N. G. さん(30代/群馬県よりご参加) じゃびえれクラス
皆様お疲れさまでした。
納得のいくことばかりでした。
あきらめない。これが一番大事なんだと改めて思いました。
今回はたくさんお仲間さんがいました。
みんなそれぞれ悩んでいる。
私は一人だけど一人じゃない。
みんなそれぞれ幸せになっていいんだと思いました。
自分が受け身で動いていたことも分かりました。
なんとかできるのは自分しかいない。
自分から動かなければ解決しない。
自分なりに考えた解決法にアタックしてみる。してみた。
どうなるか分からないけど、でも自分で考えてみた最短コース。
他の誰でもない、自分が一生懸命考えた解決法。
間に合わなくても、それでも、解決に動いてほしい。
私の望む人生を作ってほしい。
周りに悪者扱いされても、それでも。
覚悟が決まっていなくても、それでも動いてほしい。
今回は、今一度自分の気持ちを確かめる会となりました。
ありがとうございました。
皆様が思い思いの幸せを叶えられますように。
S. M. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) じゃびえれクラス
あれからまだ数日しか経ってないのが不思議な今。
それほどボリュームがありました。
ギュッと濃縮した厳選されたものを吟味して並べられたコースを食した感じ。
会場から戻る。それは「現実」に戻る、というよりは、わたしにとったら「竜宮城」へ戻るような感じがしました。
あー、相変わらずの誘惑がたくさんだなあ、って。それと踊らないように、あるいは、その一見甘そうなコースを食べないように、しっかり厳選コースの味を思い出す。
それほど、あの場は「現実的で実践的」でした。
納得と同時に、まさに「自分自身との関係」を思い知り続けています。
その原点に一度戻れたのが、今回大きかった。
原点、って大事やなあって。いや、正直、「また~っ?!」ってがっかりもしました。
こんなに進んできたのに(って今なら傲慢だと思いますが)またですか?! って。
もうやるせないわ、情けないやら。
でもね、ほんとうに、ほんとうに、戻ってきてよかった、って思うの。それに、ここまでの歩みがなかったら、今回のことはチンプンカンプンだったろうな。
今、堰を切ったように、いろんな思いがきています。
もう大洪水。
さっきのほんとはここで怒ってたんだ! とか、ほんとはここで辛かったんだ、ガッカリしたんだ、失望したんだとか。そもそも怒っていいとこやんか! とか。
今まで見えてなかった柵が突破られた感じ。
今回のテーマは自分からやろうと受けた出発ではなかったのと(だからといって受け身で行ったわけじゃないですよ!)、人間関係なんていうめっちゃ賢そうな堅いテーマなんだから、泣くわけなかろうと思ってましたが、あかん、今、すっごいきた、ってなったところが、ライフサークルを書いてるとき、でした。
もう今思い出しても涙出る。
こんなに、こんなに大切なものを、置き去りにして、奪われ(一番煮えたぎるわ)、まさに手もつけさせてもらえず、あるいは遠慮するように想ったり(お母さんあなたに酷いことをした、って優月さんの声もまた聞こえる)、こんだけ毎年書いてるにもかかわらず、これがどうしても気づくと薄れているわたし。
「べき」や「ねば」が優先しちゃう(というところがまたもう一歩深く機能不全の原因と結びつき)。
それがあなたの仕事なんです、が、もう優しく重厚感を持ってやってきて。
書いてるときに感じた、周りのお仲間さんたちの真剣な様子にも、もう勝手に泣きそうになって(だって、みんなそれぞれ大事なものがあるんだーって、なんかよくわからん理由やけど)。
偶然か、その数日前に
「手帳を開くとき、ライフサークル・ワクワクリストを見ないで、いきなし『まいにちリスト』にいってるから、じゃないかな」
と気づき、
「『まいにちリスト』に行く前に、ライフサークルへまず行くこと」
と書いたところでした。
気づいたときに書くのがワクワクリストやライフサークルだと思ってたけど、わたしにとったら、これは必須課題だ、ってそう感じたこと。
もひとつ、偶然か赤毛のアンの言葉を数日前に思い出して書いてたとこ。
「明日がまだ何も失敗してない新しい日だと思うとうれしくない?」
そして、優月さんのアドバイス、今ここ、今ここ、過去のもので汚さないように。
人間関係のテーマ、堅くなかったです。
今思うととっても柔らかくて優しいテーマでした。
そして、とても現実的なテーマでした。世界の現実、日本の現実。
これからもまた一つ一つ、やっていこう。
自分がほんとに特殊な環境にいたのだと、今までより深くわかりました。
わかっただけならいいんだけど、それに伴ってやってくるものが今はしんどいです。
それでも、「知らなくてよかったことは何一つない」し、今曖昧なことも、もっとよりよくなるために知っていきたい。
じゃあ、これからもまた、進んでいこう。
お仲間さんも今日も歩んでいるんだと思うと、わたしも歩くぞって元気が出てきます。
ありがとうございました。
Y. S. さん(40代以上/長野県よりご参加) じゃびえれクラス
私は、「冬の大勉強 & 大準備会」に参加して、気づいたことが沢山あった。
今の私の生きづらさには、原因があったこと。私は病んだ人間関係の中で生きてきたこと。
そしてそこから回復は可能だということ。
私は、「冬の大勉強 & 大準備会」の翌日、熱を出した。
そこで明らかになった内容は、重かった。
病んだ状況を見ていくというのは、骨が折れる。
以前の私には、それを見たくないという気持ちもあったのだと思う。
でも見ることにした。私は回復したいから。健康に生きていきたいから。
病んだパターンを見つめないと、それを手放すことができないから。
私はそれを手放したいから。
健康に生きる人の権利と義務を知って、びっくりした。衝撃だった。
権利ってそんなに多いの!? そして義務ってそんなに少ないの!?
これまでの私には、義務がとても多かった。とても背負いきれないくらい。
当たり前だ。
それを背負わせた家族達は、そもそもそれが一人の人間に背負いきれるかどうかもわかっていなかったのだから(わかっていたらそもそも背負わせていない)。
重荷だった。家族の面倒もみるのも、彼らの出来ないことを私が代わって引き受けるのも。
そしてお世話した挙句、依存され、暴言を吐かれたり、暴力を振るわれたりする。
そういう、相手にとって都合の良い関係が成り立っていた。
そしてその関係を成り立たせていたのは、望まないことだったとはいえ、私の在り方だった。
共依存という生き方。
本当に恐ろしく、これを続けていては決して幸せにはなれないと改めて思った。
気がつけてよかった。
そして、私がこれまでやってきたこと、今も続けてしまう傾向があることと、自分の望む生き方とのあまりの噛み合わなさに、笑ってしまった。
コントを見ているようだった。
何これ? 悪い冗談みたいだった。
幸せな生き方が出来なくて、当たり前だった。
だって、そういう生き方をしていなかったのだから。
人のお世話ばかりしていた。人を依存させていた。そして、自分の望む生き方が出来ていないどころか、心から望むことが何なのかもわからなかった。
私に依存してきた人達からは本当に都合の良い存在だったと思う。
そういったことに気づいて、本当に、酔いから覚めていく感じがした。
私は悪酔いをしていた。
酔っていることにさえ気づいていなかった。
その一方で、私は嬉しかった。共依存から回復する方法はあるということが、実感を伴ってわかってきた。
そして、ONSA のワークショップにこれまで参加してきて、しんどく感じることも沢山あったが、ここまで辿り着けて本当に良かったと思った。
回復への希望が、確かなものとして感じられた。
苦しい時に、その苦しさから解放されるために何をしたらわからない時期が、一番辛かった。
今は、取り組むのは決して楽ではないけれど、回復のための方法はちゃんとあり、私は日々取り組むことが出来ている。
そして、経験が少しづつ積み上がっている気がする。
以前の私は、何をやっても経験が積み重ならない気がしていた。
それも当たり前だった。
自分の行動を自分の意志で決めることができていなかったし(誰かの行動や言動に反応し、それに対応していた。そして、「やった方がいいこと」「やるべきだと思われること」をやっていた)、そうやってとった行動に、本当の意味で自分で責任をとってこなかった。
自分で決めて自分で行動して、その責任を自分で取ることで、経験が積み上がり、成長していけるのだと思った。
私は、今回の「冬の大勉強 & 大準備会」に参加して、謎が解けていくような感じがした。
そして、明らかになった結果、手放さなければならないものも沢山明らかになった。
手放すには痛みが伴うこともある。
その一方で、健康的な生き方も、回復していく方法があるという希望も、明らかになった。
光が射してきた感じがしている。
私は、これからも学び、謎を明らかにしていき、私が本当に健康に生きていくために行動していこうと思う。
「冬の大勉強 & 大準備会」に参加できて、本当に良かった。
最後に、藤沢様、ONSA スタッフの皆様、お仲間さんの皆様、ありがとうございました。
お仲間さん達の、重いテーマに果敢に挑んでいく姿に、私は勇気をもらいました。
ご縁に感謝です。
M. T. さん(40代以上/岐阜県よりご参加) じゃびえれクラス
わたしへ
お疲れさまでした。
まだまだ整理できず、落ち着かないけれど、時間をかけて大丈夫だからね。
ゆっくりでいいから進んで行きましょう。
ワークショップ・クラスから1週間が過ぎました。
もっと前のことのように感じます。
今回も色々なことを学び、衝撃を受けた気がします。
私は回復の道を歩いてきましたが、ちょっと方向がずれていたことに今回気づけたことはとても大きかったと思います。
私は「人間関係」に悩んでいました。
境界線を引く練習をしたり、自分の意見をいう練習をしたりしていました。
でも、その練習をしていた場所は「逆風の環境」だったのだと気づきました。
練習をしていたはずが、いつのまにか自分を守ることに必死になっていました。
巻き込まれないようにしていたのに、巻き込まれてしたし、知らないうちに自分もその関係にこだわって巻き込まれにいっていたように思います。
だから、したいことをしているはずなのに、自分を守っているはずなのに虚しかった。
どうしてこんなに虚しくなるのかわからなかった。
ワークショップ・クラスに出て、その答えがわかりました。
ワークで自分たちがこだわっている人間関係、忘れられない、嫌な思いをした人間関係を書き出すことをしました。
このワークは以前にもした記憶がありました。
少し重いような、痛いような気持ちで書き出していました。
うまくいかなかった、痛い、悲しい思い出があるから。
そして、そのワークの後に言った藤沢さんの一言が衝撃でした。
「その人たちは自分の生きたいと思う人生、自分の夢に関係ある?」
(というような内容だったと思います)
「ん?」
オーバーな表現かもしれませんが、サーッと霧が晴れたような、目の前がくっきりしたというか、頭がすっきりしたような感覚がありました。
「関係ないやん」
そもそも、どう関わっていくかなんて考えなくてもいい人たちだ。
その人たちとうまくやっていく方法を一生懸命考えてたけど、関わらなくていいんだ。
それを考えてたから、逃れられないと思っていたから心が重かったんだ。
自分に関係ないことに一生懸命時間を割いていたんだ、だから虚しかったんだ、と気づくことができました。
すごく心が軽くなりました。
そして、自分がすることは
「自分の夢に関係ない人はほっておく」
「自分の未来を創る方にそのエネルギーを注ぐ」
ということ。
とても大切なことを学んだ気がしました。
自分がまだまだ共依存だということも痛いほど知らされました。
知らないうちに共依存の道の方に引き返していたことにも気づきました。
わかったときはびっくりしました。
そして、共依存の奥深さ、怖さを感じました。
また、改めて「自分にとっての夢」がとても大切なのだと思いました。
クラスでご一緒したみなさん、お疲れさまでした。
お会いできてうれしかったです。
「ひとりじゃないよ」を本当に実感します。
藤沢さん、今回も気づかないうちにすっ転んでいたことに気づかせてくれてありがとうございました。
共依存について、また違う理解を深めることが出来た気がします。
スタッフのみなさん、いつもありがとうございます。
今回も安心して参加することが出来ました。
「自分の未来を創る方にエネルギーを注いでいるか?」
を意識して、一歩ずつ、歩いていきたいと思います。
ありがとうございました。
S. H. さん(40代以上/東京都よりご参加) じゃびえれクラス
気が付くと、いつも義務を感じていました。
相手に合わせてしんどくなっていました。
本当にそんなことばかりだった。
そして、「うすい」「多様な」人間関係を築いていく、ということは私にとって目から鱗の発想でした。
20代の頃、友人達が深く考えず(そのように私には見えた)不安気もなく本当に楽しそうに結婚したり、留学したりしていくのも理解できました。
特に結婚は、正に家族と家族でするもの。
子どもをもって、金銭的にも、精神的にも助けてもらえるだなんて、なんだか割に合わないよな、とも正直思いました。
思えばそこがいつだって一番ネックだった。散々邪魔されていた兄を見ていたせいか、いざ結婚となると彼と両親の間を奔走する自分を想像しては、投げたくなった(実際、無理だと投げていた)。
でも結局それは自分の人生を自分が真剣に取り合っていなかったのだなぁと、今は思います。
というか、その時点でもうへとへとで、それ以上はキャパオーバーだった。
このコースを受講してから「灯台の時間」に書きだす内容が濃くなった気がします。
私が今まで思い込んでいた人間関係にあったたくさんの「べき」が180℃ひっくり返ったことが多々あったから。
気が付けばその「べき」が心の中心になってしまうけどくるっと軌道修正することが、今の私にとってはとってもとっても大切です。
完璧は、目指さない。
でも手は、抜かない。(←これ重要)
そしていつでもどこでも私が私の最大の味方でいる。
このことだけは、決して忘れないでいようと思います。
優月さん、「じゃびえれクラス」のみなさん。
ご一緒できてうれしいです。
またどこかでお会いできる日まで、一緒に努力しましょうね!
本当にありがとうございました。
Y. W. さん(30代/愛知県よりご参加) じゃびえれクラス
ワークショップ・クラスに参加して、私が一番に受けたショックは、私の、人との関係のありようだった。
ひとつは「私が搾取され続ける関係」。
これは自覚していたし、苦痛なのは明らか。
問題ではあるが、わかってはいた。
その一方で私が衝撃を受けたのは、私にとって残りの人間関係が私が「くれ、くれ」と相手にひたすら求める姿勢で関係を築いていたことだ。
そして、それ以外は「外野=特に付き合う価値なし」とまでおとしめていた。
…そんなことになっていたのか、私の人間関係は。
私はひどくショックを受け、クラスの翌日は寝込むばかりだった。
そして、それから1週間。
日常のあわただしさにのまれ、あっという間だった。
この PAY FORWARD にも、何を私は書きたいのかわからないままに、今日までに至った。
気の進まない心で、なんとか『未来日記』に書き出してゆく。
しばらく逡巡した果てで、私は「あ」と気づいた。
私が見つめるべきは、私との関係だ。
「人間関係」がテーマだっただけに、つい私は「他人」ばかりに目を向けてしまっていた。
でも、そうではないんだ。
私が目を向けるべきは、「私」。
私との関係がねじれたままだったり、無視したままでは、その上に結ぶものも、ねじれてしまう。
…ずっと、そのくり返しだったじゃないか。
私が、ずっと無視してきた私。
空虚や悲しさを埋めることなく放置して、その穴を、他人や何かで埋めようとしていた。
それが私に、かえって大きなむなしさや実らなさを生んでいたんだ。
他人は、私の代わりにはならない。
そんな当たり前のことが、私にはわからなくなっていたんだ。
クラス中、自分の人間関係をシートに書き出していたとき、私は、冒頭のショックを受けて、目の前が真っ暗になった。
…こんなところからの立て直しなの、私は…。
愕然とした。
どうしたらいいか、まったくわからなくて、途方に暮れた。
でもそのあと、ライフサークルを書いてからそのシートを見たら、全然、感触が違った。
見えるものが変わった。
私は、私の夢やしたいこと、それと関係ないところでの人間関係に、そこまで、引っ張られることはないのだ。
人生は、一度きり。
出会える人も、過ごせる時間も、可能性には限りはないが上限はあるだろう。
そう思ったら私は、私の心と通った人生を生き、その喜びや豊かさをわかち合える人と、一緒にいたい。
それでよかったんだ。
ただただ、やってくる人との関係に、すべてに、盲目的にベストを尽くさなくてもいい。
私には、過ごしたい人生、一緒にいたいと願う人が入る。
大切なのは、そこを起点にして、日々、私が選んでいくことだ。
ただ、与えられたものに流されるのではなく、自分で、決めて、選んで、生きていくことだ。
そのためにも、まずはやっぱり自分との関係。
大切に立て直していきたい。
優月さん、スタッフの皆さん、クラスでご一緒した皆さん
今回もありがとうございました!
H. S. さん(30代/大阪府よりご参加) じゃびえれクラス
「冬の大勉強 & 大準備会」、お疲れ様でした。
ONSA WORKSHOP(対面式)のワークショップを終えて一息ついたところで、意外にもぐったりして疲れている私自身に気づいて驚いています。
最近、私は「疲れていること」に気づかず、やりすぎてしまい、突然のガス欠で止まることがあるので、これから気をつけたいです。
また、疲れるほど頑張っている自分にも気づいて、認めたいです。
さて、今回の「冬の大勉強 & 大準備会」では、「知らなかったよぉ~」という悲鳴が止まりませんでした。
今まで、欠けていることを補い合える関係が最高の人間関係だと思っていましたが、そうではないことを私は知らなかったです。
「その補い合える人さえいればいい。他はいらない。」
「その人以外の人と交流することは裏切りだ。」
と考えていましたが、その考え自体が病んでいることを知りませんでした。
そして、私が知っていた補い合う人間関係以外の「健康な人間関係」があること自体知りませんでした。
また、私の人間関係に2つのパターンがあることにも気づきました。
ひとつは、最初、その人に出会ったときに優しくされて、心を許して(?)一緒にいると、知らぬ間に私が相手の愚痴を聞いたり、なんでもいうことを聞いたりして、相手のお世話をしてしまっているパターンである。
もうひとつは、私がかいがいしく面倒みているものの、途中で疲れて、嫌気がさして冷たく接して突き放すパターンである。
どちらのパターンでも、私は、私が相手の面倒をみることで、私の存在意義を見出し、相手に意識を向けることで私自身と向き合わないでいいという「利益」を得ていた。ただ、さびしさや苦しさは常にあって、疲れる人間関係だったため、長続きがしなかったのだと思う。
でも、しんどいのに、また同じパターンの人間関係を繰り返してしまう原因は、私がこの補い合う人間関係しか知らなったからだ、と気づけました。
だから、今回、私がその「健康な人間関係」を知らなかった、知りえなかった、という事実を知ることができて、「健康な人間関係」を知識として知れてよかったです。
Y. S. さん(40代以上/兵庫県よりご参加) じゃびえれクラス
今回のワークショップでも、自分と向き合うことの大切さ、自分はどうしたいのかが大事なんだと感じました。
ついその場の空気に流されてしまったり、昔の古いやり方で乗り切ろうとしたりしてしまうけれど、その行動を変えていかないといけないと思いました。無意識だったり、とっさの時にでてきてしまう古いやり方をやめて、自分のためになる新しい方法を身につけていきたいと思います。
ワークでした人生のビジョンを考えるのは、本当に楽しい気持ちになりました。
自分に集中していこうと思います。
エネルギーをかける方向を自分の未来をつくる方向に集中していこうと思います。ついしてしまう他人のお世話をすることをやめていこうと思います。
自分はどうしたいか、この問いに答えを出していくのが、すべての基礎になると感じました。
これからも自分と向き合う習慣を続けて、自分との関係をよいものにしていこうと思います。
藤沢さん、ONSA のスタッフの方々、ご一緒したクラスのみなさん、ありがとうございました。
T. S. さん(40代以上/長野県よりご参加) じゃびえれクラス
人間関係、1年前初めてこのワークショップを受けて、1年かけて取り組んできたつもりだけれど、プレワークに向かいながら思ったことは、やっぱり辛いな…ということだった。
私の型どってきた人間関係が原家族の生き写しであること、細胞レベルで感じてしまうこと、自動的に行動してしまうこと、それに気付いていてもやめられないこと。
そして自分を確かめることに膨大な時間を必要とすること。
新しい行動をするのに、罪悪感を振り払うのに、自己肯定と勇気を総動員すること。
そんなことに気づき、自分が情けなく、いたたまれない気分になった。
ワークショップ・クラス当日、共依存の人間関係と本当の人間関係を聞いて、また、結婚や個人の権利と義務、いろんなことを知識として確かめた。
そのなかで、自分が極端に思い込んでいたことを知ってびっくりもしたし、本当の人間関係の感覚が私にはまだわからないことも実感した。
そういう自分を認めることができなくて、そして何か正しいやり方を探そうとする。それ自体が、依存だと気付かないままに。
形を守ること、義務に縛られることをこれほど嫌いながら、そこに依って立とうとする自分を感じた。
そして今回も機能不全家族にあったであろう、育ちの話を聞いた。今まで参加した数々のワークショップでも聞いてきたけれど、その度に重く辛い気持ちになった。
でも今回ははっきりと、自分の家族で起こっていたことが理解できたし、自分の両親についての特性も理解できた。
そうすると、今回は不思議とスッキリとした気持ちになった。
彼らには、健全な人間関係を持ち、本当の自立を果たして子供を育てるということが本当に不可能だったのだろう。
彼らは確かに助けを必要としていて、そのために子供を操作し代替した。
でもそれは子供の権利を侵害する重い行為だった。
それすら気付かず、彼らも私も今まで生きてきたのだろう。
こういうものが家族だと信じ切って。
しかし、私にはもう両親を助ける必要はない。
いや、子供の頃からなかった。
でもそれに気付けぬよう、そうしなければならない義務感を負わされてきたのだ。
私にとっては、両親を助けて、起こりくる問題を小さくするか、助けなければ起こってくるであろう問題に耐えるか、どちらかを迫られていたような気がする。
助けなければ起こってくるであろう問題は、被害も大きく、恥ずかしく、それを避けるために私は先回りして彼らの世話をする特性を身につけた。それはもう無意識のうちに。
また、それを果たすことで、私は心の安定を得た。
私の人間関係はそうして作り上げられていったんだ。
今回、この人間関係のワークショップを受けて改めて感じたことは、彼らは確かに助けを必要とするが、私はもう彼らを助けなくとも良い! ということだ。
彼らは彼らの問題に直面すればいいのだった。
それはある意味彼らにとって必要なことなのだ。
そして、自分の問題を解決するために、助けを行う人たちを探せばいいのだった。
社会にはそういう人たちがちゃんといるし、そういう人たちの助けを得れば、彼らというユニットの中でなんとか対応できるのだ。
その助けの手は、私でなくていい。
可能な限りの助言やアドバイスはできるのかもしれない。でもそれは、私の境界線のなかで、私が本当にやりたい範囲で、だ。
そしてそうした助言の結果、彼らが何を選ぶのかは、また彼らの自由だ。
今までそうすることに罪悪感を覚えていた。私は家族がしでかすことで広がっていく責任をどこまでも負わなければならないような気持ちでいた。
でも、そんな責任はない。
大人になった私という個人が負わなければならない責任と、彼らが押し付けた家族という責任の範囲はあまりに違っていたのだった。
彼らはもう、私なしで生きていけるのだ。
そう、私はもう彼らに私を必要としないで生きていってほしい。
それって、本当は親が子供に望むことじゃないの?
親は子供が自分たちを必要としないぐらいに自立し、生きていくことを望むんじゃないの?
今回「権利と義務」を確かめて、自分がバカみたいに酔わされていたんだなとわかった。
私は自分が本当は自分の責任ではないとわかっていながら、そう感じてはいけないと思い、罪悪感を感じていたのかな。
私は自分が負わなければならないと感じさせられた責任の幻想ではなくて、私個人の権利を追わなくちゃ! と思った。
私はそれに対して一生懸命にならないといけないのに、他人の問題に首を突っ込むばかりで全然できてなかった。
ごめんね、私。
真実は痛い。
それは確かに痛みを伴うのだが、やはり正しい知識を知ることは、私の世界をよりクリアにしてくれる。
今回のワークショップではより鮮烈に感じた。
ああ、よかった。
罪悪感なんて幻想だった。
私はもう、彼らを助けなくてもよい。
彼らのための人生をおくらなくてもいい。
今やっと、自分でそう感じられた。
これから私がしていくこと、それは自分を「満たす」ということ。
自分を他人に合わせてヘコませないで、そこを夢で満たしていくこと。
夢を叶える時間でいっぱいにすること。
自分の夢を叶えるという作業に夢中になること。
これが私の人生で私にしてあげられることだ。
私はわたしに集中する。
確かめるのにそれはそれは膨大な時間を必要として、お金も掛かり、トライ&エラーで行きつ戻りつもする。
でもそれは、子どもの頃、わたしが求めても決して与えられなかった関心。
わたしが何を望んでいるのか、何をしたいのか、何が自分にフィットするのか。
そして、やってみてどうだったか、何に違和感を感じたのか、そんなこと。
誰も重要視せず、なかったことにされたこと。
それを今自分でじぶんにしてあげられることは、とても贅沢なことだし、わたしは私が守ってあげられるし、育てられる。
そういう自分を守れる力が私にもあるってことは、今大人でいてとてもうれしいことだと感じた。
そして今回新鮮だったのは、「癒す」という言葉。
満たされたからといって、癒される訳ではないということ。
これは今の私にはまだ到達できない心の深み。
この両輪で自分を作り上げていくこと。
それは自分に戻っていくことかもしれない。
私も自分を満たしながら癒したいと思った。
長い長い道のりだろう。
知れば知るほど長くなる道程だけど、今ここを確かめながら一歩づつあるいていこうと思った。
「冬の大勉強 & 大準備会」では沸き起こる疑問を質問し、また、他の参加者の方の質問を聞いて、さらに理解が進みました。
それぞれ育ってきた環境、日常や状況は違うけれど、今、みんなも歩いていることを強く感じて、力をもらいました。
「じゃびえれクラス」の皆様、本当にありがとうございました。
優月さん、ONSA スタッフの皆様、今回も多大なサポートをありがとうございました。
T. S. さん(40代以上/北海道よりご参加) じゃびえれクラス
人間関係という、私にとっては挑戦しなくちゃ前に進まないテーマ。
今年は回復に向けて特に集中的に取組むと決めて駆け抜けてきた。思うようには進まないけれど、その集大成のつもりで参加したワークショップ。
聞いただけで気が重くなる言葉だけど、人間関係は今の私のその先にある大切な課題だった。
プレワークを通じて感じたのは、私は親からもらえなかったものを悲しいほど探してしまうということ。私はどこに行っても、それを求めてはドボンと飛び込みそうになる。
包容力に触れたりすると、はぁぁ~とつい舞い上がってしまう自分に気が付いて、あーあ、まただ…と悲しくなる。
いやいや気付けるだけ成長なのかな。
その場で気付けない時も、後から冷静になって自覚的になっている自分のこと、褒めてあげよう。
学んでいるから気付けるんだ。
やっぱり私は自分のしたいことを探して、自分の穴を埋めていくことが先決なんだ。
薄い関係を幾つも作れるように外に出ていくようにもなった。だけど、ついついそこでべったりの関係を求めてしまいそうになるから、並行して自分のことも満たしていかなくちゃね。
他人の人生をお世話していたら、いつまでたっても私の人生が始まらない。
私の人生が積みあがっていかない。
こんなに大変な思いをしてきて、それでもなお私のエネルギーがだだもれになっているなら、そんなの割に合わない。
だから、私は私の人生を始めよう。
私のために生きよう。自分の人生を自分の手で取り戻さなくちゃ。
いつも毎回そうだけれど、ワークショップで学んで、私は自分の人生を前に進めることを、改めて強く決意する。
そしてまた前を向いて歩き出す。
一緒に歩いているお仲間さん、そして伴走してくれる優月さんやスタッフの皆さんの存在を心強く感じながら、自分の足で輝く地平線へ向かって歩いていく。
そういう自分を誇らしく思う。
今回もありがとうございました。
T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) じゃびえれクラス
帰った2日後から、肩と首が痛み出した。
消えない痛みとともにあったのは、不安でたまらない心だった。
私の心が不安を覚えるとき。
それは、私が私自身を責めているということ。
「今、この状況をありのまま受け止めること」
「受け止める勇気を持つこと」
「自分が、自分の一番の味方でいること」
「ありのままでいい。私は私のままで十分であること」
回復に取り組み始めてから、言われ続けてきた言葉の意味が、輪郭を帯びてきたように思う。
それと、私は目の前に現れる「面倒なこと」に対して
「仕方ない」
「こんなもんだろう」
「何とかできる」
「こういう解釈なのかもしれない」
そんなふうに考えて、対応してきた。
ずっと当たり前のことだと思っていた。
社会性のひとつだとすら思っていた。
実際のところ、それは私にとって、とてもやっかいなことだった。
「面倒なこと」
「かちんとくること」
に対して、その感情をそのままにしておかず、私が私をゆがめてしまう。
従わせてたり、ときにはやり込めてしまう。
私が私をねじ伏せているのだ。
これから私がすることは、私の感情のセンサーをそのまま認めて、受け止めること。
解決しようとか、納得しようとか、そんなことはいらない。
「生きる私」をそのまま信じてゆきたい。
T. M. さん(40代以上/東京都よりご参加) じゃびえれクラス
おつかれさま。
本当に、よくがんばったねと声をかけてあげたい。
ワークショップ・クラスを終えてからの1週間、これまで以上にきつかった。
身体もそうなんだけど、それ以上に、これまでやってきたことと学んだことがミックスされて、あれこれ考えたり、いろんな思いとかが出てきた。
これまでの自分を大事にすることを続けてきたことを私自身が認めている上でだけど、本当に、共依存って手強いわ…と思った。
血肉となって身体に染み渡っているのを感じた。
これまでも、頭じゃなく心で感じることを感じ取るようにしてきたけれど、それでも自分が思う以上に頭で考えているような状態が共依存の症状だけではないと…。
どこまでも、自分ではそう思っていなくても、血肉となってできてしまったもの、当たり前すぎるところに共依存があるのだと思った。
それはあるときは、理想像からくるものであったりもする。
そんな当たり前にやってきたことがそうなのかも? と思うと、くらくらするような1週間だった。
また、知識として学んだ共依存の原理も知れば知るほど、あれあれ?? と、原家族や今の家族との関係性を考えずにはいられないな…とある種、観念すら思った。
きついわ…、正直。
まだまだやることが満載じゃないか…。
打ちのめされそうにも感じるけど、それよりも強く感じるのは、自分の強さのほうだ。
向き合っていくことに、怖さも感じるけれど、それでも私は、これらのことにひとつずつ向き合っていく、それを選択する。
よいタイミングで、このコースを受講できて、よかった。
人のお世話ばかりしてしまいそうになるのを、ぐっと踏みとどまれる力をつけていきたい、そう思った。
優月さん、クラスの皆さん、ありがとうございました。
N. T. さん(30代/東京都よりご参加) じゃびえれクラス
今回、2回目の参加になる「冬の大勉強 & 大準備会」。
参加する前は、気持ちが落ち込んでいて、参加をキャンセルしようかと思っていた。
でも、今思えば参加してよかった。
当日参加して感じたことは、私に何らかの問題があるらしいとわかっても、優月さんも、お仲間さんも、優しく、あたたかく迎えてくれたことに驚いて、ものすごく安心したこと。ここにいてもいいんだと感じられ、感謝の気持ちが生まれ、心があったかくなった。
「冬の大勉強 & 大準備会」のテーマは「人間関係」だったけれど、私にとっては、「春の大勉強 & 大準備会」までの私の次の指針や方向性を改めて見つめ直す会だったなと思う。
私は生きづらいところにいて、人の援助も必要で、でも援助をかりればちゃんと社会で生きていけること、私の足りないところを補うこと。絶望しつつも、前へ進む方法をもらった気がする。
そういう部分については、私がしんどくならない程度にやってみようかなと思い、早速今行動にうつしている私がいて、驚いている。
人間関係に関しては、関係を切ってしまうことに関して、私は0か100の極端なやり方しか知らなかったなと思う。思えば、もっと穏やかに離れたり、離れなくてもその時だけ距離をとったり、やり方はあったんじゃないかなと今冷静にみれる。
関係を広げないことは広げないというところは原家族から受け継いでしまっているように思う。
これは改善したいというか、先入観ですぐに判断するんじゃなくて、じっくりみつめて判断したい。
言葉にするのが難しいけれど、アフターワークをしながら気づいたことは、私が社会に出るときに必要なこと(人との関わり方、関わりを広げていくこと、知識を補うことなど)を、特に生きづらい私にとって必要なことを、子供時代に学べなかったことは大きい。
それが今の生きづらさになっている。
今回参加して、本当によかった。
参加せず、Web. WORKSHOP だけを受けていたら、違っていたと思う。
プレワークだけじゃなくて、当日参加することで知識以上のこと、私にとって大きなプラスαをもらった。
自分を満たすことと癒すこと。
これを両輪でやっていくこと。
これに関しては、Web. WORKSHOP で吐き出し続けること、自分を知っていくことをやめないこと、今やりたいことを行動にうつしていくこと、専門書を読んでいくこと、自分の足りないところを補っていくことをしていこうと思っている。
まず、できるところからやっていこう。
当日の昼休憩中にふと降ってきた言葉。
「皆ちがっていて、皆いい」
これは私にとって真実だと思う。
今はまだしっくりこないけど、この言葉を胸に刻んでいこうと思う。
Y. T. さん(30代/島根県よりご参加) じゃびえれクラス
今回のワークショップ・クラスでのお話は、正直、まだ消化できていません。
「冬の大勉強 & 大準備会」という名前がついているけれど、私にとっては、とてもたくさんのエネルギーが必要なクラスでした。
今のまだ、その余波が残っています。
そして、このクラスのテーマは、「人間関係」。
大きくて、漠然としていて、どこからどう手をつけていいのか分かりにくいテーマだと思っていたけれど、必要なのは、とてもシンプルなことでした。
私を大切にすること。
私の人生に、私が集中して生きること。
やっぱり、要はここなんだ、と思いました。
ワークショップ・クラスの中で書いたわくわくリスト。
私、けっこうやりたいことがたくさんあるなぁと感じました。
学びたいことや深めたいこともたくさんある。
それなら、シンプルにやりたいことをやってみよう。
今、この瞬間からそういう風に生きよう。
私の時間を豊かにできるのは、私しかいないのだから。
皆さま、ありがとうございました。
A. Y. さん(40代以上/東京都よりご参加) じゃびえれクラス
今までずっと抑え込んできたやりたいことをやり始めたら止まれなくなっちゃったと思っていたんだけど、そうではなかった!
わたしはどのみち止まれないのだった。
とまることなんか知らない。
ただ単に中身ががちょっと変わっただけだった。
勢いの回転数はまるで緩むことなく…。
わたしは自分が一気に解決しようとしてるとは思ってなかった。
だけどようはそういうことだったんだなぁ。
「まずは普通に戻らないといけない」
そういう風に思っていたんだ。
なんかとにかくまずは形をちゃんとしてから、それから普通に戻って、それから夢を考え始める。
わたしは自分が夢を考え始めるなんてまだ早いと思っていた。
夢のことなんてとんでもないと思っていた。
身の程知らずだと。
そんなことまだまだ先の話だと。
そうではなかった。
実はそれこそが命綱だった。
命綱もなしに崖を登ろうとするからとんでもなく大変だったんだ。
しがみつくものが何もなければどこを支点に登るのか? そういうことだった。
どんな風に生きて生きたいのか?
どんな自分になりたいのか?
これがわからなかったら結局元の木阿弥。
何をやっても今まで通り。
誰のものだかわからないストーリーのつぎはぎは終わらない勢いで続いてゆくだけ。
しかも勢いを増して。
今のわたしが柱に構えるべき時間は未来を考える時間なのだった。
未来を想像する時間なのだった。
自分の未来を考える時間なのだった。
それを確保しないといけないのだった。
生活の円滑な運営の土台の上に。
わたしにはめ込まれているドライブは永遠に終わらないストーリーの継ぎはぎ。
わたしの心やハートの声は永遠に無視され続けていく反応のループ。
これがしんどさの原因であった。
自分が被っている被害規模の桁をわたしはだいぶ軽く考えてるんだということもわかってきた。
本当にそうなんだ。
ただただ、圧倒されそうだという感覚からわたしはすぐにそれを知ることを手放してしまう。
今までそうやって自分を守ってきたから?
だけど今こそ。ちゃんと仲間もいてケアに繋がれているいまだからこそ。
その規模と実際の桁数が迫ってもなんとかスルーせずにいられるけど、それでも無理してまで感じようとすることないんだ。
わたしが感じられる程度にわたし自身がきっと感じるから。
わたしはそのことをもっと信用していいんだと思う。
実態を感じればそのときものすごい大きな怒りの感情が蠢く。
わたしはでも、生活の方を大事にしてこっちはゆっくりやってゆかねばならないと思う。
とてもじゃないが、一気には無理だ!
この量。この半端ない感情の量。怒りの叫び!
ゆっくりでいい。ゆっくりでいい。
わたしの器がしっかりした分量だけ。
安全だと感じられた分量だけが放出されるんだ。
わたしにできることはただ一つ。
ガッチリした器を育て上げることだけ。
共依存=取り憑かれている嗜癖。
嗜癖だからやめられない甘さがあって。
それはこの感じだなっていうのがわかって。
そしてまさにやめらない感覚もわかった。
終わらないこともわかった。
永遠の繰り返しだということも。
だけどその「分かる」度合いだってわたしのコントロール下にはない。
そのこともよく分かる。
だからもういいって思う。
まっすぐまっすぐに自分と向き合うだけだ。
ただそれだけだ。
そしてきっと死ぬまで。
わたしの命がなくなる日まで。
わたしはそれを続けるだけだ。
人間関係はわたしが思うよりももっとずっとドライなんだ。
薄々感じてはいたけど信じられなかった。
それではダメだ! って脅されてきたし本当にダメなんだと感じてきてたから。
そして同時にこってりした関係を自分が本当はどう思っているのかも少しずつ掘り下げてきていて、そこには嫌悪感、吐き気、苦しさがあることも見えてきた。
気持ち悪い吐きそう。疲れるしんどい。無理。
気持ち悪いのに引っ張られる感覚。ありえない。あり得ない!
今現在飲み込まれてしまっている人間関係に「気づく」ことは難しいだろうと思う。
でもそれでいいんだ。
大丈夫、ここまできたんだから、これからもわたしを信用して大丈夫だよ。
わたしの人付き合いの仕方も変わってきてるし世界観もどんどん変わってきてる。
そのことは自分でも感じている。
あれ、なんか前とは違うなっていう感じは時々ある。
だから大丈夫!
もっと自分の気持ちを大事にして、もっと自分の好きに素直になって、ゆっくりゆっくりでいいから、自分にできる限り正直になってみよう。
ワークでは二つの紙をを見比べた時自然と笑ってしまった。
わたしが今までの人生で真剣にどうにかしなければならないと感じてたことは、自分の人生にとって本当にどうでも良いことばかりなのだった。
そのことが笑える。
笑えるのだけど、今は笑えない結果を伴っている。
だけどそのこと自体も決して決してわたしを卑下する材料に使うものではない。
胸が痛むけれどでも、わたしは生きている生身の人間だから。
あれはダメだこれはダメだということのできない尊い存在だから。
そこにダメ出しをするのが当たり前である人間観があっても、そんなもの信じなくて良い。
くそっくらえで放り投げて良い。
なんていう悲惨な人間観なのだろうか!
今までの人生の全てがわたしの精一杯の軌跡だった。
それをああでもないこうでもないという人に耳を傾けたりしなくていい。
ありえないから!
それでも壊されてきたものに腹は立つ。
だけど命を最大限に使ってわたしができるだけのことをしていくしかないわけだし、そのレベルがいいとか悪いとかそういう物差しがきたってわたしにどうできるのか?
わたしは精一杯やってる。
よくやってる。
自分なりに考えて自分なりにアンテナを働かせて、一生懸命に生きてることに変わりはない。
今切羽詰まっているけれど。
その中でできることを必死で探しながらできる限りのことをやってるじゃないか!
これ以上どうしろっていうんだ!
それぐらい頑張ってるじゃないか。
自分というものをつぶしてしまう病に侵されているんだ。
そういう風に自分のことを捉えると心底ムカついてくる。
腹が立ってくる。
元夫との関係において、自分の原家族との関係性において、わたしが失ってしまっている主体性を取り戻すことがおそらく不可能に見えるから。
ものすごく腹がたつ! どないしてくれんねん!!!! といちゃもんつけたくなる!
原家族に対してはある程度は毅然と振る舞えるかもしれないが、お金のことでがっつり主導権を握られてしまって将来的なことも混ざってしまっている今の元夫との関係では、少なくとも元夫に対してわたしが主体性を取り戻す日が今はくると思えない。
相当時間がかかると思われる。
そのぐらい丸投げが当たり前になってたんだから仕方ないんだ。
だけどゆっくり取り戻すんだ。
自分の受けた被害、今共依存が染み通った身体になってしまっていること。
ともすればすぐに丸投げを敢行してしまうこと。
そのことはわたしのせいじゃないんだよ。
そういう捉え方の説明を聞くたびに涙が出てくる。
その涙はやっぱり悔し涙、怒りの涙だったと思った。
ものすごく大きな怒りがあるんだ奥底にそれがほんの少し染み出して涙になってる。
今すぐ解放すれば大爆発起こしそうなぐらい大きな怒りの塊だ。
夜中にわたしはまたスキーでヒビの入った左足が燃えるような感覚で目が覚めた。
わたしは夢を追っていいと思えていなかった。
そんなことはまだわたしにふさわしくないと思っていた。
苦しい生き方我慢の生き方がわたしにとっては自然で普通。
夢を思い描いたりそこへ向かって進むなんて。
無理だしダメだしできない。
身の程知らずって思える。
それでもワークの時に紙を渡されて見慣れた表にどんどんと書き込むことができたのはそのことを考えたり思いついたら書いたりする習慣ができてきてるからだね!
そして、今回わかったことはそっちをやるんだってこと。
そっちが本業でいいんだってこと。
本当にそっちがメインなんだってこと!
ともするとわたしは間違っていたらやだからと思うとかけないし決められない。
けど「今のところの仮定で大丈夫」という言葉があると書ける。
7月に書いたやつと見比べてみたら書き方も書いてある内容もだいぶ変わってた。
そんな風にゆっくり変化はあるから信じていいんじゃないか、頑張って続ける価値があるんじゃないか、こっちでいいよ! こっちであってるよ!
目に見える変化はそういうフィードバックだと思っていいんじゃないかな。
ONSA に関しても、わたしは心のどこかでいつかはやめなくてはいけない。
ずっと続けるなんて身の程知らずだという感覚があった。
だからさっさと終わらせて、ちゃんと生きなくてはいけないんだと。
だけどそもそも「ちゃんと生きる」ってなんなんだろう?
わたしが望むのならば、そしてそれが自分にとって必要だと感じるのであれば、自分に可能なだけ、その恩恵に預かってもいいんだ。
そういうことは自分自身で選べるんだということ。
そもそもの自分自身への考え方捉え方が呼吸ぐらい当たり前になっているそのことが、ある意味見直しを迫られている部分だから、これはものすごく大変なことだぞっていう気がする。
でもね。
でもやっぱりね。
わたしはよくやってると思うんだ。
よくよくやってきたって思うんだ。
動かないように見える山をじっくりと動かせてきてるかもしれない。
こんなに一生懸命に生きてる。
本当に一生懸命にやってる。
もうやだ無理だと喚いてきた。
だけど本気でやだとは思っていない。
もう無理生きられないと言いながらもそんなこと微塵も思っていない。
わたしは生きようと思っている。
生きられるだけしっかり生きようと本当はそう思っているんだ。
なんとかどうにかできないかしらそう思うから色々考えるしやって見るんだ。
だからもういいんじゃないかな。
自分を責めるのはもういいんじゃないかな。
追い詰めたり追い込んだりするのはもういいんじゃないかな。
できる範囲でできる限りのことをできるだけちょこっとずつやっていく。
それでいいんじゃないのかな。
こんなに頑張って生きてきた人きっといないよ。
こんなに一生懸命わたしを生きてるのはたった一人わたしだけだよね。
ほんとよく頑張った。
ほんとよく生きてきた。
人間ってとてもすごく個性的だった。
おいそれとはシンクロできないほどにそれぞれがそれぞれに色濃くあって、たまたまや偶然から一瞬ぐらい合うところがあるとしてもずっとずっとシンクロし続けてるなんてありえないことなんだよなぁ。
それにどこかがあったとしてもあってることが嬉しくもあるのに、すぐに違いをまた探したくなるものだし、しかもそれでいいんだ。
そんなことさえも制限されていつもいつも阿吽の呼吸を求められて合わせさせられて息苦しかっただろうね。
もうそんなことしなくっていいんだ。
わたし自分のことばっかり考えてていいんだ。
自分のペースを一番に考えていていいんだ。
なんでそんなこと制限されちゃったんだろうか。
阿呆らしい。
くだらない。
馬鹿げてる!!!
あああ!!! 本当に馬鹿げている!!!!!!!
くっそーーーー!!!!!!
こんがらがってしまっている関係は徐々に変化させてくしかない。
関係の中心にいると重心が見えなくなって狂ってしまうし、そんな中ひたすら自分を求めていくしかないのだ。
きっとひたすら自分がどう思うのか、どう感じてるのか。
そのこととのアクセスを強化してゆくのみ。
きっとそうだね。
素敵だな、と思う女性がいた。
そして前ならわたしはあんな風になりたい。
なんて思って根こそぎ持って行かれていたんだけれど、今のわたしは、いかんいかん! とすぐに思ったのだった。
わたしはわたしになるんだった。
わたしはわたしでいていいんだった。
わたしらしくいよう。
わたしらしく生きよう。
それが一番心地いい、わたしにとって、という道を選択しよう。
生涯にわたって。
今日今この時だけがいいという選択肢ではなくってはるか遠くにある本当のゴールに近づくための選択をしよう。
今をいつも自分の一番過ごしやすいお城に変えてゆこう。
他者と関わる機会は今までのわたしよりも格段に増えてる感じがするんだけど、その中身の比重が変わってきてる。
どんどん変わっている。
自分への重心が育ちつつある。
もっともっと自分に集中。
もっともっと。
感覚はだんだんわかるようになるって。
もっと信じてみようかと思う。
ここまで来た、ここまで来られた自分をもっと信じてみようかと思う。
急がずに焦らずに慌てずに。
時間をたっぷりかけて良いことにしてあげて、じっくりとゆっくりと、見守ってあげたいと思う。
気を緩めずに。
S. T. さん(40代以上/岡山県よりご参加) じゃびえれクラス
当日、事情により参加できませんでした。
いえ、正確には参加しませんでした。
参加しないことを選択しました。
その時の感情は「行きたい、悔しい、なぜ? どうしてこうなる?」でした。
ただ、それよりも私にとって優先したかったのは「父との別れ」でした。
家族に任せてワークショップ・クラスに行くという選択肢が頭をよぎりましたが、その選択をすれば未来の私が後悔することになると判断しました。
今、こうしてふり返ってみると私はちゃんと自分で判断して行動できたのだと分かりました。
「~な時は、○○するのが当然」とか「~になると、○○するのが常識」といった価値観ではなく、私は何を大切にしたいかを自分のなかで吟味して行動しました。
当日のワークを受講することができなかったのは、本当に残念です。
後日送付していただいたワークシートを見るだけで
「これは今の私にとってとても必要な知識が得られ、実践が必要なワークだ」
とすぐにわかりました。
正直、当日参加したかったという悔しい気持ちはあります。
そして、そんな気持ちになることも納得の上で選んだことです。
この悔しい気持ちは今後の回復作業の原動力にしていきます。
今回、一連の「父との別れ」を経て、自分の人間関係の術(やり方)は私だけの問題ではないと痛感しました。
私の原家族における関係性が基盤となっていること、その根本には両親の成育歴や家族及び親戚関係があること、さらには時代(日本社会、歴史)の流れに多大な影響を受けていることを再確認しました。
私個人の人生がこんなにも様々な人や社会の価値観に影響を受けてしまうこと、個人の人格や人権や人生がこんなにもたやすく周りの風潮や社会の価値観によって翻弄され奪われてしまうこと、そんな重大なことに気付く人の方が稀有で、無意識のうちに自分の人生の舵を他者に預けてしまっていること、だからこそ、世の中や世間といった多勢に左右されないだけの個人の力や判断力をつけておくことが必要なのだと感じました。
この1週間、私は自分の気持ちを見失うことなく事に当たることができました。
私はどう思うのか、どう感じるのか、違和感を丁寧に拾うことを心がけました。
そして、自分の時間を少しでもとること、必要であれば自分の思いを人に伝えることを大切にしました。
ワークショップ・クラス当日は不参加でしたが、「私はこのクラスで人間関係を見直すことに取り組んでいる」という意識がもてていたのだと思います。
怒涛の1週間でしたが、自分を保ちながら行動できたと思っています。
これから、当日のワークシートを自分なりに活用しながらアフターワークに取り組んでいきます。
K. K. さん(40代以上/宮城県よりご参加) じゃびえれクラス
人間関係って、本当に怖い。
生きていくために必要なものなのに、たった一言どころか助詞の使い方ひとつ、目線のひとつで、自分や相手の人生を変えてしまうことすらある。
みんなより良い方向に生きようとしているはずなのに、誰かとの出会いや関わり合いで、ほんのちょっと歩く方向の角度が違ってしまい、歩き続けているうちに全く違う方向に行ってしまっていたりする。
でも、人と関わらずに生きていくことはできない。
きちんとした人付き合いも学ぶことができないままこの歳まで来て、今更何とかなるものですか????? 何とかなったとしても残り時間はどれだけ残されているの??? と、思う私もいる。
でも、このまま死んでいくには悔しすぎるから、自分と良い関係を作るところからやろうと思う。
何度こう思って来たんだろう。
でも、歩く道が少しずつはっきりしてきたと思う。
ともかく最初に一生の付き合いをする自分自身との関係を、丁寧に立て直そうと思う。
| ONSA WORKSHOP は「回復者」が「主催者」のワークショップ
ONSA WORKSHOP は、「体験者」であり「回復者」が主催者のワークショップ。
基礎に忠実でありつつも、現実の状況に即した、実践的な内容が特徴となります。
「人生は、いつからでも変えられる」
多くの方が、プログラムをつうじて学ぶことで現状を変え、新しい時間を生きはじめています。