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ひとつ前のページの、「緊急事態条項」の説明。
もう、なんというか、見るからにやばいですよね……。
「緊急事態条項」が、見るからにやばいのは、わかった。
では、そもそも論として、「何がいちばんダメなの?」ということを、一緒に見てみたいです。
「緊急事態条項」が、いちばんやばいのは、こういうことだと思う。
「あなたという存在が、否定されること」
「あなたの人生も、否定されること」
「あなたの、個人レベルでのアイディアや、考えの否定」
「つまり、”個” としてのあなたの、存在否定」
「あなたの人生も、否定されること」
「あなたの、個人レベルでのアイディアや、考えの否定」
「つまり、”個” としてのあなたの、存在否定」
「あなたは、国家のひとつの、駒に過ぎない」
「あなたが国家の考えに従わないなら、あなたは国家にとって、邪魔な存在」
「あなたの代わりは、山ほどいる。邪魔にされたくなければ、従順な駒になれ」
「あなたが国家の考えに従わないなら、あなたは国家にとって、邪魔な存在」
「あなたの代わりは、山ほどいる。邪魔にされたくなければ、従順な駒になれ」
この考えを、私は本能的に、受け付けないです。
おえっとします。
適切に理解するために、ぐぐっと遠いところから、話をはじめてみたい。
たとえば、あなたの今日は、どうでしたか?
仕事は、忙しかっただろうか。
今日は、やったぞ! ということが、あった?
あるいは、気にくわないことがあったり、イライラしただろうか。
帰りがけに飲んだお茶が、ことのほか、おいしかったとか。
昼休憩の時のお弁当が、秀逸な出来?
「推し」が、今日はとりわけ輝いていたとか、あります?
あるいは、来週末に、みんなで集まることになった。
魚食べるんだよー、楽しみ楽しみ! みたいな感じでしょうか。
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話を、もう少しだけ、後ろに戻させてください。
私(著者)は本を作っていて、ワークショップを運営しています。
当然のこととなるのですが、本を買ってくださる方も、ワークショップに来てくださる方も、悩みを持っている。
だから、本を買うわけですよね。
あるいは、ワークショップに参加して、共に学び、自分を知ってゆく。
「個人として、少しでも、よい人生にしたい」
「どうせ生きるなら、笑って、幸せに生きたい」
あまりに、人として、当たりまえの感覚。
当然のことです。
ところで、本の読者の感想を、直接的に聞けるチャンスは、著者は案外少ない。
でも、ワークショップのご参加者の方とは、ぐぐっと近い距離感になる。
たとえば、一緒にワークしていると、一緒に喜んだり、笑ったりする。
「これを、絶対に乗り越えたい!」
こんなふうに、がんばっている時には、ものすごい共感がある。
大きな山を越えた時には、一緒に「やった!!」です。
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ひるがえって、あなたの日常もきっと、同じ感覚ですよね。
落ち込んでいる時には、誰かに話を聞いてもらうと、嬉しい。
たとえ世間的には、「取るに足らない」ものであったとしても(……ぜんぜん、そんなことない!)、悩みが解決したら、ほっとする。
目標がかなったら、嬉しい。
あるいは、誰かと仲良くできたら、嬉しい。
告白して、オッケーがもらえたら、とても嬉しい。
ちょっと気まずくなって、でも、互いに許し合えたら、すごく嬉しい。
あるいは、大切な人のお祝いを、みんなでできると嬉しい。
平凡だけれど、家族や大切な人たち、犬や猫たちが、健康であったら嬉しい……。
“生きている” とは、ささやかで、個人的なことの連続。
そして私は、これこそ、大切な価値だと思う。
あなたの「小さなこと」は、実は、一大事。
私たちはみな、それぞれ自分の「小さなこと」と向き合いながら、生きている。
それが、”生きる” ということ。
もっと言えば、それこそ、人生だから。
ひるがえって、この「緊急事態条項」が、なぜやばいのか。
それは、これら “小さなこと” の価値を、無効にしてしまうから。
ひらたく言えば、こういう考えでしょう。
「今は非常時ですから、個人のことより、お国の都合が優先です」
「あなたの考えや意思なんて、あなたにとってすら、二の次にしてもらわないと困ります」
……え。待って。
国家の主役を、誰だと思っているのですか。
「国民主権」、つまり「主権在民」です。
重要ですから、もう一度、繰り返しますね。
民(私たち)の権利が主で、その権利を守るために、国がある
= これを、「国民主権」と呼ぶ
= これを、「国民主権」と呼ぶ
この「国民主権」「基本的人権の尊重」を、一気にぶっ飛ばしたら、……相当まずくないですか?
もう少し噛み砕いて、見てゆきたい。
事実として、世の中には、いろいろな都合の人がいます。
外側から見たら、想像もできないほどの事情を抱えている方だって、いらっしゃる。
そして別に、それらを全て「ぶちまけない」と、日本に存在して “ダメ” なわけではない。
生きるとは、あいまいで、不確定なこと。
それでも、迷いながら、刻々ひとつずつ決めながら、生きている。
それぞれの事情を抱えながら、譲り合ったり、はんぶん目をつぶったり。
時には、そっと助け船を出したりしながら、私たちは暮らしている。
どうできるか、できないかは、その時々で、話し合って決めればよいこと。
だって、「その事情を抱えた人」も含めて、全員が、国の主役と決まっているのだから。
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ところが、この「緊急事態条項」。別名、「国家緊急権」。
昔の言葉で言えば、「治安維持法」。
この精神を、さらに詳しく説明するなら、こういうことでしょう。
「緊急事態に、国民がどうしたいかなど、いちいち聞いていられない」
緊急時に「政府が決める」ということは、そういうことですよね。
言葉を変えれば、国民の意見は、「要らない」ということ。
でも、考えてもみてください。
緊急時だからこそ、多様な意見がなければ、本来いけない。
多角的にものごとを見なければ、緊急事態を、安全に回避できない。
むしろ、反対者の意見こそ、大事だったりする。
それも含め、総合的に聞かないと、リスクに対処できない。
これこそ、私たちが80年前、犯した過ち。
一部の人たちが、「自分は正しいのだ」と “思い込んでいる” ことだけで、国民全体を巻き込み、盲目に戦争に突入してゆきました。
多くの平凡な命が、駒として、奪われた。
やりたいことも、好きな人も夢も、望む人生も、きっとあったのに。
あなたや私と、同じように。
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この「緊急事態条項」の精神は、同じあやまちを、ふたたび繰り返そうとしている。
「政府が、いちばん賢い。最善に対処できるに決まっている」
「だから政府が、国民にとって “何が最善か” を決める」
「その際に、国民の意見はいらない。多様性もいらない」
「反対者なんて、しょせん異端でバカ。ものごとの全体像なんて、見えちゃいない」
「異論自体を、禁止します。緊急事態ですから、めんどくさいので」
「異論を受け入れる場・ダブルチェックする場も、いらない」
「個人は黙って、国家/政府が決めたことを、受け入れなさい」
「いやいや、そこの著者さん。待って、それはあなたの思い込み過ぎで、オーバーだよ」
「そうまでは、言っていないでしょう」
……と、言えるかな。
なぜなら、これこそ今まさに、現在進行形で起こっている考えでは?
だから、弁護士会はじめ、たくさんの有識者や国民が、全力で反対してるのでは?
「国民全体への影響のために、(科学的なエビデンスが極めて怪しい)ワクチンを打つべき」
「全体への迷惑を考えたら、個人の “小さな” 要望や希望など、取るに足らない」
「子どもの未来への、影響が心配? だから打ちたくない?」
「あなたの子どもの、たった1人の勝手な選択で、周りがどれだけ迷惑するか」
「ワクチンが安全か? 原料 “黒塗り” の是非なんて、緊急時には、取るに足らないこと」
「学者や医者が『データ』『エビデンス』と騒いでいるが、彼らには、何も分かっちゃいない」
「ああ、”陰謀論者” ですから、その人」
「国が『大本営発表』するワクチン情報以外は、陰謀論で、異論で、偽情報で “デマ” です」
「政府発表以外の “デマ” 情報に、惑わされないで」
「黙って、国家方針に従いなさい」
「医師も看護師も、あなたの自論はいらない。黙って従わなければ、免許を剥奪するぞ」
これが日本で、そして世界で今、起こっていること。
だからダメだと、私は思います。
「あなたもまた、一人の国民として、その考えや意思も、尊重される」
この「主権在民」の考えと、真逆の方に、行ってしまっている。
過去と同じ過ちの方向に、ぐんぐん迫っていると思っているから、私は「反対」。
「賛成しません」という言い方ではなく、「緊急事態条項」には、明確に「反対します」。
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