全然違っていました。
チェアーワークの前後で受け止め方に差が出たのも驚きでした。
チェアーワークはこれからもずっと続けていきたいと思います。
そして、最後にしたロールプレイングでは、人の目を見るのが怖い感情が大きくなって、役になりきれず不完全燃焼でした。
そして、とっても難しかったです。これも少しずつ練習ですね。
パートナーになってくださった方、本当にありがとうございました。帰りもご一緒できて、お話しできて、嬉しかったです。
そして、電車に慣れていない私を2度目、帰りご一緒してくださった方、ありがとうございました。余裕をもってお弁当選びできましたよ(笑)。ワークショップ・クラスで再びお会いすることが出来て嬉しかったです。
最後になりましたが、藤沢優月さんはじめ ONSA の方々、ワークショプを開催してくださり、気づきの機会を設けてくださり、感謝しています。
本当にありがとうございました。
J. O. さん(40代以上/東京都よりご参加) あいりすクラス
藤沢様
あいりすクラスの皆様
その後、いかがお過ごしでしょうか?
こちらは、まだまだ雪が山盛りです。
藤沢さんがブログに載せてくださった雪国の注意点を心に留め、屋根の下には近づかず、都内はヒールで闊歩している方が沢山ですが、私はすべり対策でいまだ強そうな靴をひとり履いて通勤です。夜中など、ズルズルどーんという音とともに雪が落ちている音も聞こえます。何かが壊れないといいけど、怪我しないといいなとその都度思います。
大遅刻をした私を藤沢様、皆様が暖かく迎えてくださり、本当にありがたく感謝しております…。
あの日の私は、朝から雪関係で色々なことがありすぎて、心の中は大騒ぎ状態でした。
時間は短かったですが、参加できて本当に良かったと思っています。
藤沢さんのお話、練習で「!!」となるような発見が色々とありました。
最後にお誘いの練習で「みんな誘うのは断られるかもしれないから勇気がいる」と藤沢さん。
え? 皆さんそうなの? ということにまずびっくり。
大学生の頃は自分から誘っていたような記憶もありますが、いつからか誘って断られると自分を拒否されたようで怖くて、勇気がなく自分から何かを誘うことは、家族以外では全くないのです。
誘いを断られる = 相手を拒否ということではないようだ。
誘うまでは私の範疇。でも、受ける受けないは相手の範疇であるということ。その結果が自分の評価ではないこと。そうなのかと。うまく書けないのですが、そんな衝撃をうけました。
そして、今回も以前 WS でご一緒した方々とお会いできたことがとてもうれしかったです。
お会いするのが初めてだった方々も、またどこかでご一緒できたらうれしいです。
非常に心強く感じていますし励まされます。
これからも、藤沢様、みなさまよろしくお願いいたします。
Y. S. さん(30代/大阪府よりご参加) あいりすクラス
今日は2014年2月22日の土曜日です。「境界線ワークショップ」のワークショップ・クラスから、1週間がたちました。雪の積もる中参加させていただいたあのワークショップ・クラスは、わたしにとって、とても思い出深いものになりました。
ワークショップ・クラスを終えて、先日、生まれて初めて、自助グループのミーティングに参加しました。
ONSA のホームページや、ウェブワークショップ等を通じて、今までもそういうところがあるということは知っていました。そして、私は、自助グループに参加しなくちゃいけないほど重症ではないはずだと、思いこんでいました。思いこもうとしていた、という方が、しっくりくるかもしれません。
境界線のワークショップ・クラスを受けて、わたしは、やっと、やっとやっと、もうわたしひとりの力ではどうにもならないんだということを、知りました。それが、今回「境界線ワークショップ」を受けたことの、一番の成果だったなと思っています。
今までもわたしは、機能不全家族で育ったことの影響を受けていることを自覚していると思っていましたし、自分の問題にも取り組んでいるつもりでいました。そして、それと同時に、どこかで、自分の問題の深刻さを過小評価していました。片手間でも、なんとかなるんじゃないかと思いたかったんだと思います。
境界線のワークショップ・クラスを終えて、このままじゃ、わたしの人生がめちゃくちゃになると思いました。自助グループも、カウンセリングも、行かなくちゃって、思いました。
そして、ものすごく不安になりました。
何をどこまで夫に話せば良いんだろう、親との関係はどうすればいいんだろう、子作りをしないことで義理の両親に何か言われたらどうしよう、そのせいで夫に見捨てられたらどうしよう、まわりの人には内緒にして回復していけないだろうか、カウンセリングにかかるお金はどうしようか…。
わたしはこんなにも、見捨てられるんじゃないかっていう不安を抱えていて、自分の力で生きていける、自立できる自信がなくて、それを強がって、みないふり、ないふりをしていたんだって思いました。そして、この不安を見ないようにするために、たくさんの不健康な習慣や不健康な人間関係を繰り返してきたようにも思いました。
大切なのは、他人じゃなくて、私。私がどうしたいかということ。私が私を守るんだ。
相手にちょっかいを出したり、相手を攻撃したり、相手の境界線に侵入する必要はないし、それはしてはいけないんだ。不安になると、ワークショップ・クラスで練習したことを思い出しています。チェアワークも、出来る限り続けてみています。
ワークショップクラスを終えて、わたしの中には、ほっとする気持ちがありました。どうしようもないと思っていたことが、そうじゃなくて、ちゃんと道があるんだって知ることができて、安心したのだと思います。優月さんに、いろいろな表現方法で説明していただいたおかげで、「あぁ、そうだったのか」って、いろいろなことが腑に落ちていったのだと思います。
プレワークをしていて、自分のパターンもいくつか見えてきました。
まだ現実にはなにも起こっていないのに(どの境界線も侵犯されていないのに)、きっと悪いことが起きるって思って不安になって閉じこもるパターンを、何度も繰り返していました。知らず知らずのうちに、周りの人に自分の考え方や感じ方を押しつけて、相手の境界線を侵犯しているのかもしれないということも、なんとなく感じられるようになってきました。そういうときにはだいたい私はとても怒っていて、その怒りをコントロール出来なくなっているように思いました。ワークショップ・クラスでおっしゃっていただいたように、これらのパターンには、カウンセリング等を通じて、向き合っていこうと思います。
YES/NO ということについても、びっくり、しました。
わたしは今まで、どうして、誰もわたしがどうしたら良いのか教えてくれないんだろう? どうして誰も何も言ってくれないんだろう? 助けてくれないんだろう? 教えてくれたっていいじゃん! って、思っていました。
間違った方向に進んでいっていたら、そのうち誰かがわたしの肩をたたいて、その道は間違ってるから、こっちに行った方が良いよって言ってくれるものだと信じていました。誰も何も言わないってことは、わたしは間違ってないんだ、こっちの方向で合ってるんだと思っていました。
だから、大人の世界では、その人その人の生き方を尊重するために、誰がどんな生き方をしようと、「うん、やれば」「いいんじゃない」って言われるよ、誰も「NO」とは言わないんだよ、それは失礼なことなんだよっていうことを教えていただいて、心底おどろきました。だからこそ、「私が私を守るんだ」ということがどれだけ大切なことなのかも、心にしみてきたように感じました。
自分に「NO」を言ってあげられるのは自分しかいないということも、分かりました。そして、わたしは今、自分1人では自分に「NO」を言ってあげられなくなっていて、だから他のひとのサポートをとても必要としている状況なんだということも、感じました。
エゴグラムの結果明らかになった処世術にも、おどろかされました。
私さえがまんすればうまくいくという処世術を持っているといわれても、クラスを受けている最中は、正直、「きっとそうなんだろうな~」と思いつつ、自分が何をどうがまんしているのかすら、思い当たりませんでした。あまりにも当たり前になりすぎて、違和感を覚えることすら出来なくなっていたのだと思います。
クラスが終わってから、少しずつ、見えてきたことがありました。
境界線をひかないようにしてきた自分でした。
相手と同じになってしまえばいい。そう思っていました。相手がそうしたいということを、私自身もそうしたいんだって無意識に思いこむことで、摩擦をさけてきたんだと思いました。わたしがどうしたいか分からないから、ひっぱっていってくれる人や、面倒をみてくれる人についていっていました。
自分の面倒をみることを教わってこなかった。人生を楽しめない…。
どれもこれも、わたしにとっては、あまりにも当たり前のことすぎて、わたしがこれらの処世術を手放すことが出来るなんて、思いもしませんでした。ワークショップ・クラスで、なかまのみなさんのエゴグラムを見せていただいて、あらためて、わたしの処世術はわたしにとって当たり前だっただけで、他の生き方も、たくさんあるみたいだぞ、ということが感じられました。
そして…なによりも衝撃だったこと。それは、私が依存症で、アルコール依存症の人と同じくらいの規模のケアーを必要としている状況であるということを知ったことでした。
お酒を飲んでいないだけで、やってることは同じだと指摘していただくまで、私は、自分では気がついていませんでした。言われてみれば、そのとおりなのに、自分では気がつけませんでした。
今、やっと、スタート地点に立たせていただきました。1人では決してここにたどり着くことはできなかったと思います。ありがとうございました。
ワークショップを主催してくださった優月さん、ONSA のみなさま、先を行くたくさんの先輩たち、いまもしがみついているたくさんの仲間のみなさん、これからも、どうか、なかまにいれてください。よろしくお願いいたします。
最後に、私へ。
今まで一緒にいてくれて、ありがとう。長い間、危険な目にあわせてしまったね。これからは、私が私を守るからね。
M. K. さん(20代/東京都よりご参加) あいりすクラス
今回の「境界線ワークショップ」参加は、対面式のワークショップが約1年ぶりで久しぶりだったこと、会場が横浜に移ってから初めての参加だったので、問題なく到着できるかということに加え、前日の大雪で交通機関が通常通りには機能しなかったので、無事会場に着くまでドキドキしていました。早めに会場にはたどり着け、灯台の時間も取れたので一安心して、ワークショップには取り組むことができました。
「境界線ワークショップ」は2回目で、どんなことをするかわかっていたので、自分の課題「相手に否定、非難されるのが怖くて自分の思うことが言えない」にしっかり取り組もうと意識を集中させることができました。参加人数が少なくて、Web.WORKSHOP でクラスをご一緒していた方もいらっしゃっていたので、いつも以上にアットホームでほっとできた感覚がありました。
自分が言われてぐさっとくる言葉を相手の方に言ってもらい、言われたときの自分の感情をまず感じてみることをした時、悲しくて涙が出ました。でも、今振り返るとそんな時の私は境界線が全開で、相手が言ったことがそのまま自分の価値になっていて、相手が思ったことを全部自分の中に取り込んでいました。そんなこと、しなくていいと今ならよくわかります。
次に、自分が言われてぐさっとくる言葉を言われた後に「私はそうは思いません」と3段階の強さで境界線を引く練習をしました。そのとき、相手に理解してもらうために言うのではなく、私が私を大切にするため、自分が自分の気持ちを理解するように言ってみてと藤沢さんのアドバイスがあって、そのように実践してみたらとても落ち着いて言うことができました。相手ではなく自分に言うように言ってみたら、自分の思うことを言うことで、相手がどんな反応をするかへの恐怖がかなり減りました。
アドバイスをいただく前に、まずは「そうは思いません」と言ってみようという練習があってその時は言うとき、かなりコチコチで、怒りも言葉にのせて言っている感じがしました。また、相手がなんて言ってくるか怖いから、身を固くして守りに入ってる感覚を体に感じました。
これらの練習を通して、私は普段人に自分のことをわかってもらわないといけないと感じていて、その気持ちで言っているから、頑な感じがして違和感があること、言うときエネルギーがすごく必要だと感じていたことがわかりました。また、感情を言葉にのせて伝えていたので、その感情が相手の反応を引き起こすことがとても怖かったんだと気づけました。
そして、今週、会社の人にはっきり自分の意見を言う場面があり、そこでスムーズに言えました。言ってみてわかったのは「i-messeage」自体よりも、非言語メッセージである私の内なる自信の強さに相手は反応するということでした。相手が「あっ境界線、越えすぎた」と感じて、「ごめん」という言葉がでてきたことが感じられました。
自分に対して言うという心構えはとても気が楽でした。変な力が入らないし、なんでわからないだろうこの人はぐるぐる…と考えることにエネルギーを割かずに済みました。
それでも、人に非難される、怒られる、否定されるのではないかという恐れでびくびくするパターンが顔をだした出来事もありました。頻繁にチェアワークをして、今自分が反応している、その真っ只中にいることを感じつつ受け身で構えるパターンに陥らないよう、冷静に現実的に考え、判断をすることに意識を向けることを心がけられました。冷静に現実的な判断ができているのか不安になるときもありますが、チェアワークで反応を切って、何度も練習して経験を増やしていきます。
TEG の結果は、初めて受けた2、3年前とあまり形が変わらないので、私ずいぶん変わったと思うけどな…と思って最初はショックだったのですが、データを受け入れようと思いました。やっぱり、私が苦しんでいるのは CP、AC の部分であることは確かで仕事で必要以上に責任を負うから苦しくなるところが思い当たるからです。数値が低い部分、NP と FC をあげていけばよいとわかり、私には難しいことだけど、自分に優しくすること、遊ぶことは毎日が楽しく過ごせるようになりそうなので、意識してとりいれます。
私が対面式ワークショップに初めて参加したのは、2011年の2月の「境界線ワークショップ」でした。
あの頃の自分が3年後こんなにしっかりと自分の足で自分の人生を歩けるようになるとは想像できませんでした。長いようで短い、短いようで長い時間を私はちゃんとあきらめずに歩いてここまでこれたんだなと思うと感慨深いです。1年ぶりに藤沢さんにお会いし、そういったお話ができたこともよかったです。
私の人生はようやっと始まったばかりです。もっと飛ぶための助走と位置づけて、今回の「境界線ワークショップ」に参加を決めましたが、自分が必要と思うタイミングで受けることができました。自分の感覚を信じるほど、自分への自信が高まることを少しずつ感じています。
行ってよかった! そして、定期的にメンテナンスしに行きたいと思いました。
また、会場のある場所周辺は、落ち着いた時間が過ごせるので気に入っています。
藤沢さん、参加者のみなさま、ありがとうございました。安心した気持ちでワークショップ・クラスに参加することができました!
A. I. さん(30代/愛知県よりご参加) あいりすクラス
ワークショップ・クラスに参加して、一週間が経ちました。私は、このワークショップで、人生の大棚卸しをしたと感じました。
ずっと隠しておき、棚上げしてきたことに向き合うと、それはとてもつらく苦しく、私の人生は何でこんなことになっちゃったんだろうと思いました。しばらくは泣いてばかりいました。けれど、やっと向き合うことができてほっとした自分もいました。
一週間かけて、心の中は大掃除大会でした。その間、たくさん『未来日記』を書きました。自然に、次の自分の方向性は決まっていきました。
私の生き方の処世術「何か問題が起きたら、自分が中心になって取り仕切っていく」ことが、私の状況を悪くしていることは、とても衝撃的でした。そして、その生き方をはがしたら、未成熟な子どものまま、がむしゃらに踏ん張っている自分がいました。
最初、それをとてもみっともなく恥ずかしく思いました。
しかし、『未来日記』をつける中で、私はその生き方にすがるしか方法がなく、その中でどんなにか私は生きることにしがみついてきたのか、どれほど私の大切な心や精神を踏み荒らされて、私がどんなにつらい思いをして、それでも生きることをやめなかったか、その私の強い心と魂とやさしい気持ちを知れば、誰かに認められなくても私は私の誇りだし、存在価値も意義もある、ただただ生きてるって素晴らしい、素晴らしい私、と思えました。大好き、と思えました。
私はこの日まで、身の回りに起こるすべての問題に自分が責任を持ち、解決しないと「私は生きていてよい」と存在を許されないと思っていました。逆にそうでない時…「私はそれはしたくない」と自分のやりたいことを優先したいとき、かならず相手に境界線を踏み越えられてきたことも感じました。
それは、私の持つその生き方が、「他人を働かせて自分の人生を進めたい人」の要求をぴったり叶える生き方だったからということも、時間をかけて理解しました。私のその生き方が、自分を苦しめる人を呼び寄せるものでした。
しかもそれが今の私の旦那さんでもありました。
一番安心したい人が、自分を一番傷つけ、脅やかしている最強の共依存者なんて、ありえないと思い、認めたくありませんでした。
でも、私はそのことをずっと前から知っていました。けれどずっと目をそらしてきました。その間に十数年たち、その時間の間に、どんなに私の現実は厳しいものになっていたかに直面したら、ありえなくて、辛くて、怖くて、もう全部どうでもいいような気持ちになって、帰ってきてからはしばらく泣いてばかりいました。
でも、私はそれに目を向け、向き合い、理解し、受け入れることができてよかったです。
旦那さんの名誉のために言いますが、彼に悪気はないのです。ただ、彼は家族問題について学んでいないし、共依存についても学んでいないから、私たちの関係が強固な共依存関係になっていて、お互いの人生を侵食しあっていることに気づかないし、知らないだけなのです。
でも事実そうであり、その中で私は彼の言動に振り回され、傷つき、そして「怖い」と感じていたのに、感じないようにしてきていたことも気づきました。それにも気づけてよかったです。
私は、いつも周りを変えようとしてきました。でも、そもそも、「変わる」という行為は、本人が「あ!」と気づいて、主体的に変わろうと決めて行動するから「変わる」のであって、相手が変わろうとしていないのにそれを求めたりそうさせようとしても無理なことでした。
自分を脅かす相手に対しては「相手を変える」のではなく、ふつうに考えたらその人から離れればいいだけの事なんですよね。それも、初めて実感を以て理解しました。
というか、あの処世術で生きている限り、「問題から逃げる、遠ざかる(そして自分を守る)」という選択は私には許されないものだと思い込んでいました。でもこの気づきを得て、初めてそれを私に許すことができました。
この生き方のもとになっているのは、子ども時代の実家での生活のすべてです。私は仲の悪い親戚家族の間を取り持って仲良くさせることが使命だと思っていました、ごく小さいころから。
しかし今回の気づきをもとにすると、結局父も母も、その苦しい状況を自分で変えて幸せになる気はなかったということだと思いました。もともと無理なことを私は30年以上も責任を感じてやってきていました。そうしないと生き延びれませんでした。
その間に、自分の人生に不満足な両親、ひいては今の旦那さんの問題を引き受けて、私の人生の時間をじゃぶじゃぶと明け渡していました。
帰って来てからはっきりとノートに私は書くことができていました。
「旦那さんの人生が不満足なのは、私のせいではない。だから私が責任を取る必要はない」と。
だからと言って、今すぐ旦那さんとお別れすればいいのかと言ったらそうではなく、まずなによりも私が「自分は何をしたくて何が好きで楽しいのか」と、自分の人生を生きることが最重要だと思いました。そうしないと、何度繰り返しても同じだから。
自分が自分の人生を生き始めて、結果、お別れという選択もあり得るということまで受け入れ肚をくくることができました。一週間はかかりました。けれど、すっきりしました。やはり、私は共依存を回復して自分の人生を取り戻して生きるのが小さいころからの夢だったし、そこまで厳しい現実だと思っても、進んでいくのは間違いないです。
だって、わかってしまったから。いえ、やっとわかってあげられたから、自分の気持ち、現実、痛み、どれほど自分が大切な命であるかを。
残念ながらとても不健康な私たちの夫婦関係で、今のまま「心のDV」のような状態を続けていくよりずっといいと思うから。
お別れするのが怖くてまた目を伏せるのではなく、「そうなったらその時はその時だ」と思って、しっかり自分に重心を置くように、自分を生きることにシフトしよう、と決心できました。そのために、今まで生き抜いてきた自分を誇らしく好きと思えたことは大きかったです。
私は健康になりたいし、健康な人間関係がほしいです。そして、まだ出会ったことがないけど、これからは出会って行けると感じています。
ワークショップ・クラスに行く前の書き込みを読むと、いかに自分が「旦那さんと境界線がなくなっていていっしょくたになっている」という土俵の上でぐるぐる回っていたのかがよくわかりました。
『未来日記』を読み返しました。ワークショップ・クラスに行く前から薄々気づいていたところにマーカーで線を引き、同じ土俵の上で出した答えのところには、今の自分の言葉で理解を書き加えました。
決して目を伏せたりせず、だからと言って結論を急ぐのでもなく、でも、事実の重さをきちんと理解し受け止めながら、この先の自分の進みたい方向が、見えてきました。
せっかく、具体的に何をしたらいいかも教えていただいたのだから、やってみています。中でもチェアワークの、「体が今ここにもっどてくる感覚」は素晴らしいです。
気づいたら部屋を片付けて、自分の居心地の良い場所(逃げ場? 安心できる場所?)を作っていました(人の力ってすごいな)。まめに境界線を引く練習もしています。自分のお母さんになってあげる練習も。
それから「反応」することは「状況をコントロールしようとする」ことと同じかもしれない、と気づいてきました。
私が悪いのではなく、私が採用していた生き方がもう不要になったから卒業して、新しいやり方をするだけ、ただそのシンプルなことだ、ということもわかってきました。だから、素直に教えてもらったことをやろうという気持ちです。
ずっと「人と私」との関係を何とかしようとして生きてきたけど、そうではなく、「私自身」が変わる(=進む)ことで「私」の状況は変わる。境界線を引くことは、相手に対して飛んでいく矢印の鋭さではなく、フラフープのように私の周りにぼよよんとできるもので、その中身は「私は○○だと思う」という、「私」で構築されていると思いました。だから、自分が何をしていきたいかが大切なんだって思いました。
この今回の自分の気づきと目覚めとそれに伴う行動のすべてに、私は愛を以てします。
クラスの皆さんへ。私はすごく緊張していて、お隣の方とワークを組んだ方しかお名前を覚えることができませんでした。もっと皆さんとお話すればよかったと後から思いましたが、これも今の私の現状なんだなと思いました。
一緒の時間を過ごせたことを感謝しています。本当にありがとうございます。
藤沢さんへ。あのいっしょくたになった境界線の図を見た時の恐怖は生涯忘れることはないと思います。すべてが痛すぎてきつかったけど、私は気づけて本当に本当によかった、命拾いできたと思いました。どんな厳しこともはっきり言ってくださって、本当にありがとうございました。大切なことを教えてくださってありがとうございました。
『夢をかなえる人の英語術』のころからずっと藤沢さんの本を読んでいてせっかく会えたのに、もっとお話ししたらよかったなあと後で思いましたが、そういう勇気がないのも今の自分で、今はそれでいいや、と思いました。身ぐるみはがれて今の自分をちゃんと知ってあげることができて、それが同時に大きな救いと転換点になりました。
ありがとうございました。また対面式に参加したいと思っています。
K.M さん あいりすクラス
今回一番心に刺さったメッセージは、たとえ境界線を設定できるようになっても、それが解決ではないということでした。
境界線のコアな部分は、自分が人生をどう生きたらいいか分からない、もしくは薄々分かっていてもそれをする勇気がないからだと。コアな部分がないことが他の人に入り込まれる事につながり、他の人にエネルギーを使ってしまっているのだと。それは暇つぶしと同じだと伺いました。
一瞬、えっ「境界線のワークショップ」なのに!? と思いましたが…とても核心を突かれた感じがしました。
今まで私は恐ろしい事に境界線に石を積まない方法を習ってきました。それしか知らない私は、他の人にもそれを求めていたと思います。
ワークショップ・クラス後の一週間にじわじわと内容が染みてきて、これまで私がしてきたことや正しいと思っていた事を根本から覆さなければ行けない気づきがたくさんありました。
優月さんがおっしゃっていた家族への激しい感情は実は前回までの WS で苦しいほど味わっていたため、今回は静かな怒りと失望感が浮かんできました。まさにこの一週間の私は、感情が上がったり下がったりするクレンジングリアクションの中、慣れない境界線を設定する事にかかりっきりでした。
他にも、あっまた「反応」してる…と思って時間を置いて「対応」することも何度もありました。
エゴグラムで分かった私の処世術の特徴はその通りでした。これまで、反射的に誰かを助ける事で自分の価値を高めるパターンに逃げ込んでいました。
気遣いができると評価されていたことが、実は偏りすぎて自分を苦しめていたなんて。しかもそれをいい事だと思って自分はしていたのです。怖いくらいエネルギーが他の人に流れていました。これまでのパターンに慣れすぎていたので、後半で助けを求めてくる人に「私はそれはできません」という練習にすごく勇気がいり、ドキドキしてしまいました。対処法を教えていただき、この一週間は、レジで袋を断ると言った簡単な事から、自分の人生をコントロールする要素の練習を始めました。
ワークショップ・クラスから現実に帰ってみると、これまで冷たいと感じていたのが実は独立した人間関係でした。健康な人は本当にしたいことに時間を使うので共依存の人に構っている暇はないのだとワークショップで聞いたときにはショックでしたが「あ、これがそうだったのか…」と思いました。
そして今まで構ってくれていると思っていた関係の方が共依存でした。
同じ日常を見ているはずなのに、まさにコーラにレモンが一滴落とされた例えの通りでした。
ワークショップ・クラスの後、サイトに紹介されていた境界線の本を早速読み始めました。あぁ私の事だ…という部分がたくさんありました。
まだ先は長いですが、自分を全肯定できる瞬間を少しずつ増やして習慣を変えていく…ワークショップ・クラスの時ホワイトボードに書かれていた状態に近づけるよう、毎日を積み重ねていきたいと思います。練習、練習、また練習ですね。
優月さん、OFFICE ONSA の皆さま、今回も安全な空間で機会を与えていただきありがとうございました。また「じかんのきろく」ではご配慮本当にありがとうございました。
皆さま、雪の中本当にお疲れ様でした。真摯な心温かな空間をご一緒させていただきありがとうございました。
H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) あいりすクラス
あいりすクラスのみなさま、優月さん、先週は雪のなか本当におつかれさまでした。
それから、とてもとてもまたお世話になりました。
スタッフさんにも、クラスのみんなにも、優月さんにも、それから私にも、本当にありがとうと、ありがとうございました!
雪が降り始めた金曜日から、もう、無事に行けるのだろうか、そして帰れるのだろうかとドキドキしました。
結果としての事実を確認してみると、私は行きのバスの時間を間違えて乗り過ごすという失敗こそいたしましたが、それでもちゃんとリカバリできて無事に行けたし、無事に帰ることができました。
今回は3回目の境界線のワークショップでした。
バウンダリーは、しっかり身につけて、私の「当たり前」になるまで、いくらでも今後も引き続き練習をしたいですが、その前の段階として、私はようやく、だいぶクリアーに理解できてきた気がする…、という感覚でいます。
ONSA でエゴグラムをするのは4回目でした(2011年の「青い鳥カフェ」でも一度したので)。
振り返るべく並べてみると、置かれている状況によって違うんだなぁと分かりやすい気がしました。
2011年と今回と、FC が高いときは、私にとって外部からのストレスがわりと少ないときではないかな、と思いました。
NP が満点だったときは、仕事で「私」が動かないと、回さないと、何もすすまない! とめちゃめちゃ頑張っていたときで、外部と関わる問題を解決するときは、私は無意識でいると NP を発揮? しまくるのかな、と思います。
AC が高かったときは、過去を掘り返して、身も心も過去と同期してしまって、しょっちゅう「もーダメ…」と倒れていた時期なので、元気? パワー? 活力? そういう類のモノがないときは AC が高いのではないかしら、と思いました。
これだけ違うと、エゴグラムの結果が「私の処世術」。
なるほど、という気持ちです。
今回のワークショップクラスでも、私はたくさんたくさんの情報を、大切に私のからだの中に入れて、そして大切に持って帰ってきました。
ホワイトボードの(1)(2)(3)と、それぞれとても分かりやすかったです。
「私が私である、ただそれだけで本当に満ち足りて、幸せ、生きてる、世界も輝いてみえる、周りなんか気にならない、そういう時間」
それが、たまにあるのではなく、何かを犠牲にして苦しんだ末にあるわけでもく、そういう時間の連続!
もう本当に素直に心の底から「羨ましい…!!!」と思いました。
夢のようだけど、それが現実にある時間で、そしてかなう夢だって優月さんがおっしゃるのなら、それは確かにあるんだろうって、確信のレベルで私の心に落ちてきました。
私は、そういう時間のなかで、私のたった一度の人生を歩いていけるようになりたいのです。
ずっと、それが私の目標だし、いま全力で取り組んでいること全ての目的だし、同時に過程でもある、と思っています。
視覚からあたまに入って、それから優月さんの言葉で体感として「あ、本当にあるんだ」って思えて、私はそれだけで、今回お伺いした価値があったね、って思っています。
私はハラを据えて、同時に肩の力を抜いて(怒ったりせず…)、静かに自分に問いたいです。
それをかなえるために、いったい何のプライドが必要だっていうんだろう。
もう本当に、ぜんぶ捨てたい。
そんなもの、私はひとつも要らない。
恥ずかしいなんて、私にお願いしたい、本当にぜんぶ捨てたい。
私は、全力で回復の道を歩きたいし、私の望む人生を歩きたい。
歩ける私になりたい。
とはいえ、現実の私に、一気に完全に「プライド」「恥ずかしい」を捨てようなんて、神レベルの無理難題を押し付けないでね。
私、ただの人間だから!
(書くと笑えるほど当たり前なのだけど、書いておかないと、ツルっと忘れて、私はすぐ自分に神レベルを要求するのです…)
もうむやみに、無理にがんばったりしなくてもいいからね、大丈夫よ、と私に声をかけつつ。
これまでやってきたことと同じように、私にできる分ずつ、目の前のひとつずつに、できる分だけ丁寧に取り組んでいこうと思います。
そして、こういうのが、「基本のフォーム」、安全な歩き方なのかなって、今にして、ようやく思います。
私は、すっかり沈みきった海の底の方でずーっとジタバタと自己流で海の底の砂をかいてモウモウと視界を曇らせながら、「何でわたし皆みたいにちゃんとできないんだろ…何でこんなに苦しいんだろ…あーもーだめかも…無理かも…」と長いこと思っていたんだなぁ…とお話しを聞きながら、ぼんやり思っていました。
水深15Mから浮かぶ動作を回復に例えて、優月さんが目の前で何回も見せてくださったので、「自己流でない正しい基本のフォームは大事なのだ!」って、これも、しっかり目からアタマに入りました。
私はそういう理解まで及んでいなかったので、とてもなるほど、と思いました。
本当に、水深15Mの例は、とても分かりやすくて、例えば一気に人の手を借りて泳いで海面までいったとしても、それは肺も慣れてないし、泳ぎ方もマスターしてないから、結局すぐにまた沈んじゃうんだろうな、と想像したし…。
だから、やっぱり助けをかりつつ、自分で試行錯誤して、自分の力で、自分のペースで、上がっていくことがとても大事なんだなとも思いました。
そっか…今まで、ONSA で「基本のフォーム」を何度も何度も何度も教えていただいていたんだなって、ハッキリ理解できた気持ちです。
知識も教えていただいたけれど、そうだよね、歩き方も何度も何度も何度も教えていただいていたね。
だから私、何にも分かってなくても、溺れてることから分かってなくても、だんだんそれが分かるところまで、ちょっとずつ上に上がってこれたんだなと思いました。
…何にも分かってなくても、とにかく「目の前の解決したい問題」に、私なりに素直に「教えていただいた」と思ったことを、コケつつ「やってみた」からよね、とも思いました。
だから、私の力も必要だったのよ、私も偉いのよって、私にも、言ってあげたい気持ちです。
本当に、ありがとう。
私ってすごいね。
私も含めて、ひとって、本当にすごいね。
そして、Web. WORKSHOP の「コース2」で、優月さんがおっしゃっていた言葉を覚えているかしら。
「やめないでね」と、「なめないでね」だよ。
私は、なんとか私にやさしくあたたかくありたいと思うので、お借りしているこの言葉を、いつも、忘れずに、大切に私にかけてあげたいと思います。
ね、忘れないでね。
とはいえ私は人間だから忘れてもいいし、それでも、必ず、思い出してね。
もうひとつ、「自己流の解釈」という言葉に、あ! 私それをしていないかいつも心配! 不安! と思って、ヒヤと背中が冷えました。
「あなた今、自分に都合よく事実を歪めて解釈しているよ」って、黙って不安に思っていても、指摘してくれる人はどこにも居ないのだった、と改めて確認できました。
私に見える事実は、勇気を出して目をしっかりひらいて、心もひらいて、時間がかかるから、時間をとって、確認してみよう。
それでも分からないときは、聞けば教えていただけることもあるし、怖いけど、練習と思って、尋ねてみよう。
この手の不安は、私の「問題」に関係ある気もするので、これは、ふんばってやってみよう、と思いました。
そして、ようやく境界線の話ですが、境界線の問題は相手は関係ない、ということも、今回ようやく、しっくりと深く私の中に入ってきた感じです。
周りの攻め、責めから自分を守る、「防御の技術」ではないんだよ、ということ。
(とはいえ、それが「できる」と思えないと、やっぱり分からなかった気もするので、それはそれでよかったのかな)
私の周りにも、確かに、傷つくたびに、ひとつずつ、ひとつずつ、レンガを積むように作り上げてきた堅固な防壁があります。
小さい頃、私は傷つきやすい状況に置かれていたし、傷つきやすい人間になるのはもう仕方ない環境で育った。
さらに生まれつきの性格も関係しているかもしれないし(今の私に自分の性格までまだ分からないけど)、とにかく私は成人してからも、いちいち色んなことに傷ついていたし、とにかく、それはある。
この壁が、私を孤独にしていることは、よく分かる。
この壁が、私に延々と嘘とフリで塗り固めて取り繕いまくる空虚な時間を過ごさせてる。
叫びたいくらい、そんなことは、私、ずっと、知ってる!!!
だけど、多分、レンガが積んであるなんて、親にも友だちにも誰にも知られずに、「無いこと」に私はしたかったのだと思う。
「だって、この壁に穴なんか開けようものなら、そこから一気に侵入されて、叩き潰されそう。嫌だ、とても怖い。無理! 無理!!」と私は思っている様子。
そして、怖がっていることを知られるなんて弱いですってことだし、弱さを外に出したら私は色々堪えてるものが溢れて泣けてくるし、そんなの情けないし、恥ずかしいし、みっともない。
だから、(恐怖も涙も全力で抑えて、笑顔で!)
「いえいえ、壁なんかないですし~」
「ほら…ね…? …無いでしょ?」
「いやいや、だめだめ、お願い、それ以上は近寄らないで」
と、必死で「無いこと」にして済まそうとしていた様子です。
「あんまり怖がっているから、あなたには何も言えない」と実際に言われたことがあるくらい。
バレてようが、何を言われようが、悲しいほど、そうしないと、私なこの世界を生きてこれなかったな…と思います。
学校でも、社会でも、壁を崩した私になったら、私の「平気なフリ」は一気に崩壊して、「依存」が噴出すだろう、まずもう「涙」が止まらないだろう。
それは、迷惑な事だし、許されないことだし、他人にこれ以上の迷惑をかけたら、私もう他人と関わりながら、この社会の中で生きていけなくなる(!)。
私は、「必死で何とか危うい自己流のバランスで自立して、普通に歩いているフリ」を崩壊させるわけには、いかなかったのだと思います。
脳内で検討にあげる余地も余裕もないほど、過去の私は恐れていたし、言葉にできて、今でも恐れているのだと思いました。
書きながら、本当に明らかです。
私は、そうやって小さいころから、過去の家庭の中で生きてきたんだなって思います。
ずっと、生まれたときから、これが、私の生きる、たったひとつの道だったのです。
だけど、本当の「自立」って、「大人」って、全くそういう事ではない。
私は、「自立」した人たちの中に立ってみようとしても、私には「私」という土台がさっぱり無いので、まともに立ち続ける術がないのです。
(少しやってみて、無いと思った)
立っているだけで、それもまた「フリ」だから、フリをするために、全エネルギーを外側に集中して、消費しまくって、疲れまくって、実際、私はすぐに立ち上がる気力もなくなる。
今の私は、自立した人と、まともに関わることができないから、長い時間をかけて(時間をかけていいらしい)深い関係を作ることもできないのだ、と思います。
そもそも息も絶え絶えになりつつ、「フリ」の関係を続けるなんて、私は多分できないし、したくない…。
境界線の問題は、結局、相手は周りは関係ない、真ん中の「私」が無いこと。
解決は、私が私であること、私を知っていて、私が私を重心に生きられること、つまり「回復」なんだなぁ…
これが、今回ようやく、しっくりと、しみじみと、私の中に深く入ってきたことです。
1回目の境界線のワークショップ・クラスの時は、ペアの方に、「これ私の仕事?」って嫌そうに言っていただきました。
2回目は、「ひどい、傷ついた」って言っていただきました。
今回は、「許せない」って言っていただきました。
それから1週間を過ごしてみて、本当に「私は(母から)許されていなかった」と思ったし、同時に「私が “許せない” と思っている」、とも思いました。
何が、かというと、何もかも、です。
相変わらず、私は知らずとんでもない世界に住んでいたものです…。
つまるところ、自分の思い通りにならない世界が、他人が、それが、「許せない」のだと思います。
母も、私も、そうなのだと思いました。
私は、今も、発達の過程で健全にいちど手放してくるべきだった万能感を手放せていない。
何もかも、よく見えることも、そうでないことも、とにかく自分の思い通りにコントロールできないと気が済まない。
そして、そのことで、またそうでない現実に、私は相当のストレスを感じているのではないかしら、とこの1週間で何となく観察できました。
だいぶ「こんなの嫌だ!」って言えるようになったことが前提にあると思ったし、気がつけることがまず素晴らしいと思うので、よしよし、という気持ちです。
これも回復の一環だし、ひとつずつ見つけて、ほどいて、学んで、選んで、時間をかけて根気強く取り組んでいきます。
CP も NP も AC も、私にとっては、その場を乗り切るための、心の中では相当うんざりしながらの「処世術」です。
大方「恐怖」が私の行動の動機で、反応です。
かなりのストレスを感じながら、まったく本心からでなく(つまり「今ここ」に居ないで)、「どうでもいい…こんなことやりたくない…めんどくさい…でもとりあえずやらなきゃいけない…」とやっているわけです。
仕事も、日々の自分のお世話も、まさにそう。(最近たまーーに「今ここ」に居ながらできることもあります)
同時に、「FC が飛び出してきたら、ロクなことがない、痛い目にあう、気をつけなきゃ…」と怯えています。
さらに、「A な私なんかどうせ間違ってる、信用できない、自信ない」といつまでも向き合えないでいる、とも思いました。
この辺は、もう少し勉強した方がいいみたい、と思ったので、そうします。
最後に、Mさん、ペアで一緒に練習してくださってありがとうございました。
あと、ひと踏ん張り…ふた踏ん張り…分からないけど(笑)、だけど「いずれ許せそう」という感覚があります。
根っこの方で、がっつり私の命を握ってたビッグワードだったかも、と今さら思っていて、その一歩が、ひとりじゃなくて…そのことがとても嬉しい気持ちです。
本当に、ありがとうございました。
お会いしたクラスのみなさま、それから私にも、それぞれの回復の道の安全をお祈りします。
本当に、苦しくてたまらない! とにかく行ってみよう…って思って参加した ONSA のワークショップが、こんな道に続いているなんて、私は想像もしていなかったです。
繰り返し繰り返し、私は、ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁にあるという詩を読んでは泣くのですが、”求めたものは一つとして 与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた” のだと、いつも思います。
ようやくみつけたと思う、私の命に敬意をはらう、この気持ちをいつも胸に、なるべく忘れないで、日々のこの道を歩いていけますように。
それが、いつか、あなたの命にも心から敬意をはらえる私になれる道なのだと思うので、それも信じて、歩いていきたいです。
Y.I. さん あいりすクラス
あいりすクラスのみなさん、優月さん、ワークショップ・クラス本当にお疲れ様でした。
あれから如何お過ごしでしょうか。
当日は大雪で本当に大変でしたね。
また、私は2日間ワークショップ・クラスがあったのでこの週はぐったり疲れています。
月曜日はお休みをもらっていたのですが休み明けの仕事はかなり怠かったです。他にも気分が妙にハイテンションだったり、怒りで下腹の辺りがピリピリしたり、少し頭痛っぽいものもあったり、今まででは一番クレンジングリアクションぽい反応が出てるかなと思います。
今まで何回かワークショップは参加していますが、境界線のワークショップは初参加でした。
一番ショックだったのは、「もう自分のために NO と言ってくれる人はいない」ということだったかもしれません。
もう大人になって年月が経っているにもかかわらず「私は大人になってしまったんだ」「一人で歩かなければならないんだ」とすごく打ちひしがれるような気分でした。
ある意味「自立しなさい」「1人でやりなさい」という言葉が、私にとっての「心の鍵穴」かもしれないと感じています。
私はエゴグラムで AC が満点でした。
エゴグラムを自宅でやったとき、他の方の境界線 PAY FORWARD で「満点は要注意」と書かれていたのを見ていたので「あぁやっぱり何かあるんだな」と少し覚悟はしていました。
私はいざという時は「我慢すること」でピンチを切り抜けてきたようです。それが自分のパターンになっていました。
私の過去を振り返っても、幾つも覚えがありました。
対人関係も、自分自身のことも、(自分のことは面倒だし、人からは嫌われるのが怖いから)我慢して動かないでいよう、言う事を聞いていよう、という姿勢になることが多いです。
言う事を聞けば、少なくとも嫌われないと小さい頃は思っていました。
そして多分今でも心のどこかでそう思っています。
また、我慢して耐えていれば道は開ける、耐えて厳しい道を乗り越えた先に何か見える、と教わりました。
直接教えられた訳ではないけれど、話を聞いていると私の母も祖母もそうやって生きてきたようでした。そしてそれを私も繰り返していること。
楽な道ばかりではない事はわかっていますが、私が耐えるのはそもそも一体何のためなのか。
私には目的は無く、ただ耐えることがパターンになっていました。
だからきっと人間関係もずっと辛かった。
相互依存の人は友達同士になるのに時間がかかる、という話を聞いた時はっとしました。
考えてみれば当たり前の話しですが、自分がいかに簡単に境界線の中に人を入れていたかがわかります。
加減がわからない。そして嫌われるのが怖い。嫌になって全てを締め出してしまったり、逆に簡単にいれてしまったりしたことも覚えがありました。
共依存同士は境界線が癒着した状態にあること。友人関係やパートナーも境界線に空いた穴にピッタリ合う人を選んでしまうこと。相互依存との違いを図で見せてもらって「これは危ない…。」と思いながら自分にも思い当たる節がありました。
私は自分に優しくありませんでした。そしてはっきり言われたり反対意見を聞くのがとても怖かった。だから今までも私が望むように自分を優しく扱ってくれる人をきっと選んでいたのだろうと思います。
以前のパートナーも金銭的な負担をしてくれたり、私の望むことをたくさん聞いてくれましたが、その代わり私の自由は制限されているように感じました。
私は私で、嫌われないように偽りの自分を演じていたと今ならわかります。相手に我儘を聞いてもらっているようで、それは本当の望みではありませんでした。本当はちっとも楽しくなかった。
その上、言葉にならない無意識の相手の欲求を聞き続けるという代償を払っていました。
相手の手を離れて、自分の判断で行動を起こすことが私は怖いし、苦手としていると思います。
勝手に行動して、失敗するのが怖い、そしてそのせいで非難されるのはもっと恐ろしい。
そしてやっぱり動かないでいることが一番安全なんだと思っていて、でもそれが今、私の足を引っ張っているんですね。
優月さんから相互依存の世界のお話を伺った時、素直に楽しそうだな、そっちに行きたいな、と思えました。
ワークショップを受けた時、自分に危機感が感じられないことが、ちょっとまずいのではないかと感じていました。
しかし今、自分の他人に対する接し方をみていると、いつの間にか「あれ? これはいつものパターンでは?」と思うことが何回かありました。
本当に無意識、とても手強いと感じています。
ワークショップ・クラスの後半では少し疲れてしまい、肝心のワークに身が入らなかったかな? と思っています。
自分が言われてショックな言葉を探すのですが、実はこれ以前「感情ワークショップ」に出た時もやって思ったのですが、なかなか「これだ!」という言葉を見つけられずにいます。
あるはずなんですよね、必ず。
まるで矢が自分に刺さるような言葉が。
出てくる感情に集中して言葉を探すのですが、AC が高いのに出てきた言葉は仕事に傾倒していたりていました。
私の生活は割と仕事に比重がかかっているとも感じています。仕事を重視しすぎて私生活が疎かになることもありました。
誰かに何か言われるとすれば、プライベートよりはるかに仕事での方が多いです。
でも CP はそんなに高くないんです。むしろ低い方でした。リーダーシップを取るのは苦手です。
途中で優月さんに「それで大丈夫?」と聞かれ、その奥にありそうな相手の意図を想像してみながら書き直しました。
パートナーになった方に言葉を言ってもらって、感情を捉えることにチャレンジしました。
最初は「ああ、言われてしまった、どうしよう」と思っていたのですが途中から感情が何も出てこなくなってしまいました。どうしてだろう、違ったのかな?? スッと感情が隠れてしまったように感じました。
演技をするのも意外と難しかったです。できるだけ冷たく、突き放す感じを意識しました。
そのあと、境界線を引く練習もしました。自分の境界線を守りつつ、相手の境界線に侵入しないって意外と難しいと感じました。
「そうは思わない」と返すのですが、強く言うと感情がこもって攻撃してなかったか心配でした。
そして何よりも難しかったのは、パートナーの方をご飯に誘うこと!
演技しなければと思うと力が入ってしまい、優月さんからは「棒読み!」とお墨付きをもらいました(泣)。
あれ? 普段、私ってどうやって人を誘ってるんだっけ? という感じで…。
「これも練習あるのみ」と言われましたが、今は上手にできる自分を想像するのも難しいです。
このワークショップを受けて、適切な境界線を引くことの道のりの遠さを感じました。
また自分の陥りやすいパターンを発見できたのは良かったです。自分が今置かれてる状況が思ったよりも深刻だということもわかりました。
ショックなのは間違いないのですが、今はどこか以前とは違っていて「今できることをやろう」という気持ちでいます。
「もしかしたら私はまだ甘く見てるのかな」と疑う部分もあります。
実際どちらかはわからないのですが、少なくとも回復の道のりに立つ自分を以前よりは受け入れられるようになっていると思います。
それは、ワークショップに参加するようになって何人か顔見知りの方たちができたのも大きいかなと感じています。
お一人お一人、環境も違っているけれど、同じ道を歩いている人たちが自分以外にもいるというのはとても心強いなと思えるようになりました。
以前は思えなかったです。自分のことに精一杯だったから。
これも変化の一つかなと思います。やったね。
最後にパートナーを組んで下さったYさん、一緒にワークショップを受けた皆さん、優月さん、運営に関わった ONSA の方々。
貴重な時間をありがとうございました。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。