Y. S. さん(30代/大阪府よりご参加) すのーふれーくクラス
[1]
あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?
私は中学生の時に道ばたで知らない男性にいたずらされたことがきっかけで、PTSD のような症状(一人で外に出ることができない)に悩まされていました。
いびつな形であってもその後社会生活を送り、それなりに彼氏もいたり、それらのことはある程度解消できていたと思っていました。
でも、最近彼氏がなかなかできない中で、自分の恋愛対象としての男性が目の前にくると、とたんに身体の内側から震えるような恐怖を感じて、現実に何も行動できなくなる自分がいることに気づきました。
また、Web. WORKSHOP に取り組む中で、何年も前に好きだった人のことがずっと忘れられなくて、今や思っているというより思い出が噴き出してきて仕方がない状態がずっと続いていました。
自分への哀れみと、怒りでいっぱいになるとともに、そんな自分に違和感も感じていて、「もうどうにかしたい」と思うようになりました。
これらのこととともに、過去への反応が辞められないでいました。
何かうまくいかないことが起きると、関係ないのに、親への怒りが噴き出して、自分でも止められなかったり、過去に誰かに言われたことや起きたことを、職場が変わっても、相手が変わっても、ずっと思い続けていました。
[2]
どんな環境、どんな過去を持っていますか? どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
態度や言葉で相手をコントロールしようとする親の元で育ちました。
特に、母のコントロールはすさまじく、私が何かしようとすると、具体的に、何を、どの順番で、どのように行うのかをすべて言語化し、私がその通りにするまで言い続けました
私は、それの繰り返しを続け、次第に無気力になりました。
また、家庭の都合で引っ越しや転校が多かったことで、自分のしっかりした根っこを持つことができなかったような気がしています。
中学生の時、前述した男性にいたずらされた出来事をきっかけに、一人で外に出られなくなったこと、その時、一番に母に話したのですが、母に笑い飛ばされたことと適切なケアを受けさせてもらえなかったことに対して、特に母に対してすごい怒りを持っていました。
この出来事以降、男性とのコミュニケーションを取ることができなくなり、ほとんど男性と話すことなく社会に出ました。
仕事を始めると女性だ男性だと言っていられなくなるのですが、それなりに仕事はできて、男性と話せる自分もいました。
ですが、私が惹かれる男性はどこかアンバランスで、うつだと自分で言っていたり、強直的で0か100かの思考で物事を考えていたり、親と同様に私をコントロールしようとしてくる人が多く、適切な関係を続けることができませんでした。
20代は、遠方に住む祖母が体調を崩し、私は単身赴任中の父のところと、祖母のところに代わる代わる通っていました。
それでまとまった休みはなくなっていきました。それが、私の家の当たり前でした。
私は知らず知らず家のために滅私奉公し、貴重な20代を過ごしていきました。
それでも当然満たされるわけもなく、誰からも感謝されるでもなく、私は、最後には「頑張っても頑張っても誰からも感謝されない。問題を起こしてばかりで働くでもなく家にお金を入れるでもない弟のほうが愛されている。いいことなんて一つもない。」と、大きな怒りを抱えるようになりました。
その頃、2つ目の仕事を辞めました。
辞めたころは父がまだ単身赴任中で、母と代わる代わるに来てくれたら丁度いい、と、家族は半分歓迎していました。
その頃の私は、かなえたい夢があり、そのための進学がしたいけど、(ちなみに家族には大反対されました。もういい年なんだからお見合いでもして結婚しろという無言の圧力はすごかったです)足踏み状態でした。
そんな中、気持ちが定まらない中での転職活動をしてしまい、とてもいい条件の就職が決まってしまったのですが、やりたくない仕事をやり続けることがとてもしんどく、しばらく仕事をしていなかったために身体のリズムを崩していたこと、当時好きだった人に両天秤をかけられて捨てられたこと、弟が当時軽いひきこもり状態で昼夜逆転だったため、同じ家で暮らすことに大変なストレスを抱えてしまい、退職してしまいました。
当時を思い出すと、自分のケアのために心療内科にも通い、自律神経失調症と言われていましたが、もしかしたら、今回藤沢さんに告げられた発達障害疑いのために、生活リズムを崩しやすい素因を元々持っていたのかもしれないと思いました。
また、発達障害についてネットで調べているときに、恋愛や仕事での特定の挫折から AC が破綻する、という説を見て、この時期の自分に当てはまると感じています。(*「 AC 」は「アダルトチルドレン」の略/編集注)
体調を崩した私に、両親は優しかったです。
母は、コントロールをしかけてくる一方で、優しいときは非常に優しく細かな配慮のできる人なので、この時期とその後進学した学校でしんどいときはずいぶんと助けてもらいました。
進学した先やその後の就職先でよい出会いに恵まれる一方で、人間関係でつまづくことが増えました。
私は、人の気持ちや感情をまるで自分のことのように感じて反応して、自分がやりたくない様々なことを言ったりやったりしていました。
つまり、境界線がぐちゃぐちゃな人間でした。
私は、どちらかというと、周りがよい方向に取った場合は天然と言われ、ネガティブな取り方をされれば KY と思われていると思います。
にも関わらず、視界のわずかな端にいる人の発している何かを感じてしまうことがあって、時々、そういうのに反応して、自分の気持ちとは裏腹なことを表現してしまうことがあります。そして、後で、とてもしんどくなります。
特に私が察していかなければならない相手は、「親」でした。
私の父は、仕事でうまくいかない時や、私がすねると、突然スイッチが入って部屋中小突き回されて外へたたき出すことがことがありました。
また、家族で過ごしていても仕事のことを考えだすと突然ぶつぶつと何かを言い出したり、洗濯物をめちゃめちゃにしたりするときがありました。
(この「突然集中してぶつぶつ言う」部分を、弟が引き継いでいることにこの間気づき、ぞっとしました。)
私は無意識に両親の機嫌を伺うようになりました。
特に父の機嫌の善し悪しは私の生存に関わるといっても過言ではないので、ちょっとした行動にも目を光らせていたと思います。
また、私の生存に関わることから、親の意見は絶対でした。
小学生のころ、地域の人たちと混浴の温泉に行くと、私だけ父親の元に呼ばれて身体を洗われました。
その間、その他の男の人たちはじろじろ私のほうを見ていました。
今でも嫌な思い出として残っていますが、当時の私は強く拒否することができませんでした。
それから何年かした後で、今度は母も弟も家にいない夕方に突然お風呂に入ろうと言われ、拒否しても怒られて嫌々一緒に入ったことがあります。
よく、私は、こたつ布団をかぶって、TV を見ているふりをしながら涙を流していました。
小さい私は、そうやって、自分を守っていました。
年々、親の干渉はひどくなる一方で、特に母は、私が帰宅すると、着替えをしていても平気で入ってきて今日自分はこんなに大変だった、つらかった、と延々と大声で話続けました。
これと同じことがほかの場所でも起こりました。
職場では、情緒不安定な人の面倒を見たり、「話を聞いて」とクラスメイトに捕まえられたり。
私は2つ目の仕事を辞める少し前に、はじめて WORKSHOP に参加しました。
その後、サイン会程度くらいで、WORKSHOP からは遠ざかったいたのですが、再び進学した学校を卒業して再就職し、仕事の休みも取れだした頃に、再び WORKSHOP に参加するようになりました。
最初はあまり危機感がなく、「目の前の問題」に対して、「楽になった」感を得て、満足していました。
感情が動かなくて、とにかく参加することで満足していた部分もあります。
「インナーチャイルド・ワークショップ」で、突然感情が噴き出してきて、やっと、根っこの問題の入り口にたつことができました。
(あの時ペアになってくださった方には、あれ以来お会いしていないのですが、今でも感謝しています。)
それから、Web. WORKSHOP に集中して取り組みだしました。
その頃、絶対に無理だと思っていたこと(一人で暮らす)も、今では普通にできています。
WORKSHOP で境界線やドライバーの知識を得たのはいいのですが、最初からうまくいくはずもなく、失敗を何回もしながら、今日に至ります。
今回、私は、藤沢さんから発達障害の可能性を告げられました。
私は少し前から違和感を感じていました。
「WORKSHOP の文章を読むのに非常に時間がかかって、ものすごく効率が悪いのだけど、みんなはそんなことないのかな。読むので一生懸命で、肝心のワークの時間のころには1週間が終わりそうなのだけれど・・・。」
来年の新しい手帳を購入しました。
ある人から言われたことを考えていた時、ふと、新しい手帳のエッセイのページを開いて、目に入った文章を読んで、そこには言われたことが書いてあって(実際には全く言葉は違うのですが文意は一緒だと感じた)、そうかそういうことか、なぜこれが今までわからないのだろう、と涙が出てきました。「TAT セッション」の前の晩のことです。
入力による差みたいなものが私にはあるんじゃないだろうか。
藤沢さんから発達障害の話を聞いて、何となく腑に落ちるものがあり、何となく安心しました。
私にはどうやら見えていないものがあるけど、それを見ようと苦しまなくてもいいらしい。
苦しんで取り組む必要もないらしい。
今は、そんな気持ちです。
[3]
ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、 過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?
過去は過去として整理されました。
親とは違う、一人の人間として、自分のことを考えることが容易になりました。
今でも、夜道は気をつけて歩いていますし、向こうから男性が歩いてきたら避けて通ります。
でも、それは、現代日本に生まれた女性なら、当たり前だ、って私は思います。
そして、今、当たり前のことをけっこう当たり前にできている自分に気づきました。
辛い辛いと言いながら、仕事は欠勤しない。今の職場を続けている。
一人で暮らし、家賃や食費や光熱費を払っている。
食事は基本自炊し、お弁当も時には持っていく。
服を洗濯し、衣替えし、必要ならお金を払って手に入れている。
この1年は正直赤字決算だが、それを補えるだけの貯金を実は貯めていた。
これは発達障害のことを告げられたからかもしれませんが、こんな私を育てるのは親だって大変だっただろう、と思うようになりました。
発達障害(かもしれない)の自分のできない所を考えていて、反対に、親のしつけのおかげでできているところ(宛名書きがきれい、他人に借りることになったお金は即刻返金する、台所の水回りをいつもきれいにしておく)に、素直に感謝する気持ちが湧いてきたこともあるかもしれません。
[4]
TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?
大きなパワーが動く場所で、自分に集中できること。
自分を見つめる覚悟ができていること。
自分の心も身体も守る準備があること。
以前の私だったら、発達障害について告げられた時点で、「TAT セッション」を受けることはできなかっただろうと思います。
境界線の知識は、本当に必須です。
心の準備だけでなく、身体を強くしたこともよかったです。
私はヨガをしていて身体と向き合う時間が取れたことと、呼吸法や冷えとり、自然農の野菜や料理も役に立ちました。
結果、心を整えることにつながったと思います。
これらのことがなかったら、社会生活を営みながら対面式ワークショップと Web. WORKSHOP を連続して受けることは無理だったと思うし、「TAT セッション」に向き合うことはできなかったと思います。
[5]
もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを 受けていたら、どんな風であったか、想像して教えてください。
おそらく、そもそもの問題にたどり着けず、心が軽くなった分、家族に尽くしたり、ほかの対象を見つけて尽くしてぼろぼろになっていたかもしれません。
恋愛に関しても、次はうまくいく!! ってテンション高くなって、しかし現実には行動に移せずに終わっていたかもしれません。
[6]
ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?
具体的に振り返ってみてください。
私の場合は、WORKSHOP なしでは「TAT セッション」は成立しなかったと思います。
そもそも何が問題なのか? を探すことが私にとって一番大変でした。
対面式ワークショップでがつんと感情に働きかけて、Web. WORKSHOP を繰り返す中で、自分の過去と向き合って、掘り返して根っこを探すことができました。
また、現実を整えることができました。
[7]
TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。
問題は問題として在るのだけど、私の捉え方は変わったと思います。
特に親に対して、こんなに突き放して考えることができているのは、今までにない気がします。
清々しく、さっぱりと感じると同時に、怖さも感じています。
もう、言い訳はできません。
過去のせいにもできません。
過去に何があったとしても、今、問題なのは、「今、ここ」の私が、何をどう感じて何をしていくかだと思っています。
変なたとえですが、泥だらけで汚くてウジがわいている人形を取り上げられた子どもの気分です。
多分、それだけ、過去をずっと持ち続けていたのだと思います。
[8]
これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方に、メッセージをお願いします。
読んでくれてありがとう。
人生は、変えたいと思ったら変化します。
ゆっくりかもしれません。でも絶対です。
嘘だと思ったら、『手帳術』の本を読んでみてください。その通りにしてみてください。
本当に人生は動きます。
苦しいことや悲しいことが、たくさんあったのかもしれません。
今も、泣いているのかもしれません。
一人ぼっちかもしれません。
大丈夫、一人じゃありません。
少なくとも、ここの場所には、あなたの味方がたくさんいます。
ここじゃなくても、たくさんいます。
痛みはいつか必ず癒されるし、あなたがいらない荷物を持ち続ける必要なんてないんです。
あなたの幸せを祈っています。
[9]
最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
お疲れさま、私。
ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう。
よく決心してくれたね。
発達障害のことを聞いて、「とても自分に厳しくて完璧であらねばならない」自分に気づいたね。
私は、今の私のままでいいのかもしれないね。
2、3日前に、職場の人たちが、
「自分は変って人からよく言われる。何考えてるんかわからんって。」
「自分なんて、人に興味あるのかって言われたことある。」
って話しているのを聞いて、妙に安心していたね。
自分だけじゃないんだって思って。
その人たちは、あくまで私から見てだけど、楽に生きてる気がする。少なくとも私みたいに悩んでない。
私は悩んでる。なら、紐解いていったほうがいいね。
発達障害についてネットで調べて当事者のエッセイを読み、すでにおなかいっぱいになりつつある。
そんな中、形を取りつつある思いは、「自分を知ること」。
その延長線上に、発達障害のこと(知識、諸検査、脳画像)があるなら、それは、やっぱり、やってみようと思う。
と同時に、ベースは、やっぱり変わらないと思う。
境界線を守る。
ドライバーに気をつける。
自分の生活を守り、楽しむ。
こんな風に考えることは藤沢さんの意図とは違うかもしれない。
あの日お会いした藤沢さんの態度、表情、言葉、すべてが全身全霊のメッセージだと感じた。
だけど、私は、やはり何かを落としているのかもしれない。発達障害ゆえに。
それは、私にはどうしようもないことだ。
小さな違和感があれば、それを私は大切にしよう。
わからない部分にばかり焦点を当てるのはやめよう。
私が理解できる方法で、理解していこう。
ここまで生きてくれてありがとう。
これからも、私は、私と一緒に生きていこう。
明日は私の誕生日。これからも、ずっと、私は私の誕生日を一番に祝います。
ハッピーバースデー!
A. N. さん(30代/千葉県よりご参加) すのーふれーくクラス
[1]
あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?
小学校の時のいじめがきっかけで、現在も学生を見ると怖いので困っているという主訴です。
[2]
どんな環境、どんな過去を持っていますか? どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
子沢山の家庭の長女として生まれ、父はギャンブル好きで、両親はお金のことでいつも喧嘩している機能不全の家族で育ちました。
母方の親族は陰口は叩いても手は貸さない陰湿な人ばかりで、母も家事の指示ばかりで子どもとして扱ってはくれず、後に私は体調を大きく崩すことになります。
小学生の時、数人の男子に取り囲まれて、刃物で顔を切られそうになりました。
男子にはいじめられたことはあっても親切にして貰った記憶は一切ありません。
家庭にも、学校にも味方がいない状態で生き延びるのは大変でした。
[3]
ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、 過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?
最初に「身体のワークショップ」で自分との関係を取り戻し、ワークショップ・クラスを数回受けるうちにチェアワークや『未来日記』を活用する習慣が出来てきました。
時間が経過していくうちに自然と、ぐるぐる思考の渦中から一呼吸置けるように変わっていきました。
その他に、険悪だった母や母方の親族とも、今は適度な距離を保ち、普通に会話を楽しめるのですから驚きです。
[4]
TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?
まず、ワークショップ・クラス合計4時間、「今、ここ」に集中する訓練は必要です。
「他人も自分も裁かない」ことにも、ある程度慣れていないと、雑念だらけで時間を無駄にしてしまう恐れがあります。
[5]
もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを 受けていたら、どんな風であったか、想像して教えてください。
訳が分からないまま時間を過ごし、家に帰ることになるのではないでしょうか。
自分の人生に対して、今ほど真剣にはなれなかったのではないかと思います。
[6]
ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?
具体的に振り返ってみてください。
「TAT セッション」を受ける時に、事前インタビューで主訴をまとめることが必要になります。
その時に必要なのが『未来日記』に過去のトラウマを書き出すことなのですが、自分と仲直り出来てないと、『未来日記』に正直な思いを書くことが出来ません。
そして仲直りはワークショップ・クラスで正確な知識と再訓練を経て、回復の為に時間をかけないと独力では難しいと思います。
ワークショップ・クラスに参加するのも大事ですが、焦らないことはもっと大事です。
社会的な時間と回復にかかる時間は、根本的に流れが違うことを知って、自分を裁かない姿勢を整える、ワークショップ・クラスはそういう学びの場だったように思います。
後、「TAT セッション」を受けるための条件としては計算に入らないようですが、「インナーチャイルド・ワークショップ(前期日程/後期日程)」を受けたことは、自分の過去を見つめなおすという意味で、私にとって(「TAT セッション」を受ける際に)重要だったと感じています。
[7]
TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。
すみません、まだあまり実感がありません。
ですが、頭の中が整理されて、物事に取り組むのが少し楽になったと思います。
今までは最低限の外出しかしたくなかったのですが、「TAT セッション」を受けてから、社会と関わる事に、少し意欲が湧いてきたようにも思います。
[8]
これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方に、メッセージをお願いします。
私が感じたことですが、「TAT セッション」を受けるためにはある程度、ワークショップ・クラスに取り組む時間が必要です。
私は準備に2年半程要しましたが、じっくり時間を掛けて自分と向き合い、自分自身と時の流れを味方につけることが回復の道のりへ繋げてくれたと思います。
「TAT セッション」を受けることはあくまでも回復の手段ですので、目的へとすりかわってしまわないようお気をつけください。
大事なのは、「TAT セッション」を受ける前も、受けた後も人生の道は繋がっていて、それを歩くのは自分自身だという自覚を強く持つことです。
微力ながら応援しています。
[9]
最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
酷い環境に生まれたと何度思ったか分からないくらい、つらい思いばかりしてきたね。
信じられる人自体が居なかったから、私も私のことを大事に出来なかった。ごめんね。
今までも、これからも、ずっと歩いていく覚悟がなかった。
今にも息が切れそうになっていた時、本当は私の中の私が傷ついていたんだね。
守ってあげられなくてごめん。
でも、今、側に私がいてくれると感じられるから、私はとても落ち着いて生活出来てるよ。
ありがとう。
これからも一緒に歩いて貰えるよう、少しずつ回復の為に出来ることをするね。
だから、どうか見守っていてね。
H. E. さん(30代/愛知県よりご参加) すのーふれーくクラス
[1]
あなたの問題は、そもそも、どんな主訴でしたか?
「そもそも」の主訴は…。
毎日とにかく苦しくてたまらないので何とかしたい、でした。
ここに居ることが、ここで生きていることが、私が私であることが、とにかく辛くて苦しくてしんどくてたまらなくて、いっそ潰れたいのに潰れることもできなくて、毎日毎日毎日毎日毎日とにかく流れていく時間が本当に辛くて苦しくて、ほんとうに何でもいいから何とかしたかったです。
私の考え行動やることなすことぜんぶ信用できない、信用ならない、なにもかも間違っている。
私が私であることは周りの人に迷惑をかけてしまう。
私の存在してること=取り返しのつかない重大な罪。
そういう感覚でグルグルになっていて逃れられなくて、人間であることもやめられるならやめたかったです。
でもどこからどう見ても私は人間の形をしていたし、それは無理な話だ…と思って、じゃあとにかく何でもいいからこの現状を何とかしたい、が私の主訴でした。
もう少し深いところでは、お願いだから、誰でもいいから、私を許してほしい、と思っていました。
(外側に私の存在を許してくれる何かを求めていました。今もつい気がつくと求めてますが…。)
でも神さまもいないし、他の誰かに私を許してもらおうなんて奇跡みたいなことは、結局私にはおこらないこと、それでも、命があってこの世界を生きなきゃいけないのなら、私は私の人生を生きたい、他に選択肢が思いつかないと思いました。
このまま私を生きないで過ごして、いま死ぬその瞬間に、すべてに完全に明らかに気がついて目が覚めるような気持ちと絶望を同時に味わうなんて私はぜったいに嫌だ。
私は全力で自分に正直にありたい、そうやって生きたい、「いい人生だった。最高。」って思える人生を歩きたい。
それをかなえるためなら、何でもいいから、何とかしたいと思っていました。
当時は、私という存在そのものに問題があるのだと思っていたし、自分のしている仕事が理想どおりでないことが問題なのだとも思っていました。
(そんな問題意識を抱えて ONSA WORKSHOP のドアーをノックしたのが3年前、2011年秋でした。)
[2]
どんな環境、どんな過去を持っていますか? どんな痛みの体験が影響して、そのような主訴を持つようになったのでしょう。
どんな痛みの体験が影響して、[1]のような主訴を持つようになったかというと、「機能不全家族」の中で育ったからです。
子供が健全に育っていくのに必要だとされていることが、欠落した場で育ったことです。
父も母も自分のことで精一杯で、目の前にいる「こども」を「ひとりの人間」として認識できる人たちではなかった、ということだと私は思っています。
私が生まれたとき、母はとても若かったです。
どれくらい若かったかというと、赤ちゃんが「泣くいきもの」だということを知らなかったそうです。
生後3ヶ月で「クセになるといけない」という父の指示をそのまま受けて、泣き止むまで赤ちゃんだった私は放っておかれていたのだそうです。
それから、1歳半のときに弟が生まれて、たびたび彼には手術が必要で、そのたびに私は母の実家に預けられていたそうです。
父はワーカホリック(仕事依存症)で、家族や妻の存在ごと否認するような傾向がありました。
母は共依存で外側にむけた様々な怒りを抱えていて、緊迫しているか、沸点を超えて爆発しているかのどちらかでした。
特出して、「この痛みの体験」という体験がひとつあるわけではないです。
長く継続して、そういう家族の中(環境)に生まれて育ったことで(過去)、私はいつも母の機嫌をはじめとする「外側の状態」がどうあるかについて、そして「外側からどんな反応が飛んでくるか」について怯えて恐怖していました。
毎日、朝から「早く! 早くしなさい!」と私を追い立ててくる母のことが怖かった。
毎日、母から「早くできない自分」を、追い立てられて責められることが、辛くて苦しかった。
それから、集団登校で家の前で待っている近所の子たちに、母が「ごめんね、うちの子ほんと遅くて」と言うのを聞いて、母の言うとおりに「早くできない自分」を恥じました。
包丁をドンドン鳴らして、モノを雑に扱って床に落として、お皿をガチャガチャいわせて、「ああめんどくさい」と怒ってる母の気配をききながら、となりの部屋で食事ができるのを待つ時間。
最初から、文句をいうことも残すことも許さないわよ! というムードの食卓。
何とか楽しい話をしてこの場を和ませなければという、駆り立てられるような、私とは違う私がいるような感覚。
洗濯物をたたむ母の横で、テレビを見ていて「あんたたちはいいわよね!」と言われても、返す言葉も思いつけず、申し訳ないような、居たたまれないような、何ともいえない気持ち。
そっと席をたって逃げると、後ろから何か怒り叫ぶ母の声。
何か家具にあたるような音。
モノを片付けられない私に、家のなかはゴミ箱じゃないのよ! と叫ばれても、小さかった私はどうすればいいのか分からなくて、フテくされるか、へらへら笑うかしかできなかったこと。
続きが気になる漫画を買いたくて、キッチンにおいてある小銭入れからちょっとずつ小銭を抜いたり、買い物のおつりをくすねたり、悪いことをしていると思いながらも、コソコソと画策することが止められなかったこと。
私が怒ることは許されなくて、私が怒ったりしようものなら、逃げても追いかけられて倍返しだったこと。
不満を伝えると「じゃあ好きにしなさい、勝手にすればいいでしょ!」と言われて、いうことを聞けない私は見放されて捨てられたこと。
小4で部活中にお漏らしをして、その後ずっとトイレの心配をしながら生きることになって、人生を諦めなければいけないと思い詰めたとき、この世界には、私を助けてくれる人はどこにも居ないんだと思い知ったこと。
中1のときに、授業で親から手紙をもらうという授業で、母が「こんなものよう書かんわ」といって父に押し付けたこと。
父の書いた手紙には「自分のことばかり考えず、人のために生きろ」というようなことが確か書いてあって、いったい私ってなんなの? 何のために生きてるんだろうと絶望したい気持ちになったこと。
私は本当に誰にも、親にさえ大切にされていない、本当に私は愛されていないんだって号泣したかった。
でもその場は教室で、感動して小さく泣いている友達もいるなかで、比較して自分の存在があんまりにも惨めで、平気なフリをして耐えることしかできなかったこと。
みんなが頑張る部活の音を聞きながら、だらだらと歩いて帰りながら、遠く向こうの空に赤く広く沈む夕日をぼんやり眺めながら、どこか遠いところに行きたくて行ってしまいたくて仕方なかったこと。
母の機嫌が悪いときは、常に心臓をわし掴みされているような心地で、家の中に過ごしていました。
母の機嫌が落ち着いているときは、なんとかこの状態をキープしようと状況をコントロールすることに必死でした。
息のつまるような学校のなかでは、毎日トイレの心配をして憂鬱を抱えながらも、憂鬱を前面に出していては学校ではやっていけないので、平気なフリをして過ごしていました。
安全である感覚や、安心感は完全に欠如していました。
自分がこの世界で唯一の大切な存在であるということは、いつか気がつくと、もはや思いもよらないことでした。
そもそも母が痛みでいっぱいな状態で、外では平気なフリを重ねていて、それが家の中で溢れている状態でした。
そのために娘の私は、外でも、家でも(「私(母)の方が痛いのよ!」となる)、痛いことが許されなくて、平気なフリの内側は、今思えば放置された痛みでグジグジな状態でした。
そういう状態だったので、ほんのちょっとしたことも痛くて、痛みの体験に繋がっていて、日々を何とか生きて耐えることで精いっぱい。
本当に「何かがあった」わけではなくて、大学進学までの18年、そういう毎日の時間を、毎日毎日毎日この身体で「体験」していた痛み。
それが影響して[1]のような主訴を持つようになりました。
[3]
ONSA WORKSHOP および TAT セッションで、その過去(正確には、 過去に対する考えや意見、痛みの感覚やぐるぐる思考など)がどんな風に変わってゆきましたか?
時計を見るだけでも、母に時間を追い立てられていた過去と結びついて苦痛だった私ですが、ONSA WORKSHOP(対面式)と、ONSA Web. WORKSHOP を組み合わせて取り組むことでスケジュールを何とか整理して、自分なりに時間を確保できるようになりました。
ONSA WORKSHOP に自分に出来る分ずつしっかり取り組んで、しっかり心理教育を受けることで(=正しい知識を得ることで)、過去に対して、今できる分ずつ、正しく歪めず客観的に把握しようという態度でいられるようになったと思います。
「灯台の時間」、チェアワークととにかく続けることで、過去に結びつくような出来事に遭っても、必要があって過去に向き合ったときにも、巻き込まれすぎず「切る」⇒「今に戻る」の流れを当たり前のことにしてしまえて、さらにその積み重ね+チェアワークを含むボディワーク+呼吸の練習で、「過去」は「過去」として扱えるようになってきていると思います。
「過去の影響」が「今」に出てくるということは「何とかして~」(=何とかできるようになったよ~)というサイン! と前向きに捉えることができることも、何も知らなかった頃に比べて変わったことです。
「TAT セッション」では、漠然とでも根強くあった「怖い」(=「私は迷惑な存在」だったと思っている)という感覚が、少しずつ軽くなってゆきました。
今は体感は1くらいな感覚まで下がりました。(10が最大として。)
[4]
TAT セッションを受けるには、どんな前提条件が必要だと思いますか?
4つの約束を守れることは、まず当然たいせつなこと。
それから、外の世界はともかくとして、この場が安全で安心していい場所だ、私は大丈夫だ、という体感をもってその場にいられることも必要な前提条件だと感じました。
[5]
もし自分が ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま TAT セッションを 受けていたら、どんな風であったか、想像して教えてください。
私は、そもそも私に問題があることを否認していて何も知らない状態だったので、ただただワケが分からず困惑して終わったと思います。
それでも「TAT セッション」がうっかりかかってしまって、ある程度、問題が解消してしまったとしたら、すごい! この世に魔法があったの?! と喜んで盲信してすがったんじゃないかと想像します。
私の場合は ONSA WORKSHOP で訓練をしないまま…というのは本当に話にならない状態でした…。
[6]
ONSA WORKSHOP は、TAT セッションを受けるにあたり、あなたにとってどんな風に役立ちましたか?
具体的に振り返ってみてください。
傷の大小ではない、痛みの深い浅いでもない。
誰と比べるでもなく、私が辛ければ、私にとって世界でたった一人の私のために、私は私を癒やすことに取り組んでいい、と思えるようになれました。
そう思えるようにならなかったら、「TAT セッション」は、そもそも私には縁の無いものでした。
心をひらいて、「今」この場に集中する練習は、とくに役立ったと思います。
すーっと入れる感覚を身体でしっかり記憶していることで、その場に集中するのも、とてもスムーズだった感覚があります。
それから自分に問題があることを知って、自分の問題を知っていくことも、ONSA WORKSHOP 無しでは、私にとっては思いも寄らない方向だったので、本当に私1人では辿りつけないプロセスでした。
[7]
TAT セッションを受けてみた後、1)と2)で書いた問題は、どのように変化しましたか? そしてその変化は、あなたにとって、どんな風に感じた出来事だったでしょう。
あなたの言葉で教えてください。
根強く私は「(過去に向かって)ちくしょー!!!」と思っていたのですが、それが「…あれ?」という感じで、今のところ感じなくなりました。
ぐるんぐるんに凝り固まって恐怖していた「迷惑をかけること」(=がっつり過去と結びついていた)について、迷惑をかけること自体には、良いも悪いもないのだと腑に落ちて、「迷惑」に貼り付いていた観念がほどけました。
それから、自分がこの世界で迷惑な存在であることが辛くて、過去から「わたしなんかしねばいい」と思っていた私が、私の中の深いところに落ちっぱなしになっていたことにも気がつけました。
そうではなくて、その痛みに居続けるのではなくて、「わたしは私を生きていいし、今すぐそうしよう」、そして痛みは痛みでまだ少し残っているのですが無理に切り離すのではなくて、自然にそう思える感じです。
(痛みの感覚については今も躊躇がある気がするのですが…、落ち着く術はもう知っているので、合理化したり、グレー時間に陥っていることに気がつけたら、引き続き、ひとつずつ安全第一で向き合っていきます。)
クレンジングリアクションはどどーっとありつつ、ゆるやかに「ちゃんと効いてる」感じです。
2週間たつけれど、クレンジングリアクションもまだ続いている感覚があります。
[8]
これから ONSA WORKSHOP ならびに TAT セッションを受け、みずからのトラウマに向き合ってゆく方に、メッセージをお願いします。
まず一歩を踏み出せば、そこから道は続いていくよってお伝えしたいです。
私が一歩踏み出したときは、私の前に「私のことだけに集中していいと言ってくれる、そして私がそれを信じることができると感じられる場所が、この世界にある」っていう道が開けました。
そんな場所がこの世界にあるなんて、私は思いも寄らなかったのだけれど、一歩踏み出したら、ありました。
あんまり痛かったら一歩の力も出ないかもしれないけど…「あなたが感じることが、あなたにとって本当のこと」と言ってくれる場所があることも、私は、ONSA WORKSHOPで 初めて知りました。
痛かったら「痛い」って言っていいってことも、辛かったら「辛い」って言っていいってことも、私はここで初めて知りました。
特段「何かがあった」わけではなくても、辛くて苦しかったら、それは癒やされていいことなんだよってことも、私はここで知りました。
それから、トラウマはちゃんと回復できることも学びました。
少し時間はかかるけれど、しっかりしっかり準備をして臨めば(何にも難しいことじゃなくて、時々焦ってしまって難しくなることもあるけれど…、自分のペースを許しながら、しんどいときは休みながら、ひとつのことに、ひとつずつ取り組む、これを続けるだけでした、私もこれからもそうしていきたいし、そうしていきます)、安全に過去とつながる感覚を切り離せるんだって、今回身を以って知りました。
私みたいに、個別具体的なコレという何かがあったわけではなくて、これはトラウマと言えるのかしら…という状態の人でも、ちゃんと効いています。
なので、痛みのあまり、自分の人生をあきらめそうになっている方がいらしたら、本当に、まずひとつ、一歩できますように。
私も自分のことでまだ精一杯なのですが、それでも、あなたの道の安全を、こころからお祈りします。
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最後に、ここまで歩いてきた自分自身に、メッセージをお願いします。
わたし、たった3年、でもながーーーい3年。
2011年から手帳を見返していて、よく、よく、本当によく、歩いてきたなって思ったよ。
特別だけど、特別でない、世界でたったひとりの私にとっての私。
「TAT セッション」のおかげで、過去を整理する作業がうんとやりやすくなったよね。
受けられて本当によかったね。
同時に、今ここにいる私の「共依存状態」がよりクリアになっていると感じる現実のシーンもいくつかありました。
ステップ1から、初心にかえって、慎重に慎重にいこうと思います。
そして、この回復のみち、本当に一歩一歩、今日のこの1日を、楽しんでいこうね。
“外側は楽しむためにある”って言葉がようやく腑に落ちた気がする。
この外側の世界は、きっと楽しむためにあるんだよ。
それなら、丁寧に、存分に、楽しもう。
回復って一生続くプロセス。
3年どころではなく長いのです。
だから、回復に取り組んでいる1日1日を、一瞬一瞬を楽しむことが、私の今の目標です。
数じゃないんだけど、私の回復年表によれば、ONSA にお世話になるのは「TAT セッション」で19回目です。
カウンセリングもあるし、ヨガも通ってるし、総額いくらかかってんだろう。
でも全然高くない、むしろありがたくて、回復って何とも変えがたい価値のある重要なことです、私にとって。
その重要なことを、諦めずに、そんな気みじんもなく、歩いてきてくれた私に。
本当にありがとう。
私は素晴らしいです。
どんな私も、いつも、何の条件もなく素晴らしいと思う。
そして過去にも素晴らしかったと思う。
人を傷つけてしまったり、間違えたり、うっかりしていたり、短慮で軽率だったり、モノを知らず恥ずかしい思いをしたり、そんなこといっぱいあったけど、それでもそれは私の存在とは何の関係もないことだった。
迷惑をかけたかもしれない、責められたこともあったかもしれない、とばっちりも、犬にかまれるような不運なことも、いっぱいあったけど、それも、私の存在とは何の関係もないこと。
そんなことは、まったく私の本質や存在とは関係がない、何も揺るがない。
しょっちゅう揺らいでいるようにまだ感じるけれど、本当は揺らいですらいないんだよ。
何ができても、できなくても、私は私。
今ここに存在している私。
私が私である、それだけで素晴らしいことだって思います。
「TAT セッション」は、ゴールでもスタートでもなんでもなくて、回復のいちプロセスだと思ってたけど、ひとつの区切りにできたらよいなと思い直しました。
私はまたひとりになることをとても恐れていたけれど、もう一歩、勇気を出そうって思いました。
私はますます私に集中して、私のことを知ることに時間をつかいたい。
その時間を、1日1日を楽しみながら、一瞬一瞬を味わいなら、歩きたいのです。
この冬は、ますます深く一緒にいられますように。
ついほかの人とも仲良くしたいと思う私は、書きながらも胸がチクチクと痛むのだけど、この冬はそうではなく、ますます深く私と一緒にいられますように。
大切な私に集中していられますように。